三章 隠者の系譜 ⑨
人目をはばからず、しばらく泣いてしまった後、俺は断って外に出た。
少し、一人になりたかった。
人気のない夜の草原が見える場所で、座って膝を抱え込んでしまう。なんともやりきれない気分だった。
早めに立ち直らねばならないことは分かっているが…、そううまくいくものでもない。
自らの体を見た。今宵の体色は深淵の黒。――この体の色は、その時の状況や己の心を反映しているのかもしれない。ふとそう思った。
早めに元に戻らないとならない。この状態で、自分を動揺させることは、もっともやってはならないことの一つだ。すでに夜の闇がおかしい。俺の悲しみや苦慮に引き寄せられ、苦界にいるものたちが怨嗟と悲哀の声を上げ始めている。共鳴の呼び声だ。俺を取り込もうとしているのだ。今はまだいい。朝日を浴びれば消えてしまう程度のものだろう。――だが、今己がこれらに取り込まれると――どうしようもなく、大変なことになる。
「――何か?」
振り返らずとも、足音だけで誰かが来たのはわかった。ここにたどり着く前に、背後へと声をかける。足をそこで止めた人物は、ややためらった後、そこから声をかけてきた。
「旦那もビビってるし…、仕方ないから、あたしが来ました。――多分これ、先生のせいよね?」
夜の背景にかすかに混じる、悲痛な声、呪いの叫び、すすり泣き…、勘のいいものしかはっきりとは分からないはずだが…。虫の声すら聞こえない今の状態では、気付いている者の方が多いだろう。俺は返事をしなかった。
「――で、たぶん、これはあたしが言わなきゃならないことなんだと思う。だからもう一つは来ました。――さっきからね、先生の隣にずっと、先生のお師匠様がいるの。なんか焦ってて、気付いてほしいみたいなんだけど…、でも先生、それに全然気づいてない。」
この言葉には、臓腑がえぐられる思いがした。どうしようもなく、息をのむ。
そして、自嘲した。この状態――霊眼が開いた状態ですら――、人はおのれの闇にとらわれると、何も見えなくなる。「ハハ…」口から乾いた笑いが漏れていた。
「師は、なんて言ってます?」俺は尋ねた。
「そっちにいってもいい?」
「どうぞ。」
今は俺よりも師に近い彼女が、何事か交流している気配がする。
しばらくした後、俺は唐突に、後ろから暖かく、柔らかいものに包まれた。
それがホルンさんの腕で、彼女に後ろから抱きしめられていると気づくのに、ほんの数瞬もかからなかった。
「……はっ?…えっ?ええっ?!なんですかっ?!いきなり!」
「こら!あばれない!…あたしだって分からないよ!でも、お師匠さんが言うには、今、この子にこうして欲しいって。」
「……は?」
「この子は、本当はすごいさびしがり屋なんだ…って。今、自分の手は届かないから、あたしに頼むって、頭を下げられた。こんなすごい人にそこまでされて、断るわけにもいかないでしょ。恩人だし。」
俺は、何も言えなかった。
「一応、断っておきますけど、あたしは人妻ですからね?」
「わかってます。」これには俺も苦笑した。
「でも、なんか、さすがにちょっと…、恥ずかしいというか、イケナイことをしている気はするんだけど?」
「多分…、あなたに同調して、元に戻れ、ということも言いたいんだと思います。今、リョータには頼めないから…。俺はまだ、この状態から一人で元に戻ることができません。――実は少し、困ってました。この夜の異変も、俺が戻らないと、たぶん戻りません。」
「戻るって…、前みたいに?あたしをリョータくんの代わりにするってこと?あたしは何も知らないよ。リョータくんの代わりが務まるの?」
「大丈夫です。自分を普通の状態に戻す指標にするだけですから。」
「……つまり、あたしはどうすればいいの?」
「何も。しいて言えば、こう、触れていた方がいいんです。リョータほど、俺が合わせるのに慣れていないので…。この状態は助かります。」
「…なるほど、それでこういうことか。分かった。」
――しばらくの間、沈黙が下りた。俺は気が散ろうとする自らを叱咤し、何とか彼女の調子を読もうと試みる。
「ま、あたしは難しいこと、分かんないけどサ、先生はよくやったんだと思うよ?」
「はぃ?」唐突に話が振られてきた。何の話だろうか。
「リョータくんを、治してやりたかったんでしょ?…ごめん、近くにいたから、かすかだったけど…、全部、聞こえちゃった。親としてはその気持ち、分かるよね。」
「………。」
「リョータくんはもう治らないの?」
「難しいと思います。」
「…先生でも難しいのか。お手上げだねそりゃ。…じゃあもしかして、ずっとあのまま?」
「いえ、もういくつか対策は考えてますけど…、明日もう一度、診てみないと。」
「さっすが先生、頼もしいわ。…きっと、先生なら、治せるよ。なんとかできる。」
「………そうでしょうか。」
「そうですとも。同じ親だもん。分かるよ。先生だったら、考えて考えて、自分の魔法の力全部使ってでも、何とかすると思う。あの子のためにね。あたし達だったら運命だって諦めそうなことでも、先生はそれを飛び越える翼を持ってるもん。やるでしょ?」
「……。」やるかもしれない。俺はそう思った。
「それで、頑張って頑張って、もうこれ以上どーしようもないってところまで来て、それでもさらに爪たてて歯を食いしばって、壁を乗り越えようとして…、ってとこまで行きそう。先生なら。」
…どうかな、そこまでの根性あるかな、俺に。
「そしてもし、どうしようもなくなったら…、泣くのよ。ちょうどこんな風に。」
…それは…、違う、と言いたかった。買いかぶりだ。俺にはできたことがある。いくら当時気づかなかったとはいえ、言い訳だ。十分に考えられることだった。
俺は単に、リョータ一人を町に送り出し、自分だけが町の暮らしや人付き合いから逃げたのではないかと、そう思い始めていた。
「でもサ、――たぶん…」ここで彼女は一息つき、感慨深げに言った。
「リョータくんだったら、先生のこと、許すよ。――もうどーしよーもないって、なっても――、どうにもならない、ってなっても――、先生のこと恨むわけない。先生のこと、許すよ。」
「……は?」……この言葉には、理解をするのにしばらくかかった。
「…リョータが、俺を、許す?」
「うん。ゼッタイ。あなたたちは、親子以上に親子だもん。許すよ。ゼッタイ。」
リョータが俺を許す…?…考えてもみなかった。俺自身はこんなに、自分を許せないのに?
そんな呆然とする俺をよそに、彼女が下を向いて、ぼそりとつぶやくように言った。
「……私も、…クォンは許してくれるかな…?猫の子として、生まれたかったわけじゃないはずだから。」
「許しますよ!何言ってるんですか、そんなの許すに決まってるじゃないですか!」
俺は即答した。彼女が何を不安に思うのかが心底分からなかった。はたから見ていて、いい親子だとわかる。この両親あってのあの子たちだ。世間ずれしまくったリョータが、この町に溶け込めたのはこの家族のおかげ。この家族同士の交流は、本当にいい空気で、我々でも居心地がいい…。そんな中で、子が親を許さないなんてあるわけがない。なんでそんなことを言うのかわけが分からなかった。
いきなりそう力説し始めた俺を、彼女はしばらく呆然と眺めていたが、やがてくすりと笑った。
「そう。――お互い、相手の子供のことならわかるわけだ?」
「……あ。」
「そういうものなのかもしれないね。」
そうなん、…だろうか。
「……俺たちは、実の親子じゃないけど…。」
「またそういうことを言う!そんな自信ないこと言ってたら、はったおすよ!実際母親をやっているあたしが保証するんだから!二人はもう、親子です!」
この言いようにはびっくりした。あっけにとられて…、そして笑ってしまう。
「…ははは、お墨付きですか?」
「世界中の全てが敵になって、二人が親子じゃないなんて言いだしても、あたしは先生に味方する!…二人はもう親子だよ。――親子っていうより…、家族かな。」
「そうですか…たのもしいですね。」
「…あー、信じてないね?ちゃんと声を大にして、宣言してやるんだからね?」
また笑いが漏れた。
なんだろう?不思議だった。心が軽くなってきた。これが――女の人の強さ、というものなんだろうか。
触発されてきた。…そうさ、何とかなるさ。もしまたどうしようもなく発作が起こっても、俺がいて、リョータの身に危険が及ぶなどあり得ない。今日のように。必要であれば、時だって飛び越えてやるさ。沈んだ自分を奮い立たせて、そう心に誓った。
「ありがとうございます。」
「いえいえ、どーいたしまして。――でも、先生、全然体の色戻らないね。やっぱりあたしじゃダメ?」
「あ、いやー…、話してると、気が散って…。」
「…え?…あ。あっ!あー!そうなんだ!ごめんごめん!そうならそうと言ってくれたらいいのに。じゃあ、黙っといた方がいいんだね?」
「そうですね。」
「ごめんごめん、じゃあ黙っとく。…なんか落ち着かなくてサ、ごめんね。」
「そしたら…。」俺はすこし逡巡した。誰か女性に…、母親と言える人に、いつか頼めるなら、頼みたいと思っていたことがある。頼めるだろうか。
「では、…変なことを言ってるかもしれないんですが…、よければ、子守唄を、聞かせてもらっていいですか?」
「…子守唄?」
「はい。…俺は、母の顔を知りません。そのぬくもりも匂いも。」
「…………ゴメン、旦那から聞いて、ちょっとは知ってる。孤児だったんだってね」
「はい。生まれた時から師匠と一緒だったんでさみしくはなかったんですが…、あいにく子守唄とかはとんと聞かされてなくて…、時に巡回する村で聞きながら、あれはどういうものだろう、と思っていたんです。」
「今、聞きたいっての?あたしの?」
「はい。かなうならば。」
「…あたしの、へったくそなうたでもいいっての?」
「全然。むしろ、ホルンさんの歌がききたいですね。」
「……わかった。ご所望に応じましょう。…でも後で笑わないでね?約束だよ?!」
一つしわぶきの後、やがて耳元で小さく、優しい音律が聞こえ始めた。
…なんだろう、どこか、くすぐったい。何も見えなくなった今の俺にも、届くものがあるのか…。不思議だった。
そのリズムと音域。俺は自分がずっと先ほどより、抵抗なく同調できていっているのに驚いた。
…あ、師がそこにいる。そこにいたのか。不出来な弟子で、ほんとうにすいません…。
何の詰責の念なく、その手が急ぎ伸びてきた。目を閉じる。…そうだ。俺たちがいて…。手が届かないなんてことがあるもんか。大丈夫さ。…やがて速やかに、夜の闇が明けるように、己の体から黒い色が抜けおちていった。
そう言えば明記してなかった気がするのですが、
クォンの妹、ホーリィは完全な人型です。獣人ではありません。




