三章 隠者の系譜 ⑧
「リョータ!」
一体、何が起こったのか。突然、糸が切れた操り人形のように親友の体が崩れ落ちた。クォンはあわててそれを抱きとめる。
「リョータ!どうしたんだ?!大丈夫か?!」
答えがない。完全に意識を失っているようだ。
右目からは血の筋が流れている。血の色をした目には、いい思い出がない。恐怖と混乱で、膝ががくがくと震えそうになりながらも、親友の体を支えた。
殴られたから?でも、いくら殴られたって言っても、そんなに力は入っていないように見えた。
「クォン!」
父の声がした。妹が父を連れ、戻ってきたらしい。二人は息を切らしてこちらに駆けてくる。
「父ちゃん!リョータが!」
「どうしたんだ?!やられたのか?!」
「分かんない!そんなにひどく殴られたようには見えなかったんだけど…、右目から血を流して、いきなりおかしくなって、リョータがリョータじゃないみたいに…。」
説明する声が震えた。それぐらい、親友の激変は恐ろしいものだった。いつも穏やかなのに、怒った獣みたいな表情になって…、それも人じゃなくなったみたいだった。親友じゃなかったら、自分でも逃げていたかもしれない。恐怖より、心配の方が先立っていた。
「とにかく、家に運ぼう。」
父が小さな体を軽々と担ぎ上げる。家まで運んだ。心配する母が待っていた。とにかくベッドに寝かせるが、全く目を覚まさない。右目からはまだ血が垂れている。
「あいつら、目をやったのか?!金持ちのお坊ちゃんは、ケンカの作法も知らんのか?間違ったら殺し合いまでなるんだぞ?!」
「違うよ、父ちゃん、いきなりリョータが…。」
「”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ!!!!」
突然、息をしているかも疑うほど静かだったリョータが、獰猛すぎる叫び声をあげた。同時にブルブルと全身を震えさせ、こわばらせて、弓なりに体を逸らし硬直する。顎がガチガチと不規則に噛みあい、音が鳴るくらいにぎりぎりと歯を食いしばった。体がびくびくと痙攣を始める。目が白目をむいていた、片方の目が、血で真っ赤に染まっている。
その場の誰もが、全身が凍りついたように動けなかった。あまりに日常から逸脱した事態に、精神が追い付いていない。その奇態を見る全員が、まるで下腹に氷の塊でも当てられたように冷たい恐怖を感じていた。
一番最初に動いたのは、母だった。青ざめた顔でリョータに駆けつけ、呼びかける。
「リョータくん?!リョータくん!どうしたの、大丈夫?!」
「うわ…。」
突然、どこからか光がはじけた。リョータの痙攣する音がぴたりと止む。
――そのまばゆさに、思わず手で光を遮る。光は自分の胸元、リョータの胸元、父の胸元から、全てを圧倒してこぼれだしていた。
「…先生のお守り…?!」
「今度はなんなの?!」
中心にいる母が混乱して叫ぶ声が聞こえた。光が増し、まばゆさに満たされた空間の中で、全くの唐突に…、真っ白い砂場にいきなり大きな足跡を付けるように、何もない空間から黒い巨体が降り立った。
『うっ、うわぁぁぁっ!!!』
三度の異変に、その場の全員がそれぞれの悲鳴を上げて後ずさる。
「俺です!みんな、驚かないで!」
その黒い影から発せられた声は、よく聞いたことのあるものだった。
頭の回転が全く追いつかず、一家は全員が呆然と現れた珍客を眺めている。その黒い影はすぐに母とリョータの間に割り込むと、リョータの額に手を触れた。…光は、いつの間にか収まっている
「せ、せんせい??」すぐそばにいた母が、呆然としながらぽつりと漏らす。
言われてみれば、確かに先生だった。でもいつもと違う。質素なシャツに短パンの姿だが…。その体は全身が、夜の闇のように、深いつややかな漆黒の毛並みにおおわれている。
「…なんで?!もう何年も発作なんて起こしてなかったのに!!」
その口調も、いつになく切羽詰まったものだった。
「…なんで?!もう何年も発作なんて起こしてなかったのに!!」
俺はいつの間にか毒づいていた。触れた先から意識を走らせ、リョータの体を走査する。拾い上げてくる情報を理解するたびに、歯噛みするほどの焦燥を覚えていた。
一体、何があった?なんで…、なんで昔のリョータの回路が中枢で、こんなに活発に働いている?!…どうしてだ?!
そんな、昔とは違うはずだ!自分で自分に絶叫する。
中枢を再生する過程で、この子の脳は一度完全に混沌へと戻り、結びつきがむちゃくちゃになったはずだ。その上でまた学習という過程を取り、一から生まれなおしたようなものなのである。昔の回路も、記憶も、ごちゃ混ぜになった無意識のスープの中に溶け込み、その上で自分を作り上げていった。それでとても安定していた。なのに何があった?
俺は思考を走らせる。――その一方で、もう処置は行っている。
頸部から全身の運動神経を一時マヒさせ制御を奪い、全身を脱力させる。同時に気道を無理に開かせた。呼吸と循環を正常動作させる。よし、これで呼吸循環の主導権をこちらが握ってさえいれば、後は大事は起こらない。…右目の血流が増大して漏れ出し、出血しているが問題はない。これは幼少時からだ。右目の組織を再生する過程で、血管を増設し循環を増大させたのが原因。もともと右目は赤いし、圧が上がるとどうしてもこうなる。それよりも中枢内部がまだ騒がしい状態だ。落ち着くまでまだかかるか?運動機能のマヒは、それが落ち着くまで、戻せない…。
……運動機能?
――そうだ、リョータの運動機能は、幼少時からほとんどなくならなかった。再生時に多少の混乱が見られただけだ。
ほとんど赤ん坊と同じ状態だったのに、運動機能の再構築は早かった…。とするとその再構築過程で、昔の回路…、たとえば、まばたきをする、とか、脚を動かす、指を開かせる…、そんなもとからある中枢の回路を利用していったのは想像に難くない。大いにありうる。再構築の速さが裏付けとなる。――ならばその昔の回路に、昔の記憶、昔の別の悪い回路まで、結びついて残っていたとしたら??
…俺はだんだんと、顔から血の気が引いていくのを感じていた。
――あり得る。だが、それでもおかしい。ここ数年のリョータは安定していた。その構成された全ての回路の上で、安定していた。では何故、今こうなった?
――でも真っ先に疑われる要因は、幼年期に神経をかなり再生させたこと。リョータ特有で未知の要因。どんな影響が出るかも分からない、大きな不特定要因。リョータは胚からの発生過程のみで、神経組織を作っていったわけではないのだ。
…?ならば、リョータは通常人よりも、脳の回路を新たに作ることに慣れている可能性がある。誰でも新たな回路を習慣や反復で中枢に作っているが、リョータは多分、3~4才くらいに脳内で膨大な創造を人よりも行ったはずだ。壊れかけたものから、その上に新しいものを作ったのだから。
それは胚ではなく、普通の人より後の時期だった。その創造過程を、脳が覚えていた、としたら?
……つまり、脳が柔らかく、いつでも新しい回路を作れる、豊かな能力を持っていたとしたら?
――無意識のスープの中から、昔の回路のかけらを拾い上げて、また同じように組み上げ、強化してしまうのも、可能ではないか??
――じゃあ、リョータは。
あまり考えたくない結論へと一気に思考が高跳びしていくのを感じながら、俺はそれを反駁した。推論だから確定はできない。だが――、現実はこうだ。対処していかないとならない。目をそむけることの方が愚かだ。
「――センセ?」
「……?…あっ、はいっ!なんですか?」
横合いからかけられた声に、俺はとび上がって驚いた。
「リョータくん、大丈夫なの?」
「あっ、あーー、大丈夫です。今は安定しています。」
「何があったの?」
…説明はした方がいい。この一家には、大変お世話になっている。俺は口を開いた。
「リョータは小さい頃、病気だったことは、お話しましたか?」
「ああ…そんなこと、聞いたような、聞いてないような…。」
「リョータは小さい頃、重い病気にかかっていたんです。生まれつきの感染症です。ひどく重くて、頭の中まで毒で侵されていました。右目も見えなくなっていたし、耳もほとんど聞こえない。あー、とか、うーとか唸るだけで、しゃべることもできない。――たぶん放っておいたら、あと二・三年で、死んでいたでしょう。」
「………。」
「俺が手助けして、何とかここまで回復したんです。まったく、奇跡みたいなものです。普通なら、助けるのも難しかった。でも、俺には師の残してくれた知恵があったから…。」
しばらくの沈黙があたりを支配した。
「…ごめん、それで、どういうこと?リョータくん、今まで普通に元気だったよね。頭もよかった。ちょっとその話が信じられない。…今のこれは、なんなの?」
「…昔の症状が再発しています。たぶんですけど…、何か、誘因になるようなことがあったのでは?」
「あ、今日、さっき…。」クォンが口を挟んできた。
「仕事場の先輩にからまれて、ホーリィが人質にとられて、ちょっとケンカになったんだけど…。」
「ケンカって…、やり返したんですか?!」
リョータの場合、鍛えてあるから、相手への手加減の方が心配になる。手加減が下手くそなのだ。いつも俺が痛い目に合っている。
「あ、いや、リョータがちょっと、殴られて、俺がそいつを殴り返しただけで…、そんなに強くやってないし、やられてないと思うんだけど…、でもその時、リョータが目から血を流して…。」
「…ああ、じゃあ、リョータはやり返してないんだね?…よかった…。なら大丈夫、リョータは鍛えてるから、そんなにヤワじゃないんだ。受け方も教えてるんだけど…、油断したんだな。この目は別の原因なんだ。でも、たぶん、そのあたりが原因か…。」
リョータの方を振り返る。
「そうか…。」
そのあたりが原因で、引き金か?
ケンカか…。この子は敵意を向けるのも、向けられるのも慣れていない。昔と違って。
………ちょっと待て。
昔と違って?
…待て。そうか、まさか。
昔を思い出したのか?獣のようだった、あの頃を。
昔と似ている状況、連鎖する記憶…。
連鎖する記憶に結びついた昔の回路が、記憶の整合性の回復とともに再構築された?
…うそだろ、ほんきか?でも…。
…可能性はある。むしろ、高い。
直感がそう告げていた。
パズルのピースが一つ一つはまっていくようだった。
それでも、と、無理に診断する。なんら心配することはない、と、頭を振って自分に言い聞かせた。
これくらいのてんかん患者なら、世の中には普通にいる。リョータの場合は、新しくその回路が復帰してしまったが…、圧倒的にこれまでに作り上げた回路の方が強い。ようはその悪い回路を使わなければよい。使わない回路は錆びついていく。いずれ働かなくなってしまうことすら考えられる。中枢を診れる俺からすれば、発作を起こす回路の引き金を見つけだすことができる。ならばその引き金を引かないよう、指導していけばよい。おそらく自分なら、そのための心構えや、方策を見つけていけるだろう。
重くなっていく気分を何とか振り払おうとしながら、さらに考えた。
……問題となるのは、やはり精神的なものか…?
昔のような状態に戻さない方がよい。そしてリョータの場合、あまり心的負荷のかからない生活の方がいいだろう。
なぜなら、たくさんの負荷がかかると、人はそれに対応するよう、おのれの対応機構を働かせる。それが未知のストレスなら、新たに回路を作る。突破口を探る。この未知のストレス・新たな回路の作成、というのがまずい。回路を作る能力の高いリョータは、失敗すると…、こんな状態になってしまう。適応力が高い、ということでもあるのだが、リョータの場合は爆弾を抱えていることになる。
しかし、未知のストレスに出会わずに生きていける人間など、どこにもいない。
一人で自己統制を取るのが、難しい時もあるのが人の弱さだ。
ならばリョータには、たとえば誰かよき理解者が傍にいて、困ったときはいい方向に…、出来るだけ爆弾を踏まない方向に、引っぱって行ってやるのが一番いい療法になるのではないか…?何も自分一人だけで、突破口を見つける必要はないのだ。
だがそれは…、それは、簡単であるのに、もっとも難しい療法のひとつだ…。
今まさに自分の状況を鑑みながら、俺はそれを自覚していた。
分かっている。つまり、これは自分のミスだ。
俺はリョータのそばを離れるべきではなかった。少なくともまだ。町の生活に完全に慣れるまでは。
自分が一緒にいて、労苦を分け合ってやればよかったのだ。それだけでストレスが減れば…、こんなことにはならなかった。俺もリョータも、多人数相手の人付き合い、町の生活には慣れていない。小さな肩に、多大な負担がかかることは分かっていたはずなのに…。
どうして自分は今の今まで、ここまで思考が回らなかった?
俺は泣きたい気分になった。自分の責任だった。
少なくとも、うぬぼれていた。この子は普通の子になったのだと。もう、かつて背負ってしまった不遇は跡形もないのだと、そう思っていた。
実際はどうだ、この子は爆弾を抱えていた。
医を学んだことがあるものなら、誰でも感じたことがあるはずだ。人の手には限界がある。
普通の他人の患者なら、その点を理解して、迅速に次の対応策を練って行けた。反省しても拘泥してはならない。処置が遅れる。事実、だれも完璧たりえぬ人間には、そうしていくことこそが必要であり、大切なときも多い。
でも、もしかしたら――、そうしていたら――、という仮定が、末恐ろしいほどに己を苛んだ。
涙があふれてきた。どうしてって、なぜなら、この子は…。
「……あれ?…先生?」
涙がぼたぼたと顔に落ちてしまい、それでリョータは気が付いたらしい。失敗した。慌てて涙をぬぐい、覆い隠す。
「…どうしたの?…泣いてる?……なんでここにいるの?」
「なんでもないよ。今は眠りな、リョータ。」
俺は触れた額から眠りを誘導した。こんな動揺した姿を見せるわけにはいかなかった。特に、今のリョータには。
………これでどうやって、俺はこの子を闇に向かわせず、導いていけるというのだ?
悲しくなるほどに、自信がなかった。
「……先生、やっぱり、僕がいないと…。」
眠りに落ちた。その上にぽたぽたとまたおのれの涙が落ちていく。それも気づかせないほど、深い眠りに落とした。なんて卑怯なことを、俺は……。
まずい。冷静に考えられない。でもたった一つの思いだけが…、その一つの思いだけが、自分に取り付いて離れない。胸にうがたれた、一本のくいのようだ。それが抜き取れない。息が絞られ、胸が苦しい。泣きたいのに声が出ない。俺は身を引き絞るように声をだし、人目も忘れてむせび泣いた。
「……ごめん、…ごめん、リョータ。」
俺、お前を治してやれなかった。
不遇の子は、今、静かに寝息を立てている。
この子は――、この子だけは。
たとえ人の子でも、俺の手が不完全でも、この子だけは。
この子だけは。
何のてらいもなく、健全な体で生きていってほしかった。
そうしたつもりでいた。――現実はこうだ。おのれの愚かさを、嘆くしかなかった。




