三章 隠者の系譜 ⑦
次の日、仕事が終わっての帰りだった。
クォンと連れ立って帰っていると、また、先輩たちに取り囲まれた。
うんざりした気分でまわりを見渡す。何度も何度も、なんだっていうんだ?話があるなら、ちゃんと言いに来ればいいんだ。こちらが話そうとしても、敵意むき出しで話にもならない。ケンカになるのは面倒なので、何度も逃げていたら、こちらを卑怯者呼ばわりしてきた。…僕の間合いも分かってないのに、ほんとに相手になると思っているのか?
先生に聞いていたので、これはケンカをしてはいけない場合だと分かっている。この人たちは完全な素人、下手に動かれると大けがをさせる。多人数なので、一人一人にやさしく気を使ってやる余裕がない。怪我なんてさせたら今度は先生が、この先輩たちを治療しに来る。先生はそうする人だし、そうしなきゃならなくなるからケンカは出来る限り避けること、ときちんと僕に言い置いている。こいつらに先生の治療を受けさせるなんて、考えただけで気分が悪い。関わり合いにならないのが一番だ。
となりで負けん気の強いクォンが、すぐさま敵意むき出しで睨み返している。…逃げようか、と僕は声をかけようとした。クォンなら僕の動きにもついてこれるだろう。でも、それはかなわなかった。
――唐突にクォンの目が驚きに見開かれた。その視線の先を追うと、遅れてきた先輩の一人が、誰か女の子を拘束しているのが目に入った。
「…お前、何やってんだ?妹に手ぇ出したら、ただじゃ済ませねぇぞ!」
「ただじゃすまないのはそっちだろ?ちょっと、おとなしくしてろよ、これが見えないってわけじゃないだろ?」
ひたひたと、抜身の木工用小刀をホーリィのほほに当てる。脅してきた。
……僕は、頭に血が上って…、何か得体のしれない感情が全身に走るのを感じていた。
残り三人の先輩が三方から、僕らに近づいてくる。いやらしいにやにや笑いを浮かべていた。
何だ、こいつら。もう見た目も何もかも気に入らなくなってくる。
「二人とも、動くんじゃねぇぞ?」
自分が誰を人質にしているか、見せびらかすようにそいつがこちらに近づいてきた。
ついてる。いいぞ、もっとこっちに近づいて来い…。
「いいか、これは制裁だ。抵抗したら…、分かってると思うけどな。」
その声に震えが聞き取れた。怖いならなんでこんなことするんだ。意味が分からない。
いらいらとして、むかむかとして、何かのどに詰まったような感じがする。
こいつらに、それをぶちまけてしまえば、楽になるんだろうか。その喉笛にでも、噛みついて…
ヴルルルルル…
知らない自分が、自分の知らない方法で、のどの奥から唸り声をあげている。
…でも、もしかしたら知っているのかもしれなかった。記憶にもならない頃の昔の自分。その頃は…。いつもいつも、毎日毎日、どんな時でも…、こんな気に食わない大きな奴らに、打ちのめされていたような気がする。
そんなことを考えると、自分の中の荒れ狂う波が、さらに強まったような気がしていた。
自分の形相と威嚇音に気圧されたのか、先輩たちが一歩退く。その小刀をもった先輩も、小さな悲鳴を上げて一歩退いた。
その時に小刀が少し離れた。その隙を見逃さず、ホーリィはその男の腕に噛みついた。
みっともない悲鳴がすぐに上がる。
「何しやがる、このクソアマ!」その男が小刀を持った方の手を振り下ろす。腕は噛まれても、その手は放していなかった。ホーリィは逃げられない。彼女は固く目を閉じた。
――その時点で僕はもう、つぶてのように跳ね跳んで先輩の間合いに割り込んでいた。片手で小刀を持つ腕を受け止め、もう片手でホーリィを捕えた腕をつかみあげる。
――先輩の誰もが一瞬のことで、驚いていた。
この場でクォンだけは、驚かなかったかもしれない。…たぶん、立つ位置が反対なら、クォンでも同じことができたと思うから。
この先輩たちは、やっぱり何も分かっていない。何度も僕を取り囲んで、何度も逃げられるたびに気付かなかったのか?先輩たちを1としたら…、僕らは3くらいの速さで一歩を踏み出せる。比で言ったらそのくらいだ。その差を考えて間をとっていない。
ぎりぎりとつかんだ両腕を締め付ける。静かに言った。
「女の子に、手をだすな。」
誰か知らない人の声のようだった。
つかんでいた腕を無理やりに放させ、ホーリィに動く余裕を持たせる。
「逃げて。」
そう言った。ホーリィは自分より背の低い僕の動きが、全く信じられなかったらしい。だが言われてはっと気が付いた。噛みついていた口を放すと、あわてて背を向けて走っていった。
「放せ!このチビ!」
あんまりがたがた震えてうるさいので、手を放してやった。そしたら、ちょうど振り払おうとした先輩の手が、僕の顔面にあたった。鈍い衝撃を受けた。
『…あ…』
「てめ、この…」それを目にしたクォンが激昂する。やはりクォンも、すぐそこまで来ていた。
「俺のダチに何しやがる!」
目の前にいた先輩にとびかかり、馬乗りになった。そんなクォンを、僕は呆然と眺めていた。
―――なんだ?…何かが、おかしい。
――口の中を切った。血の味がする。手で拭ってみると、手のひらにも少し血が付いた。
……手のひらの上の血。
ぼんやりと眺める。何かが閃いた。
いけない。見なければよかった。目をそむけた。――何かを思い出しかけている。それも、とてもよくないものを。
体が震えている。自分のものじゃないみたいだ。頭が割れるように痛い。心臓がばくばくと脈打って、息が浅くなり、苦しい。
「……うわぁっ!!!」
馬乗りになって先輩を殴打するクォンを止めようと、群がってきた先輩の一人がこちらに気づいて叫び声を上げた。驚愕と恐怖の表情を浮かべている。それに伴い、他の人も気づいて、僕を凝視し、悲鳴を上げて後ずさる。
異変を察知したクォンがこちらを振り向き、さらに恐怖に顔をひきつらせた。
「リョータ!大丈夫か!」すぐさま、こちらに駆け寄ってきた。
大丈夫じゃない。何かがおかしい。
今、何かを思い出した。金髪の女の人。色の白い、細身の女の人だった。
「お前、右目が血で真っ赤になってる!どうしたんだ?!あいつがやったのか?!」
ちがうよ。僕の右目は、もともと見えなくて。それを先生が見えるようにしてくれて…、その時から、僕の右目はほんの少しだけ赤いんだ。血の色で。本当によく見ないと、分からないくらいの違いだけれど。
そう説明したつもりが、全く言葉になっていなかった。「…ゔ…」という、うめき声しか漏れてこない。
「う、うわわわわ、俺のせいじゃねぇぞ!!」
クォンに殴打されていた先輩が、恐怖の声を上げながら一目散に逃げて行った。他の先輩たちはとっくにもういない。―――それぐらい、僕の今の顔は尋常じゃないらしい。
――アタマが、いたい。昔、どこかで、こんな風にずっと、アタマが痛かった気がする。
「リョータ、先生を呼ぼう。絶対コレおかしい。変だよ。呼べるんだろ?また前みたいに、あっという間に来てくれるよな?」
クォンの言葉が、耳に入らない。聞こえているのに認識できない。変だ。
帰らないと。…そう思った。
「リョータ?」
唐突に、意味も分からず、周りの音もよく聞こえず、いきなりそう思った。
帰らないと。
ふらり、と、我ながらおぼつかない足取りで、前に進む。
「おい、リョータ?」
帰らないと。
――でも、どこへ?
―――村のはずれの、ボロ小屋へ。
お母さんが、待ってる。
……お母さん??
「…あ……。」
僕は呆然とつぶやいた。思い出した。世界の半分が夕日のせいか、嫌に真っ赤に染まっている。
思い出した。
僕は村のはずれの不潔なボロ小屋で、隅で小さく、体を丸めている。
目の前には色の白い、細い体の金髪の女の人が、僕の前に仁王立ちになっている。
その女の人が、僕を何度も何度も、足蹴にする。何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、まるで石か地面でも蹴るみたいに、容赦がない。その女の人の顔には、醜い病気の跡があった。
頭が痛み、口の中も切れ、血の味がする。ひろげた手のひらが、泥と、垢と、血でぐちゃぐちゃだ。全身の激痛の中で、僕は確かに、この時聞いてしまった『音』を、今、『声』として理解した。
「お前なんて、産まなきゃよかった!この世に産まれてこなきゃよかったんだよ!!」
――いたい、いたいよ。
どうして?お母さん。
―――――、世界が暗転した。




