三章 隠者の系譜 ③
約束通り、先生が夢の中に現れた。
場所はいつもの草原で、タナンにある草原ととても似ている場所だった。
ものすごく広々としていて、果てが全く見えない。ここはいつも温かく、空は不思議なくらい青く澄んでいる。どこからかやわらかな風が吹いていた。それに当てられ、まわりの生き生きとした緑が、ゆらゆらとそよいでいる。
あんな風に分かれた後だったから、僕はどんな顔をすればいいのか分からなかった。
でも先生は、全くいつもと変わらない様子で、昔からの約束事みたいに、僕の隣に腰を下ろした。
先生が自分のことを話し始めた。道中、無事に進んでいること。荷が軽いから、あさってにはもう夏の借り宿に着きそうなこと。――やっぱり僕がいないと、少しさびしい、ということ。そういうことも、包み隠さず話してくれた。
今度は僕が、今日あったことを話す番だった。いつの間にか気がつくと、僕は一番最初に、今日はごめんなさい、と謝っていた。先生は笑って許してくれた。――こんな風に仲直りすることが何度もあった。――勢いづいてべらべらとしゃべり始める僕の話を、先生はいちいちうなずいて聞いてくれた。
――なぜだろう?この場所にいると、僕はずっと子供っぽくなっているような気がする。
もうクォンみたいに、お父さんお母さんとは距離を置き始めるのが普通みたいなのに。――でも、そんなことを言ったら、先生はもっと、ここでは子供っぽい。とても素直にいろいろなことを伝えてくる。ここでは隠しても仕方ないからだという。大切なのは、もっと深いところでお互いを信じることなんだそうだ。先生はだいたい、必ずと言っていいほど僕を許すし…、僕が許すまでは、静かに待っている。先生は僕が秘密を持つことを許すし、…僕も先生が秘密を持つことを許している。
先生がここで言えないこと、言わないことは、どうも、僕がまだわからないことが多いみたいだ。
でも、大切な事は変わらずにずっとあるから、何も問題はない。先生はそう言っていた。
―――確かに、僕もそうだと思う。
大切なものは、ここにある。そう感じる。
やるべき仕事がいっぱいあって、覚えることがいっぱいだ、という話をしたら、先生が手伝いを申し出てくれた。
いつもの勉強法だ。僕たちは夢の中でよく勉強をする。文字の読み書きも、数の計算も、僕はほとんど夢の中で覚えた。これがものすごく能率がいいのである。
先生が、先生の先生から伝授された勉強法。先生の先生が、ほかならぬ先生のために、編み出したんだって。先生自身この方法で、たくさんのことを教えてもらったのだという。二〇〇年分と言っていた。ほんとかな。
頭の中の脳みそは、記憶を蓄える働きを持っている。そこではいったん必要な記憶と、必要でない記憶を振り分けて、取り込んでいくのだと先生は言っていた。先生は、その働きをその手で助長できる。夢の中で必要なことを学習したり、思い出して印象を強めておき、他の記憶と結びつけておく。そのあと、それを先生が必要な記憶として固定する。後は、明日の朝起きたら、もう一度それを思い出して記憶の回路を強めればよい。――いつもやってきたことなので、朝の作業は一人でもできそうだった。
朝起きると、ことことと鳴る鍋の音が聞こえた。複数の寝息が周りから聞こえる。まだ朝の早い時間帯だ。日が出始める前の薄闇の中、起きているのはクォンのお母さん、ホルンさんだろう。朝ごはんを作っている。
ホルンさんは、町の宿の厨房に務めているから、朝が早い。家族の分の朝ごはんを作ったら、いつももういなくなっている。
僕はするべき朝の記憶の思い出し作業をしたあと、もそもそとベッドを抜け出した。顔を洗いに行く。いつもならこのあと、先生と体操・体術の型・組み手をする習慣だが――、先生はいないし、ベッドで寝ていたから体はほぐさなくてもよさそうだ。先生も町にいるときはよくサボるし…と、言い訳をして、それらをとばすことにした。炊事場に顔を出す。
「おはようございます。」
「うひゃあっ!!」ホルンさんがへんてこな声を上げた。
「…ああ、リョータ君か。びっくりしたぁ。」
「おどろかして、ごめんなさい。」
「…あー、いいのよいいのよ。朝が早いねー、リョータ君は。」
「いつもこれぐらいに起きてます。」
「そうなんだ!ウチの子たちも見習わせたいわ~。」
「何か、お手伝いしますか?」
「…しかも、えらい!じゃあ、公共井戸から水汲んできてくれる?」
「はーい!」
町にきて、二日目がはじまった。
夢の勉強のおかげで、昨日習ったものごとはだいたい覚えていた。
でも、勘違いしているところもあったし、分かっていないところもあった。後で、修正しておかないと。それにまだまだ覚えることはいっぱいあった。また、あっという間に一日が終わってしまう。
二日目の仕事が終わった後は、一日目よりも元気だった。お風呂に入れるのが楽しみで、ついつい小走りになってしまう。
「楽しそーだなー、リョータは。」
「うん、だって、毎日お風呂に入れる!!」
歩きの旅では、水場がなければ、そもそも体を流すことすらできない。しかも、いくらでも使える温水で、となると、ものすごく幸福なことだった。
先生はすぐにお湯を作ることができたけど、水がなければそんなことはしない。水場があったとしても、自分のためにはめったにお湯を作らなかった。でも僕のためには、よくお湯を作ってくれた。
しかし、僕にお湯を作ってくれた後、自分は冷たい水で体を流す。
それを見ていたら悪くなって、僕も冷たい水で体を流そうとした。先生もお湯を使ってくれ、と言っても、がんとしていうことを聞いてくれないからだ。
…何回かやろうとして…、僕は先生に笑って止められた。きちんと操体法を習っていない僕には、冷たい水での行水はまだ早い、という。ちゃんとやり方を覚えないと危険なこともあるから、僕はお湯でいいんだと諭された。そういえば先生は、必要だと思われる時しか冬は行水しなかった。僕だけがよくお湯で体を洗っていた。
先生に悪いです、というと、じゃあ、もし、僕が魔法使いの弟子になったら、先生のためにお湯を作ってほしい、と頼まれた。
先生は、先生の先生と、よくそうしていたんだって。魔法の練習と称して、お互いのためにお互いの力を使うことは、多かったみたい。人は苦難だけでは生きられないから、と、なんだか難しいことも言っていた。
僕が弟子にならなかったら、どうするんですか?と、聞いたら、ずっと冷たい水で沐浴かもな…、と、先生は少しさびしそうに笑っていた。でも、師匠とだって、冷たい水の時も多かったから、大丈夫だよ。
――先生は、僕に弟子になってほしくないのかな…、弟子になってほしい、と言われたことは、ただの一度もない……。
そんな話をしながら公共浴場に向かっていると、少しだけ空気がしんみりとなってしまった。クィードさんが僕の頭に手を置き、慰めてくれる。
「いろいろあんのさ。先生はリョータが嫌いなわけじゃない。弟子になってほしくないわけじゃない。――まず幸せになってほしいと、考えてんのさ。」
どういう意味だろう。考えていると、クォンが聞いてきた。
「な、雪の日とかでも、冷たい河とか井戸水で、水浴びすんの?」
「うん。」
「うぇー、それ、どんな我慢大会だよ。なんで魔法が使えるのに、そんなことすんの?」
僕もよくわからない。先生がいつも言っていたことを、そのまま答えた。
「あんまり魔法に頼りすぎると、俺たちは人の心が分からない、ただの怪物になってしまうから。人であることを忘れてはいけない」んだって。
それを聞いて、クィードさんだけが、感心したようにうなずいていた。
家に帰りつくと、二日目の晩御飯が待っていた。
一日目とは量が少なくなっていたけれど、それでも僕にとってはすごいごちそう。勢い込んで、もしゃもしゃとほおばってしまう。
「おいひいです!」
「そんなに喜んでもらえると、作り甲斐があるわー。昨日よりは質素になってるけど、それはごめんね。」
「全然、質素じゃないです!すごくおいしいですし、いっぱいあります!先生がとってくる草なんかより、全然おいしい!」
「…くさ?」
「はい。…先生がこれは食えるな、って森とかで取ってくる草は、こんなにおいしくないです。時々へんな味がします。…町では野菜っていうんでしたっけ?この柔らかい葉っぱとか、根っことか、おいしいですよねー。」
「欲しけりゃー、やるぞ?」
「クォン、あなたは自分の分きっちり食べなさい。…リョータ君、いつも何食べてるの?」
「いつも?…森だったら、先生が食べられるものと食べられないものを分けて、その辺の草でも食べます。木の皮は食べられるものだけ。川が近ければ魚も取るけど、時々です。お魚はごちそうです。水がなくて、お米とかが保存食の時は…、一粒ずつ噛んで、奥歯でごりごりそれをすりつぶして、歩きながら食べてたりします。あと…」
問われたので説明していくと、なんだかみんなの顔が暗くなっていくようだった。どうしてだろう?
「…僕は子供だから食べないとならないって、お薬みたいなのもらってました。お肉の味がするのとか、そのほかいっぱい。栄養剤っていってました。で、僕ようには、きちんと必ず、一日一食、何かがありました。」
「何か、って?」
「えーと、干し肉が数枚、とか、先生が作ってくれるご飯とか。でも、先生の作ってくれる一番おいしいご飯よりも、ここのご飯の方がおいしいです。先生のは、薬草がいっぱい入ってる患者さん用のみたい。」
「病人食か…。ね、リョータ君、もしかして、あんまり食べてないから大きくなれないんじゃない?」
「えっ、食べたら大きくなれますか?!」
「可能性はあると思う。」
「じゃあ食べます!お代わりします!」
「…だったら俺のこの皿をだな…。」
「クォン、あんたの分のサラダはあんたが全部食べなさい。いい加減にしないと後でひどいからね。」
もぐもぐと必死に食べ始める僕を見ながら、大人二人がなんだか妙な感じで僕を見ていた。なんだろう?
食べた後は片づけを手伝って、僕が手伝うのでクォンたちも手伝わされた。クォンはぶちぶち言っていた。みんなでやった方が早く終わるのに、なんでだろう?こうして、二日目が過ぎていった。




