三章 隠者の系譜 ①
夏がはじまろうとする頃、緑がまばゆい草原で、先生が言った。
「じゃあ、遅くても三か月くらいで、またここに来るよ。その時に答えを出そう。」
「はい。」
「…ちゃんと、分かってるんだろうな?この町での滞在そのものも試験なんだぞ?ちゃんとお世話になるクィードさん達の言うことをよくきくこと。ちゃんとお手伝いすること。そういうこともできない人は、弟子としてとりません。」
「はい。」僕は折り目正しく答える。もう何度も聞いた内容だった。
「うん。大丈夫かな。じゃあ、後は…。」
先生はしばらく顎に手を当てて考えた。言い残したことはないか、頭の中で点検しているようだ。やがて口にした言葉は、なんだか少し、しんみりする内容だった。
「…あとは、元気でいること。…風邪とか引いても、俺の手は届かないから。」
先生が少しさみしげに、鼻を鳴らしながら言った。
「……はい。」
物心ついてから、この親代わりの先生と離れるのは、生まれて初めてだった。そんな自分の顔を、先生がまじまじと覗き込んでくる。
「…そんな顔するなよ、リョータ。」
…僕はどんな顔をしているんだろう?自分では、憮然とふくれっ面をしているような気がしている。僕はまだ、この“試験”に納得がいっているわけではなかった。でも、先生の言い分もある。僕は僕の言い分を証明するために、この“試験”に合格しなければならない。
顔を見られたくなくて、ぷいと横を向いた。苦笑した先生が、自分の頭に手を伸ばし撫でてくる。ちょっと抵抗があったけど、先生の好きにさせた。
――でも、先生の手がいつもと違う。それが余計、僕の心をずしりと重くさせた。
先生の手は、いつも何かかが伝わってくる不思議な手だ。でも、それが何も伝わってこない時――、たとえばこういう時は、僕が先生に壁を作っているのだという。そして、先生にはそれがわかってしまう。先生はそういう時、無理に壁を越えてこようとはしない。ちらりと横目で見ると、案の定、先生は少しさみしそうな顔をしていた。それを見て僕は、さらにまた泣きたくなった。
僕の身長は、ちょうど先生の腰あたりで伸びるのが止まってしまった。
先生に言わせれば、遺伝か、小さい頃の治療のせいかもしれないらしい。
僕は小さい頃とても重い病気で、頭までおかしくなっていた。
でもそれは先生が治してくれた。治療は今までにないものだったらしく、どんな影響が出るかが分からない。二次性徴が遅れているだけなのか、その変化のエネルギーを頭の治療に代替したのか…とか、なんだか難しいことを先生は言っていた。とりあえず、よくはわからなくても、僕の背丈は伸びないままである。
先生が手を貸して、無理に促進をかければ、もっと背を伸ばせるかもしれない。けれどそれは生命の本来のありようを曲げることになる。お前はそれでも伸ばしたいか?と、僕は問われて――。
僕は、先生のようにかっこよくなりたいんです、と答えた。
そしたら、人の手は自然の働きに及ばない。俺がやったら、不格好になるかもしれないよ、と言われた。手だけ長くなったり、足だけ長くなったりするらしい。――僕はとてもがっかりした。
でも、今ちょうど僕の頭は、先生の手が置きやすい高さにあるらしい。そういわれて――“だったらいいか”――、と考えたことは、小さいころからの秘密である。
――先生と暮らして、何年もたって――まだ秘密にしている。それ以降、身長のことを言ったことはない。
でも、子ども扱いしないでほしい時くらいは、分かってほしかった。並んで目を合わせる身長があったのなら、もうちょっと違ったのだろうか。先生の手が離れる――、認めたくないけど、名残惜しかった。――涙がにじんできて、悔し紛れに口にする。
「泣いてなんか、いませんよ?」
「うん。わかってるよ。」先生は僕のウソに付き合ってくれた。
「じゃあ。」先生が下ろしていた荷を背負い、体に固定する。これから夏の借り宿に向かうだけだから、その荷も軽い。僕の分の荷物はない。出発しようとする先生に、身を引かれるように焦りを覚えて、思わず僕は声をかけていた。
「先生。」
「うん?」
「ほんとに迎えに来てくれるんですよね。」
“僕がいらなくなったわけじゃないですよね?”後の言葉は飲み込んだ。それは子供がいうことだと思った。
「リョータ。」
また頭に先生の手が触れる。今度は壁を無理に超えてきた。言葉そのものが胸の奥に透き通って落ちてくる。
“大丈夫だよ、約束は守る。”
同時にいろいろな言葉にならない感情も、ほんわかと伝わってきた。
「俺だって、さみしくないわけじゃないんだぞ?でも、必要なことなんだ。」先生はそういう。
「なぁに、そんなに長い時じゃないさ。また夢でも会いに来るから心配するな。でも、ほんとに俺の弟子になりたいなら、ちゃんとここでもやるんだぞ?――なまなかな決心じゃ、最後の“試験”には答えられないぞ。」
「だから、その最後の“試験”ってなんなんですか。」
この“試験”だけは、ほかならぬ先生も受けたのだという。
「教えられるものじゃないんだ。考えるものでもない。――魔法使いの試験だからな。勉強したって意味ないぞ?リョータがどれだけ本気かってことがカギだ。――ま、リョータなら、答えちゃいそうな気もするんだけどな。」
「だったら、なんで。」僕は何度も聞いたことを口にした。
「だから、必要なことなんだ、リョータ。俺は必要だと思うんだ。――小さい頃の俺には一つの道しかなかった。けど、リョータには二つの道がある。町で暮らす、というもう一つの道がね。それを知ってなお、こちらの道をリョータが選べるかどうかだよ。知った上で、答えきれるかどうかが問題なんだ。」
「答えはもう決まってます。」
「だから、それを試してみよう。実際に。」
もう何度も繰り返した問答だった。納得できないけど、納得するしかない。口先でうまく丸め込まれている気分だ。大人にはかなわない。口惜しくて口惜しくて、涙が出た。初めて、先生が嫌いになりそうだった。
「僕がそれで、町で暮らすって言ったら、先生はどうするんですか!?」
自分でもどうしようもなく、ほとんど泣き声で叫んでいた。――先生は静かに答えてくる。
「…それがリョータの幸せなら、そうするしかないだろう。」
「…!!」もう何が何だか、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「先生なんか…、一人じゃなにもできないぐぜに!…知っでるんですよ!ぼぐがいないど…」
わけもわからず、みっともなく泣き始める僕に、触れようと先生が手を伸ばしてくる。僕はその手を振り払った。もう知らない。勝手にやればいいんだ。僕は先生に背を向け、町の方へ歩き出した。涙と鼻水が止まらなかった。
俺は、振り払われた手を所在なく見下ろした。あんなふうに邪険に手を払われたのは、久しぶりだった。
…あんな風に泣かせたのは、初めてかもしれない。
重い気分で小さな背中を見送っていると、少し離れた場所で待っていてくれたクィードが、リョータと入れ替わりで近づいてきた。
「――よぉ。あれでよかったのかぃ?」
「…はい。」ふさぎ込んだ気分で答える。
「大将がそんな泣きそうな顔しててどうするんだよ。自分で決めたことなんだろ?」
「そうですね…。」言われて自嘲した。本当にその通りだった。ひとまず切り替える。今回は、この一家に大変お世話になる。それどころか、この一家があったからこそ、リョータにもう一つの道が見いだせた。恩人だ。
「リョータのこと、よろしくお願いします。」俺は頭を下げた。
「いや、あんたの頼みなら、いいけどよ。断るわけないだろ。でも…。」
「でも?」
「よかったのかぃ?」
そういって親指で、まだ見える小さな背中を指し示した。クォンがおずおずとそれに近寄っていくのが見える。同年輩のそのあられもない姿に、どう対応していいか困っているようだった。
「……はい。」
「俺には魔法使いの考えてることは分からんが…、あんまイミないことの気もするけどな。たかだか三か月で町の暮らしがどうとか、わかるのか?」
「それでも、三か月、普通の町の生活を知ることができます。」
「形だけになる気がするな。」
「でも、それがリョータの言い分だったんです。俺が治療に入ったら、リョータは心配するから…、治療のほとんどない夏、薬を作る時期なら、納得できるはずですから。」
「聞いたぜ?他人は診れても、自分はうまく診れないんだってな。――俺の時も、リョータに助けてもらったんだって?それであの子を手放そうってのか。理解できないぜ。」
俺は苦笑した。
「他人の助けが必要になるのは、自分で自分の調整ができなくなった時なんです。――普通の巡回なら、本来そこまでなることはほとんどないんですよ。急患の時はどうしても…、ですね。でも実は、他人なら、リョータじゃなくてもいいんです。信頼して、調子の分かる人間が一番いいのは確かなんですけど。」
「つまり、リョータがいた方がいいってことだろ。…なぁ、何がダメなんだ?子が親の後を継ぎたいっての、自然な流れだと思うけどな。」
俺は、どう答えていいか悩んだ。分かってもらえるのだろうか。どう説明したらいいのだろう。あの感覚を。俺はつと視線を逸らした。リョータを見やる。
「――雨ざらしの中の山道を、一日中歩いた経験がありますか?」
「…は?」
「うまい雨宿り場所も見つからず、そうせねばならない時もあるんです。本当は雨の日は歩かない方がいい。雨水で靴が濡れると、足の皮がふやけて靴擦れができやすくなるから。――でも、それでもわかっていて、歩かねばならない時もあるんです。」
「……。」クィードは黙って聞いていた。
「ずぶぬれになってしまうと、火をつけるのも難しくなるから…、そんな日は保存食だけで終わるときもあります。毎日毎日、日が暮れるまでには、寝床になりそうな、いい場所を探して…、準備して、次の日にはそれも全て片付ける。水と食料には常に気を配る。湧水だって、いつも湧いているとは限らない。毎日毎日歩き進むことを中心に生活を考えて、治療がはじまったら、次は治療が生活の中心になって…。」
俺は溜息をついた。ほとんど挑むような気分で言った。
「己の選んだ道です。俺に悔いはない。でも、自分の子供にもし、他に幸せになるかも知れない道があったとしたら、それを試させない親が、いますか?」




