二章 隠者の休息 ⑪
この状態のことを説明するのは、どうにも難しい。
なってみて分かったことだが…、己が世界の本質に、近づいたような心地がする。
世界中が自分のそばにいて、味方になってくれている…、そんな気がするのだ。
できないことは何もないのではないか。そんな確かでゆたかな、万能感があるのである。
ただ…、たとえ思うことは何でもできたとしても、そんなことはしない。――それは、第一原則に反するからだ。
そもそも、それを理解したものしか、ここにはたどり着けないのではないか。そんな気がしていた。
視点を変えれば時間が無限に近く引き伸ばされている。――さらに正式な手順を踏む…、別になくてもかまわないが、礼儀を失するべきではない。
“我が名は―――――”
音にならない秘密の名乗りは、波紋となってこの世界の空間に溶け込んでいった。
“どうか、この人の生を助けるため、お力をお貸し願いたい…”
開いた霊眼には、すぐそこに師の姿がはっきりと見えた。ありがたく、懐かしい。極限にまで引き延ばされた時間の中で、挨拶を交わし、冗談と軽口を叩き合う。いつもと変わらない、それでいて真実に近い交流。
この世界の裏側で、何の報酬もなく、静かに働き続ける者たちの姿も見える。彼らだけでなく、いま、この場ではこの世界を構成する一つ一つの粒子、時間、空間まで、自分の味方となってくれていた。
――これなら、なんだってできる――。俺は横になった男の組織を数秒で再生させた。――簡単なことだった。体を構成する分子に、元居たところに戻ってくれるようお願いするだけでよい。体にだって、記憶はある。必要な力と状況なら俺が整える。いま、世界には、知恵と力が満ち溢れているから、大丈夫。再生というより、ほとんど創造に近かったが――、できるのだ。
治療が終わって、少しやりすぎたかもしれない、と感じていた。
全部、治してしまった。明日にはもう、普通の生活を送れるだろう。この治療には、本人の生きる力の関与が全く無かった。治療師としては落第かもしれない。なんにせよ、加減が難しいのがこの状態の難点のひとつだ。
さらに、最大の難点が一つ、まだ残っている。
俺はやや困り果てた心境で、今、この家の主となる女性に語りかけた。
「すいません、一つ、お願いがあるのですが。」
「は、はいっ!」やたらかしこまって、その女性が答えてきた。
そういえばまだ報告をしていない。そちらが先だった。
「旦那さんは、もう大丈夫と思います。しばらくそっと寝かせておいてあげてください。体の構造が落ち着いたら…、後は自然に、自分で動き出すでしょう。」
「…助かったんですか?」
信じられない、という面持ちで聞いてくる。俺は静かにうなずいた。
「…あの、触っても?」
「触るくらいはいいですが…、動き出すのは本人に任せた方がいいと思います。さっきまで、中がぐちゃぐちゃだったから。」
それを聞いた彼女の顔がこわばった。自分の亭主と俺を数度見比べ、しばらく迷った後、意を決して夫のほほに触れた。…体温と、呼吸を確かめている。明らかに先ほどと変わっていることがわかるだろう。今や、何の障害もない体だから。
彼女はしばらく呆然としていたが…、つと思い出したように一筋の涙がほほに零れ落ちた。ただその涙は絶望と悲哀からではなく、希望と安堵からのものだった。今は、何もすべきではなさそうだ。彼女が自分で立ち直るのを辛抱強く待った。
「…ありがとうございます。なんとお礼を言っていいか。」
しばしの時のあと、深々と頭を下げて彼女が礼を言ってきた。子供たちが「父ちゃん助かったの?」と、騒ぎ始めている。その騒ぎは彼女に任せるとして…。
「で、一つお願いがあるのですが。」
「なんでしょう、できることなら、なんでもします。」ぴしりと場の空気をあらためて答えてきた。
「すいません、そこの…、玄関のところの、部屋の隅でいいです。その場所を少し貸してもらえませんか?しばらく眠るので…。」
「……はぃ???」
やや素っ頓狂な声を出した彼女だが、もうここで俺は話を打ち切ることにした。
たまらない。
声や音が何重にも重なって聞こえるような気がする。肉声と心声が重なっているのか?感覚が混乱し始めていた。
なんだかここは、すさまじく騒がしい。さっきまで、こんなところだったか?
いろいろな音、人の声、さまざまな光、何かの味、匂い、種種雑多な情報が雪崩を打つように詰め込まれてくる。何に焦点を合わせていいかが分からない。まずい、集中が途切れている。己をしっかりと保て、と自分に言い聞かせた。この状態で我を忘れるわけにはいかない。
他のことはいい、まず戻ることだけ考えろ…。
そう、これが、この状態の最大の難点だった。
俺は一度こうなると、なかなか元に戻れないのだ。体色も変わったままである。
世界の歯車の回し方は知っているが、その止め方がよく分からない――、簡単に言えば、俺はやっと飛べるようになったが、降りるのがヘタクソな鳥なのだ。一通り、師のできることは自分にもできるが…、何でもかんでも師のようにうまくやれるわけではない。こうなると、結局いつも、師に戻してもらっていた。
…たぶん、その部屋の隅を借りるくらいなら、念押ししなくても許してくれるだろう。俺はとにかく行動に移ることにした。
「リョータ、いいかい?」
「…なぁに?」そばに寄ってきたリョータに目線を合わせ、しゃがみ込んだ。
「ちょっと、一緒に寝てくれる?」
「……また、ムリしたの?」
心配して、リョータがしゃがんだ俺の頭を撫でてきた。
不眠の時は、リョータに同調して眠る、という手法をとり続けていたので、とうとうこの子も学んでしまった。もう苦笑するしかなかった。
だが、今回もその手法を使うことで、自分をもとに戻す算段である。甘えるしかなかった。理論的にはできるはずだ。歯車の調律をリョータに同調することで行う。リョータの調整は何度もやっているから、同調するのは容易い。
この状態でいることにはなんら苦痛はないのだが…、感覚の混乱がよくあった。すべきことに集中しているときはそれも忘れ、その感覚もすべて統合し、事態に当たれる。だが、集中が途切れるとこのありさまだ。たくさんに重なった世界が、今も垣間見える。どこに焦点を合わせていいかが分からない。認識が変わると、どこか別の世界に流されてしまってもおかしくない。
鳥とて、常に空を飛び続けるものではない。師でもそうだった。戻らなければ。
…もし、ずっとこの状態でいたのならば、師のようになるのだろうか。
ふと、師の最後を思い出した。そういえばあのときの師の体も、黄金色だった。
師がこと切れた後、突然、その肉体がまるでそう仕組まれたかのように活動を始めた。
世界の仕組みの歯車が、今まで見たこともない勢いで回転し、回転し、回転し…、まるで濁流にでも、のまれたかのようだった。そのくせに動きは正確無比。肉体がエネルギーに満ち溢れ、こぼれだし…。
最後にはその肉体自身、そのものを別のものへと昇華させてしまった。師の肉体は黄金色に変わり、実体がどんどん霞のように薄れ…、最後には跡形もなく、消え失せた。
むくろを残さないとは、いかにも師匠らしかったが…。…たぶん、風に溶け、空間に溶け、そばにいた俺自身の中にも溶け…、世界の一部になったのではないかと思う…。
…検証はまだ済んでいない。己が己の体で試してみるときは、己がこの世を去る時だろう。
部屋のすみに、リョータを抱え込んでうずくまる。外套を羽織ってくるまった。リョータがきまじめに、そして必死に、いい子いい子、と頭を撫で続けてくれている。くすぐったく、心地よかった。――ああ。師の手が俺に触れている。――必死なリョータには悪いが、俺はリョータに眠りを誘導した。そしてそれを追いかけるように、自身の体機能を同調させていく…。――師の手があたたかい。幾度この手に助けられたか。大丈夫だ、俺は戻れる……。
自分で思っていた以上にすみやかに、体機能が常態化されていく。眠くなってきた。俺は素直にそれを受け入れた。我慢せずにあくびを一つする。自分の努力もそういらないようだ。師の助けは大きいと思うが、リョータを抱き枕にするとこうなる条件反射でもできたのかもしれない。
ぼんやりと――考えた。
これで戻れたら、我々の休息は、完全に終わりを告げることになる。
物事が変わるときは、一息にいろいろなことが同時に起こるときがある。
今回がそうだった。時が満ちた、ということか。
俺はいま、師との旅を、完全に再現してはいなかった。実は、できなかったのだ。
我々が村々を回診するのは、それなりに意味がある。だが、人々にはもっと求めていることがある。それは、必要があるときに、医師がそこにいてくれることだ。
たとえば、今回のように事故があった時、病状が急変した時など、救急の時である。
回診だけではこちらの都合を押し付けてしまう部分がある。患者にとっては、必要な時にすぐ駆けつけてくれることを望んでいる場合が多い。辺境では医の覚えがあるものは少なく、少ない医師のもとに患者を運ぼうにも、距離と地形が問題になるからだ。それで助かる命が、助からないことも多い。
師が健在だったころには、この火急の対応も行っていた。師は呼ばれれば、いつでもすぐに、どこへでも行けたから。
師が逝去してからは…、俺は全ての村々を回るとき、しばらく対応できなくなったことを告げていた。苦渋の決断だった。どんなに苦しくても告げざるを得ない、それは事実だった。俺の能力が足りないのだ。
…あの時、歯を食いしばったことを、俺は忘れてはいない。少し待ってください、何とか対策を考えますから、といった言葉が、どれほど己にむなしく響いたことか。
師が亡くなったこと自体が人々には衝撃だったので、その件はどこででも納得されてしまった。俺の様子には誰も気づかなかった。
それから、俺は対策を練り続けていた。
俺が救急の対応をするに、問題が三つあった。
一つは、己の感覚が鈍いこと。まず最初に、誰かに呼ばれていること自体が、俺には分からないのだ。
一つは、最大限に力をふるうと、戻れなくなること。
一つは、リョータのことだ。しばらく、手を放せる状態ではなかった。
その三つだった。最初のひとつが、何よりも致命的である。
対策はもう考えていた。はからずしも、今回、全ての問題に答えが出そうである。
実は、クォンのお守りは、師匠が村々に置いて回ったものと同じものである。師の助けをまったく借りず、己だけで作ってみたものだ。今日、ちゃんと起動したということは、俺はあの構造をきちんと理解している。
村々にある師の遺品をいじる前に、それだけは確認しておきたかったのだ。壊しては元も子もない。
自分が作ったものには、一つ、機能を上書き・追加している。それは通信機能である。もともと、危急を知らせる機能はあるのだが、それを俺の感覚水準でもわかるように改造したわけだ。まったく使い方を教えていないクォンでもその片鱗を起動できた、ということは、かなり期待できる。あと、二・三回実証試験をすれば、すぐに使い物になりそうだ。最初の問題はほぼ解決した。
二つ目は、今やってみている。たぶん大丈夫だ。
三つ目は、今回の滞在で自覚させられた。リョータは俺の患者を卒業しつつある。
――と、なると、あの生活に戻るのか。
複雑な気分だった。
師に届いていないことが悔しかったことはある。そして、これが人の助けになることも、望まれていることもわかっている。自らの意志で選ぼうとしている、ということも。
――それでも、喜んでやりたい、と言えるような仕事ではとうていなかった。
いつ呼ばれるともしれない生活。そして――。
おのれの手の限界、というものを思い知らされる。
師でも救いきれない人はいた。才の劣る俺では、より、救えない人の手を取ることになるのだろう…。
――一度、幼い女児を救いきれず、その父親に手を挙げられたことがある。
相手の悲哀も絶望もすべてわかっていて、黙らせるにあり余る力と見識を持ちながら、ただ黙して殴打される、師の姿。
そんなもの見ていられず、かばって俺が代わりに殴られた。そしたら、それで師とケンカ腰の言い合いになってしまった。魔法使い同士の本気の言い合いに、その場はもろに影響を受け、何もかもがうやむやになってことは済んだ。それはそれで一つの思い出だが、また再び味わいたい思いでは断じてない。
思い出してしまった。げんなりとした思いがわいてきた。
また、あんなことがあるのかもしれないのか。
でも、俺は先に進むのだろう。
もちろん、喜びと充実感もある生活であるとは知っている。誰しも果たすべきことを果たさぬまま、この世を去りたくはないからだ。
でも、たぶん、大きな理由はそれじゃない。
俺は多分、あの師の後ろ姿を、忘れることはないだろうから。
師の隣に並ぶ、ということは、そういうことだと思うから。
たぶん、そうだと思うから。
…だから、だろう。
眠りに落ちる寸前に見た腕の色は、まだ淡い金色だった。
次に目をあけたとき、この色がもとに戻っていたら、我々の休息は完全に終わりだ。
また、旅がはじまる。
超、蛇足な話ですが、ここで出てくる治療法は、リゲルが使える治療法の、現時点での最高峰として、師匠が提示したものです。
粒子・流体、肉体を分子的にとらえ、それを正常な位置に戻す、もしくは『設計しなおす』。
とはいえ、それがこの物語で語られることはついぞありません。師匠が伝えていない、あくまで、現時点での目標点として提示しただけにすぎないからです。
リゲルであれば、いずれ自分と同じように、意味や本質からの干渉ができるようになると、師匠は疑っておりません。だから語られることはありません。あくまでいま、目でとらえることができる目標地点を開示しただけ、という意味合いです。
師匠がどんな魔法使いであったかは、第二部で語られます。




