二章 隠者の休息 ⑩
もう日が落ち始めていたのが幸いした。誰の人目にもつかず、目的地に降り立つことができた。クォンの家はリョータから聞いて知っている。誰何の声も待たずに扉を開けると、すぐにクォンが駆け寄ってきた。
「おじさん!」
「うん、わかってる。お父さんは?」
「こっち!」クォンが奥の部屋を指さした。足早にその先へと向かう。後ろで興奮したリョータの声が聞こえた。
「クーちゃん!あのね、すごかったの!せんせえ、バビューン、バビューンって、空飛んで来たの!」
「え?え?」
子供の会話は無視する。奥には、亭主と娘を後ろ手にかばい、決然と立つ女性の姿があった。
「…あなた、だれ?何者?」
あからさまに不審がる気配。――困った。クォンは状況を説明していないのだろうか。あまり時間はなさそうなのだが。
「クォン君に呼ばれた者です。魔法使いで医師、リョータの親代わりもしています。」
「あなたがこれを使わしたの?」
…これ?その単語に疑問を抱くが、すぐに分かった。見えるのか。霊眼もち…、まじまじとその女性を見つめてしまった。猫の獣人とはいえ、控えめに言っても、美人と言ってよさそうだ。いい骨格と肉付きをしている。健全そうな毛並に瞳の色。――どきりとしたが、今は、余計なことを考えている時ではない。
「こんなの使ってるなんて、どう考えてもあなたタダモノじゃない。あなた、なんなの?」
この言葉はさすがに聞き捨てならなかった。
「すいませんが…」多少、挑むように答えた。
「そこにおられる方は、私の師であり、大切な盟友です。どちらかというと、私が仕える立場です。使い魔のように言うのはやめていただきたい。お願いします。」
頭を下げた。―――我ながら、こんな悠長なことをやっている時ではないとわかっていた。わかってはいたが、とてもゆるがせにはできなかった。したくなかった。
虚を突かれたのか、その女性が押し黙る気配がする。俺は顔を上げるなりすぐに言った。
「その人を、診察してもいいですか?」
女性が呆然と俺を見つめる。俺は幾分か焦りながら、さらに続けた。
「あまり時間はなさそうです。ダメですか?」
女性が躊躇を見せたのは一瞬だった。すぐに娘を伴い、場所を譲る。
当然か。見えるのなら、敵でもなく害もないとわかるはず。この人とはもう少し話をしてみたかったが、時間がない。すぐに近づいて瀕死の男に触れた。走査する。
――――――――――――かなり、悪い。
自分の顔から、音を立てて血の気が引いて行った気がした。恐怖が一息で自分の心臓を鷲掴みにする。息が止まりそうになった。
なんでこれでまだ生きているんだ。そっちの方が驚きだぞ。他の医師が匙を投げたのもうなずける。
胸部圧迫による肋骨複数の骨折。それによる心のうと肺の挫傷。肺には複数の穴、それによる呼吸不全。心膜内に血液貯留・循環の低下。腹部内臓破裂が数か所、複数の臓器がやられてる…。膵は断裂…、片方の腎臓はつぶれている。両前腕部に擦過傷がある…両腕で受け止めて頭は守ったが…胸部と腹部で受け止めた?骨盤にも骨折がある。脊椎・脊髄は奇跡的に無事。
中枢を見ると、個々の細胞の生命反応が極端に落ちている、まるで仮死――師の仕業か。そのおかげで細胞のエネルギー消費が少なく、かぼそい循環でも中枢が生きている。顔面腫脹、両眼球結膜の充血。急激な圧上昇により、毛細血管が各所で破綻…。
背筋が冷たくなるようだ。パニックになりそうな自分を抑えながら、ほとんど条件反射的に必要事項を行っている。気道を確保。体腔内外の空気を操り、キズを広げないようにゆっくりと…、しかしムリヤリに肺の正常部分を膨らませる。同時に血流自体を制御。損傷部からの出血をこれ以上広げないよう、緩やかな循環を生み出す。循環の最優先は脳。頸部静脈と動脈の血流制御をおこなうだけで、簡単な循環は生み出せる…。
だが、これからどうする。これを治せっていうのか?むちゃくちゃだ。
切迫感にのまれそうになりながらも、思考は勝手に回り続けている。すぐそこで状況を問う女性の声が聞こえた気がする。だが、たとえそれがちゃんと聞こえていたとしても、答えるゆとりはなくなっていた。
どこから手を付けていけばいい?優先は心のうと肺。それははっきりしている。切開するか?切開せずにこの状態を維持し、時間をかけて内部のキズを修復していく術はある。――だが、それではだめだ。時間がかかりすぎる。時間がない。時間を置くと出血がまし、今度こそもう取り返しがつかなくなる。腹腔内にもれた腸の内容物から炎症も始まる。消化器の壊死も。物理的に傷を縫いふさぐ時間も足りない。つまり切開も無意味。そもそも手技的な縫合はまず不可能だろ!一人で繊細な作業を二つ同時にはこなせない。この状態の維持は必須。ならば同時に出来る魔法的な手段で、最速最短に、各所の組織を再生・構築する必要がある。
ここで、俺の思考は止まった。我知らず、息をのむ。
――そうか、つまり――
つまり、俺に、それをやれ、ということか。
師よ!俺は心の中で絶叫し、助けを求めた。今度こそ、本当にパニックが訪れる。
なぜならそれは本当に最後の手段。恐怖が自らのうちをむしばんだ。俺は一人でも戻ってこれるのか?!
――ふと、急に心が冷えた。荒れ狂っていた胸の内の嵐が消え、唐突な凪が訪れる。
我知らず、顔を伏せて閉じていた目をあけた。すると、己の手の上に温かい手が置かれている。
それを認め、苦笑した。目を上げずとも、それが誰かはわかっている。――おのれが情けなかった。
だが、これで踏ん切りはついた。憂いをここですべて振り切る。
やる。決断した。――頼りないが、対策は立ててあるのだ。
「リョータ、そこにいるか?」
「うぇっ?」唐突に名を呼ばれてびっくりしたのだろう、へんてこな声を上げてきた。そのあとで、おずおずと付け加えてくる。
「うん、ここにいるよ?」
「よし、そこにいてくれ。後で頼みたいことがある。」
振り返らずに答えながらもその返事は待たず、俺はもう手順に入っていた。
肉体の奥深くに秘された生命の曲り杖。それに付随する世界の仕組みの歯車を、一つ一つ、順に回し始める。正しく。精密に。股間から下腹部、さらに上へと…。確かな力が噛みあい、順番に上へ、上へと昇っていく。…一つ、二つ、三つ…、そして七つ。力は曲り杖の天頂にて結実し、額へと落ちた。その小さな力、光の一しずくが…
この世界と肉体に、膨大な変化を引き起こす。
意識がはじけた。
感覚が鋭敏になり、周りを複数の視線で見ているような気分になる。
それでいて、世界がとても遠い…。リョータが息をのむ音が聞こえたような気がする。リョータだけでない、周りにいる人全ての息遣い、心音、筋肉が動く音…。だが、雑多な情報は、より大きな流れの中に押し流されていった。
世界に力が満ち溢れている。それが自身の肉体に流れ込み、共鳴し、自分の中の歯車をさらなる力で押しまわし始める。霊威が溢れ、見えない風となってあたりに逆巻き、吹き荒れた。
…半眼となっていた眼をはっきりと開ける…、自身の毛並みが黄金色に変わっていた。鮮やかな波紋が、体毛をさざ波のようにそよがせているのが見て取れる。
――今回は黄金色か。瞳は何色なんだろう?
師の作り上げた魔法系統は独特で、極めていくと――このような現象があらわれる。
この体色の変化は規則性があるのだろうか?突き詰めて検証はしたことがない。
とにかく、師が本気で、己の力を最大限いかすとき、その体はそのたびごとに、万色に変化していた。
ふと気づくと、回りの生者たちが唖然とこちらを見つめている。
むりもないか。本物の魔法使いは、よく鳥に例えられる。
鳥は地に降り立ち、歩きもするが…、たとえ地を歩いていても、空の飛び方を忘れるわけではない。
そして今は、魔法使いとして、飛翔の時だ。




