二章 隠者の休息 ⑨
目をあけると、すぐ横にリョータの顔があった。
「せんせえ、だいじょうぶ?」ぺたぺたと俺のほっぺたをさわり、聞いてくる。本当に心配そうだ。無理もない。ほんの少しだが、この体から魂を留守にしていた。何の受け答えもしなかったはずだから、かなり心細かっただろう。
「大丈夫。」頭をなでて、リョータを安心させる。すぐに結跏趺坐をといて、周りに敷いた結界を解いた。
結界は、幽魂を留守にした状態の肉体を守るためのものだ。リョータも自分にくっついて、ここから絶対動かないよう、しっかりと念を押していた。よく言うことを聞いてくれたようだ。
結界としていた紐を二重にし、首にかける。真球の水晶を止め玉として、そこで結び目を作った。これで首が絞められることもない。元のお守りに早変わりだ。俺の持つ唯一の装飾品は、このようにさまざまな用途があった。
…実は、このお守りは、師が俺のために考案し、作ってくれたものである。本人ともに認める、師の最高傑作のひとつだった。
水晶球に紐を通しただけ、という簡素なつくりからは全くそう見えないが、分かるものにしか分からない、高度な技術と知識が詰まっている。
たとえば…、下げ紐からして尋常ではない。ずっと身に着けているのでうす汚れてしまって、分からないだけだ。これは全て銀でできている。アリの頭なみに小さい輪を連ねた銀鎖だ。銀鎖のみだと毛が絡まるので、表面はきぬ糸なみに細く伸ばした銀線で、しっかりと編まれた布でおおわれている。銀鎖・銀線は結わえられ、編みこまれ、魔術的に補強されて俺一人がぶら下がってもびくともしない。それでいて普通のひものような柔らかさだ。ここらでもうどうしてそうなるという意味の分からないシロモノである。広げれば結び目はなく、きれいな真円となり、驚異的な技術と言えた。
さらにこまかくいうと銀すら魔術的に希少な銀で、破魔の力を持っている。中の銀鎖を編みこんだ構造すら、複数の魔術的な意味合いと構成を持っていて、つまり下げ紐だけでも魔法として成立し、今のように媒体としても使用できる。まさしくとんでもない代物だ。これも師の癖だった。二〇〇年も一つのことに傾注し、一つの魔法系統を作り上げた師だ。一旦興味を持つと、とことんまで突き詰めてしまうところがあった。
その師と直接話をするため、魂体となってみたら、すぐにあの場所へと飛ばされた。
誰がどうやって運んでくれたのかは、分からない。師か、あの子の守護だろうか。しかしそのあたりの精妙な関係は今は考えるに値しない。まったく師も現れたのなら、直接伝えてくれれば話は早いのに…。と、思いながら、でもこれが、今の師とのありようだとも分かって来ていた。
師は世の理を乱すことを嫌う。よって、過干渉はしない。
本当に必要な時と、こちらが望んだ時は別だ。今回は自分が気づかなければならない兆候だったが…、結局は師に助けられた。――自身の不出来さを嘆く。でもそんなヒマもない。クォンともに進む、師の後ろ姿が見えた。師が向こうで待っている。行こう。俺がたどり着くまでは、師がもたせてくれている。
手早く全ての荷をしっかりとくくりつけ、背負込んできちんと体に固定した。
「リョータ、ちょっとごめん。」
片方の手をリョータの胴に回し、小脇に抱えて立ち上がってみた。幸いリョータはまだ小さいから、体重も大したものではない。そしてもう片方の手に棍を持ち、少し体を動かしてみる。――うん、少し動きにくいけど、このくらいなら、いけるか。
「リョータ、これから飛ぶから、驚いて暴れるんじゃないぞ?しばらく我慢してろ。」
「…へ?」
「これから空を飛ぶんだ。口をしっかりと閉じて…、そう。鼻で息をしてな。怖かったら、目も閉じてろ」
言いながら、俺は目を閉じ、胸元の水晶球に意識を走らせた。すぐに石は感応し、接続する。かすかに、小さな金属片をはじいたような、そんな澄んだ高い音がした。石から淡い燐光が漏れ始める。
人の肉体の中心には、生命の杖が隠されている。
正確な解剖学を学んだことがあるものなら、気が付くものはいるはずだ。
その魔法使いの曲り杖…、本来ならば師の魔法は、その杖ひとつで事足りる。
このように水晶などの呪物に頼るのは己の未熟。師に追いついていないことの証左だった。だが、師の作ってくれたこれのおかげで、俺は師の魔法のいくつかを師と同じ水準で再現できる。このような緊急時はどうしても時間が貴重になるため、必要になるのだった。いちいち正式な手順や呪文・儀式を重ねているヒマはない。構造・構成・使い方…、全てを理解したものにしかこれは扱えないが、俺はそれを理解している。
別に合言葉も必要ないのだが、するべき手順をたどるのには都合がいい。俺はそれを口にした。途端に自分たちにかかる重力が半分になる。体が軽くなった。
「…??!!」
口を閉じたままのリョータが驚く気配が伝わってくる。無視して俺はさらに手順を進めた。今度は呪物の手助けは必要ない。棍をもつ手の先から大気の粒子運動を操作する。風が音をたてて渦を巻き、目の前に弾力のある空気の塊を作り出す。
俺はそれに片足をかけると、体を思い切り縮めた。全身のバネがぎりぎりと膨れ上がる。そのまま空気がはじけると同時、そのバネを爆発させた。跳躍する。
「どぅぇええええええっ??!」
「リョータ、舌を噛む。黙ってろ。」
跳び上がった先から風を生み出し、操作する。すでに渦を巻いた空気の層が、俺たちの周りに衣のようにまとわりついている。落ちる前にさらにそこで足場を作り、空中でもう一段高く、飛び跳ねた。
「うわわわわわあわ!!!」
口を閉じてろ、って言ったのに…。俺は内心で溜息をついた。そうしながらもさらに同じことを繰り返す。何度か繰り返すうち、俺たちは空のかなりの高みまで登りきっていた。
ここはかなりの高台、ある程度上昇すれば、後は落ちるだけでスピードがつく…。
風を作り風をまとい、圧縮空気で足場を作る。それに足をつくと、跳躍と同時に爆散。爆圧は、可能な限り推進・反発方向のみ制限する。
それにより、空を跳ね、駆ける。
粒子運動制御の応用法。
一つを万象に応用する。これもまた、師の理論の根幹をなす理念である。
――雲が近いな…。一度雲の上まで抜けるか?
さらに筋肉をたゆませ、思い切り爆発させた。進行方向に雲があった。雲の中に入った。視界が閉ざされ、何も見えなくなった。
ごうごうと風が唸り、風が風を裂く音が聞こえる。自身の乱れはじめた息遣い、体がきしむ音がする。やはり、荷が重いか…。
いつもなら、水晶の助けを借りた重力制御など使わない。粒子運動制御のみで、自身の体重くらいなら支えることができる。あとは筋力の力技だ。だが今日は荷が重く、動きにくい。致し方なかった。息が上がってきた。
いつもながら俺の飛び方は、力任せで荒っぽい。でも、この飛び方は何とも言えない、楽しさがある。…きっとやったことのあるものにしか、分かってもらえないだろう。
俺はこうやって空を飛ぶのが、好きだった。
自分の力で風を切り裂いて、空を跳ね、飛んでいくのが、大好きだった。
師ならばもっと優雅な方法をとる。師は重力制御と粒子運動制御・慣性制御、そのほかの技術もすべて同時に出来た。俺は粒子運動制御しかできない。そこでこんな飛び方になった。それでも師は俺が編み出した応用法を、大いに褒めて喜んでくれた。
すべては応用――。お前は本質の方を理解している。それでいい。と。
一足ごとに、体がきしむ。心臓があわただしく、ばくばくと鼓動しはじめる。――熱い。筋運動により発生する熱量が、一気に体中を駆け巡っている。その分、体にあたる風が心地いい。熱が体中に行きわたり、溢れるにつれ、体の中の一つ一つの細胞が目を覚ましていくようだ。体の中の奥深いところから、野生の力が呼びさまされていく気がしてくる。
一足ごとに湧きはじめる充実感。自分が思い切り、足を踏み、跳んでいる感覚。生きているという実感。何か、うずうずとして、そわそわとして、いてもたってもいられない気分だ。俺は今、全力。思う様に空を駆けている。風を切り、雲を突き抜け、またたきする間にすっきりと視界が開かれた。
眼前に、美しい世界が広がっていた。
足下には、たゆたう雲海。
頭上には星々。かそけき光。
はかなげに傾いた三日月。
夜のとばりが静かに、稜線の果ての朱色を隠そうとしていた。
…。
…美しい、世界。
永遠に近い一瞬。
自由な空。…この光景はいま、俺だけのものだった。
一瞬の静謐の後、もう、全てを忘れていた。たとえようもない高揚感が腹の底から湧き上がってくる。血が、肉が、…風が世界が!俺と一緒に謳っている!!
『ウォォ~~ォォオォ~~~~!』
衝動を抑えきれず、気が付くと俺は思いきり、力の限り狼の遠吠えを上げていた。その息吹に、雲までが震えたようだった。
……あ。しまった、つい…。
空をこうして飛ぶと、いつもどおりやってしまうこの癖に、もう苦笑いしかできない。今はそれどころじゃないというのに。
――元気だなぁ。お前はほんとうにいつも、楽しそうに空を飛ぶ。
師の笑い含みの声が聞こえた気がする。
――早く来い。待っている。
俺は気を引き締めた。後は落ちながら方向を変え、跳ねていけばよい。目的地まであっという間だった。




