二章 隠者の休息 ⑧
…実際、それはたまにある事故だった。
荷を積み込みすぎた馬車が、舗装の悪い道で横転する、という、ただの事故。
クォンはそのことをよく知っていた。ただ、知ってはいたが、まさかそれに自分と父親が巻き込まれるなんて考えてもいなかった。ただ、人からきいて、ふーん、と聞き流すだけの物事だと思っていた。
最悪なのは、父が自分を押し出して逃げ遅れたこと。
もろに加工用の大理石の下敷きになって、押しつぶされた。助け出されたときは、人の原型をとどめてはいたが――、もう、何かが変わってしまっていた。
人だかりの中で、他人に支えられる力ない父を初めてみた。手がだらりと垂れさがる。不吉な揺れ方だった。それだけが嫌に印象に残った。
頑強な父だったので、すぐには死なずにすんだ。すぐには。
医師にはもう手の施しようがない、まもなく息絶えるだろう、と言われた。ここまでのキズを回復できる魔法使いは、この町にはいない、とも。
信じられなかった。すべてが夢絵空事のようだった。
人だかりに流されて自宅に運ばれて、その体に泣きすがる母と妹を呆然と眺めた。
じわじわと現実と恐怖が襲ってきた。
夢でも幻でもない。現実だ。父が死のうとしている。ウソだ。でも、現実に父のか細い息遣いが聞こえている。口元についた血の泡。もう苦悶の表情すら力なく、意志を表していない。肌の色がいつもと違う、顔が赤黒くはれている?目が、目が…、真っ赤な血の色に染まって…。
もう見ていられなかった。ウソだウソだと叫びたかった。だが声が出ない。息苦しくて声が出ない。思わず自分の胸ぐらをつかみあげた。何か固いものが手にあたった。首にかかったお守りだった。
そのお守りの感触に、急に体温が冷えたような気がした。――そうだ、あの人――、リョータのおじさん。この町の人ではない魔法使い。確か、人のキズも治すといっていた。
思い立つとクォンはそのまま家を飛び出した。走りながら我知らず泣き出した。泣きながら石を握りしめ、助けを求めた。
「…だずけて!…父ちゃんをだずげて!」
クォンは自分でもどこに向かえばいいのかわかっていなかった。追いかければ間に合うかもしれない。そう思ってがむしゃらに走った。
「だずげて!!父ちゃんがしんじゃう…!…たずけて!」
嗚咽が漏れて、息が整わない。足がもつれて、クォンは盛大にずっこけた。痛かったが、それ以上にわけが分からなかった。どうすればいいのか分からなかった。冷静になれば間に合うわけなんてない。二人は早朝に発った。追い付いて帰りつくまでに、父は死んでしまうだろう…。そもそも、二人がどこに向かったのかすら、聞いてはいない。
ヨロヨロと立ち上がり、ただ泣きながら歩いた。間に合うかどうかなんか知るもんか。とにかくどうにか、何かをやらないと、おかしくなってしまいそうだ。でも心と反対に足の進みは遅くなる。何か重いものが自分の肩に乗っかったようだった。その重さにただ、身もふたもなく泣いた。でも歩みは止めなかった。
涙で視界がゆがみ、周りがよく見えない。もう夕暮れになり、日が完全に落ちようとしていた。
――つと、クォンは自分の頭に誰かが手を触れた気がして、歩みを止めた。
“……どうしたの?”
声なき声に目を凝らすと、すぐそこにあのおじさんの姿があった。
「…うっ、うわぁぁぁぁぁっ!!!!」
あまりに唐突な出現に、度肝を抜かれて飛びすさる。しりもちをついてしまった。
“おどろかないで。”
耳には聞こえない声がする。おじさんの姿は後ろの風景が透けていた。淡く光っているような気もする。その幻の手が自分の額に触れると、不思議なほど気分が落ち着いた。
“どうしたの?俺を呼んだでしょ?”
おじさんが自分の胸元にあるお守りを指さした。全く気付かなかったが、今、そのお守りはおじさんと同じように淡く光っている。
「あ…、あ…。」驚いてはいたが、伝えることはわかりきっていた。今来た道のり、後ろを指さす。
「父ちゃんが…父ちゃんが、岩の下敷きになって……、もうみんな助からないって、もうすぐ死ぬって…。」
泣き声で絞りきられていた肺は、それでも途切れ途切れに声を吐き出した。
「目が真っ赤な血の色で…、息もヒューヒュー言ってるし…。」
“…じゃあまだ、息はあるんだね?”
首をかしげて、おじさんが聞いてくる。クォンはうなずいた。
“わかった。すぐに戻る。クォンはこれを…”
そういっておじさんの手が、胸元のお守りに伸びてきた。指先が石に触れる。途端に火がついたように、石の輝きが増した。
“…これを、今すぐもどって、お父さんの首にかけるんだ。いいね?”
呆然と、石の輝きを見ていたクォンは、顔を上げるとおじさんの姿が消えているのに驚いた。幻だったのか?…だが目をおろすと…、やはり、胸元の石はいまでも、燦然とした輝きを放っている。
その光を前に、言われたことが頭によみがえった。我に返る。急がないと。クォンははじかれたように全力で駆け出していた。




