二章 隠者の休息 ⑥
歩き始めると、気づくことがある。
空気のにおい、風の音、緑の色、足裏の土の感触。
そのすべてが、違っている。何度も通ったはずなのに、まったく同じ道の気がしないのは、なぜだろう…?
空を見上げた。よく晴れているが、今日は雲が多い。
陽射しを受ける雲が、まばゆく白く映えている。
その動きは穏やかだ。うららかな日和…、昼寝したり、思い切り体を伸ばして、草原を散歩したくなってくる。
だが、ただ歩く。
横ではリョータが、楽しかった町の思い出をずっとしゃべり続けている。だが俺の心は別のところに飛んでいた。
足が動き続けている。当たり前のように前後へと。自分の筋肉の動きがわかる。荷の重さに負けていない。疲れてもいない。大丈夫だ。まだまだ先に行ける。
空を見上げると、雲がお供で、やがて音が戻り始めた。鳥の鳴き声。耳のすぐそばを通り過ぎる虫の羽音。そこらでそよぐ草ずれの音まで。親しい友が、いますぐそこに戻ってきたかのようだった。
…忘れていたわけではないのに、どうして。
草の葉の一枚一枚にまで、目を凝らせば色が見える。
草原には風が映える。
海原のように、風で波打つ広い草原。
きらめく緑の光が、風の通り道を告げていた。
その波間を泳ぐ、ゆったりとした大きな雲の影…。
…戻ってきた。
ふと、そう思った。
――自分はもう、こうして歩いて旅をするのが、己の生の一部になってしまっている。
雨宿りするところがない雨の日、風の日、森の中の虫、なめくじ、つらいことはたくさんある。それでも。
毎日毎日が、目的をもって、前に進んでいる。その実感がある。
一日の思考・行動のすべてを歩くこと・旅することに使い、目的地に着いたら、今度は治療が歩くことにとって代わる。そのために一日が使われる。
恐ろしいほど単純で、濃い時間。
過ごしたことのある者しか、知ることのない、圧倒的に濃厚な時。
師と何度も共有した時間。俺はそこで、たとえようもないほどに単純で、力に満ちた生を見た。
……また俺は、ここに戻ってきた。
横ではリョータがまだ、ずっと町でのことをしゃべり続けている。俺が半分、心ここにあらずなのも気づいていない。
考えた。
――でも、リョータはまだ、そうじゃない。
そろそろ、リョータは俺の“患者”を“卒業”する時だ。
俺も、リョータから“卒業”しなきゃいけない時が、来るんだな。
まだもうしばらくは、幼いし、一人で生きていく力もない。親代わりの責任として、必要なことを教えておく義務がある。読み書き計算は特に。でも、その後は――。
それを考えると、少し気が塞いだ。
お互いにお互いの役割を、“卒業”だな。俺はまた一人で、この道を歩くことになる…。
…少しだけ、乾いた笑いが漏れた。世の親と言われるものは皆、こうした気分を味わうのだろうか?
だが、いいさ。
よく笑うリョータの顔が思い浮かんだ。無防備に抱きついてくる小さな手…。笑みが漏れた。今度の笑いは、暖かいものだった。
俺たちはもう、家族だ。血のつながりはなくても、親子みたいなもんだ。幸い俺は魔法使いで、どんな距離があろうと、夢を渡れば、いつでも会える。物理的な距離など意味がない。別れて暮らすことになっても、たまに会いに行けばいいさ。家族といってもいろんな関係性がある。師も言っていた。こういう時大切なのは、一つの形にこだわりすぎないこと。
思わず手をのばした。話し続けるリョータを無視して、頭をわしゃわしゃと撫でてしまう。
話を中断されて怒るか、と思ったが、リョータは「にぱーっ」とはじけるように笑い返してきた。俺もそれにつられるように笑ってしまう。
変わらないものがあるさ。大切なものは、なくならない。




