二章 隠者の休息 ③
この浴場も天然の温泉水を引いている。節制をせずに温水を使える、というのも贅沢なものだ。これもこの町での楽しみの一つだった。
リョータの体を洗ってやり、浴槽に浸からせる。
「あったまるまで、でるんじゃないぞー?」
そう言いおいて、今度は自分の体を洗うのに取り掛かった。
そろそろ、リョータも自分で体を洗える年頃だろうか。いったい、いくつくらいからそうするものなのだろう?
そんなことを考えていた時だった。
「ダメだよ。」
ふと、聞きなれない声がして後ろを振り返った。
浴槽の中で、リョータの前に、見知らぬ男の子が立っている。
「桶を中に入れて遊んじゃ、ダメなんだよ?」
どうやらリョータは、そこにあった桶を浴槽に入れて遊んでいたらしい。そういえば、注意していなかった。
ぽかん、として反応を示さないリョータに、しびれを切らしたのかその子が行動する。リョータから桶を取り上げ、浴槽のふちにおいた。
「ダメなんだってば。」
その子には長い尻尾があった。猫と人が混じった顔をしている。体は薄い山吹色の体毛に覆われていた。猫の獣人の子供だ。年や背丈はリョータと同じくらいだろうか。
「きみ、どこのこ?」
見知らぬ子供に話しかけられ、リョータが物怖じしている。答えることができなかった。
「…よそから来たの?」
困惑したリョータが、俺とその子を交互に見て助けを求めてくる。口をはさんだ方がいいだろうか、考え始めた矢先だった。その子が聞いてきた。
「…この人、お父さん?」
俺を指さして聞いてくる。…これは、困った。
リョータも首をかしげる。リョータはまだ「お父さん」が何か理解していない。
「お父さんじゃないの?」
「…せんせえ。」
俺を指さして言う、いつもと違う単語に、リョータはいくぶんか気を悪くしたらしい。初めて答えた。
「…せんせえ?」
「せんせえ!」
村の回診では、皆が俺のことを「先生」と呼ぶので、リョータは俺を「せんせえ」で覚えてしまった。今度はその子供の方が、「せんせえ」は聞きなれない単語だったのか、首をかしげてくる。
「…お父さんはどこにいるの?」
――これにはさらに困った。リョータがまだ理解していない問題ばかりだ。俺まで答えあぐねて、微妙な沈黙が訪れてしまう。
しかし、ここでさすがに助け船を出そうと、俺は口を開きかけた。
「こら、そんな立ち入った事まで聞くんじゃない。」
と、その子が後ろから来た男に、ぽかりと頭をはたかれた。「いってぇー!」悲鳴を上げ、その子が抗議する。
「なにすんだよぅ!」
「ちょっとは口を慎め、クォン。また殴られたいか?」
「…だってー、この子がー…。」
ぶつぶつと少年が文句をいう。クォンと呼ばれた少年の後ろから来た男は、長身でがっしりとした人種の男だった。無精ひげを生やした温和な口元をほころばせている。
「ごめんな。変なことを聞いたかい?」
さらにあらわれた見知らぬ大人に、リョータが目に見えて困惑を深くする。一時浴槽から上がってこちらに来ようとするが…、俺を見て思いとどまった。――どうやら、先ほどの指示を律儀に守っているらしい。さすがに俺も、ここで口をはさんだ。
「いえ、すいません。こちらも桶で遊んだらいけない、と、言い聞かせてなかったもので…。その子は注意してくれただけなんですよ。」
「ふぅん…」その男がしばし俺とリョータを見比べる。口を開いた。砕けた口調だった。
「見ない顔だなぁ、湯治客かい?」
「ああ、まぁ…、そんなようなものです。」俺はあいまいにうなずいた。
「ふ~ん…」男は鼻を鳴らして、しばらく思案したようだった。
「お客さんだったら、あっちの子供用のとこ、知らないだろ。クォン、その子連れて、行ってきていいぞ。」
「ほんと?いいの!?」少年が振り返って目を輝かせた。
「いいぞ。その代り、この子も連れて行ってやれ。」
「わかった!」
そういうと、クォンは有無を言わせずリョータの手をとり、引っぱった。
「行こう!」
わけの分からぬままに自分を連れて行こうとする少年に、リョータは呆然とすることしかできなかった。一瞬連れていかれかけたが、すぐにはっとして踏ん張り、全力でその力に抗う。浴槽のふちをつかんでかじりついた。
「どうしたの?行こうよ!あっちの方が楽しいんだよ?!」
「…あちらには、何が?」俺は尋ねた。
「子供用の浅い風呂があるんだよ。そこでは好きに泳いでもいいし、飛び込んでもいい。おもちゃもある。まぁ、遊び場だな。子供の退屈しのぎにゃちょうどいい。」
へぇ、そんなところができたのか。それとも、今まで気づかなかっただけかな…。
そう思いながら、リョータを見おろした。まだがっしりと浴槽にかじりついていた。
俺は思わず苦笑した。
「いいよ、リョータ、行って来い。」俺の言葉に、リョータが目をしばたたかせる。
友達を作るいい機会かもしれない。俺は浴槽をつかんだ手を取って外させ、促した。
「ほら…、クォンくん、よろしくな。」
「うん!じゃあ、いってきま~す!」
「おう、ちょっとの間だけだからなー。」
そうかけられた声に、子供たちは気づいたかどうか。リョータが救いを求めるように、こちらに手を伸ばしたまま引きずられていくのが印象に残った。俺は心の中で声援を送り、手を振った。頑張れー、友達になれるといいなー。
「ったく、聞いてんのかね。あそこにハマると長いからなぁ、あいつ。」
ぼやく男に、俺はとりあえず謝った。
「なんか、すいません。」
「…?…あー、いいよ。別に。こちらこそ、息子が立ち入ったことを聞いた。」
そういって、その男はすぐ後ろに座り込んで、浴槽にその身を沈めた。
…息子?その言葉にふと思い至る。この男は人種。あの少年は獣人だ。ということは…。
考えが表情に出ていたのだろう。俺の顔色に気づいた男がにやりと笑い、言ってきた。
「ああ、そう。カミさんが猫なんだ。あの子はそっちの血が強く出たらしい。カミさんは両親もばあさんも普通の人だったんだけどなぁ。」
――それは珍しい、カップルもだが、隔世遺伝か?
「あんたのとこは?」
「はい?」
「聞いていいのか微妙な感じだったが…、あの子、あんたの子じゃないのかい?」
ああ、そういうことか。俺は正直に答えた。
「養い子です。私が引き取って、育てています。」
ふぅん、と鼻を鳴らし、つぶやくようにその男が口にした。
「…わたし、ねぇ…?」
……あれ?見知らぬ人だから丁寧語を使ったつもりだけど、おかしかったか?
しげしげと自分を上から下まで見分され、なんだか落ち着かない気分になった。なにかまずかったか?実は自分も、リョータに負けず劣らず、普通の交友関係に慣れていない。
「あんた、いいガタイしてるね。何してる人?」
「…薬を作って、売っています。」俺はあたりさわりのないことを答えた。
「~~へーーー、そのガタイで?全然そうは見えないな。」
う、どうしよう。そうなのか?
もうちょっと、体は削ってくるべきだったかな。それとも、もうちょっと肥えている方がよかったのか?
ある程度、操体術に習熟すると、痩せたり太ったり、という調整が割と簡単にできるようになってくる。俺の場合は、現状のこの状態が一番動きやすいから、いつもこんな肉体を維持しているだけなのだが…。
そう言われると落ち着かない。自分の体をなでまわしたり、見回していると、再び声がかけられた。
「なんか、鍛えたりしてるの?」
「……旅をするのも物騒ですから、ある程度、鍛えてはいます。」
「―はは~、腕に覚えありってわけかい。なるほどね…。」
どうやら今度はまだ、おかしくない返事ができたようだ。ホッとする。嘘は言っていないし、と自分に言いきかせた。…しかし、落ち着かない。その男はまだこちらの方をじっと見ている。
視線が気になる。本当にウソは言っていないんだけどな、と心の中だけで弁明をした。
実際、幼少時から師に基本的な体操法・体の扱い方は習っていた。師はそちらの方面は苦手だったので、本当に形だけ、だ。そして、二・三日のみで、習ったことは、師よりもうまくなってしまった。
お前は体を動かすことが好きだな、と師に言われ、確かに俺は、そうだった。
師に褒められるのはうれしかったので、より練習するようになると、それならば、と、師は武術の型を教えてくれた。杖術と体術の型だ。師ははるか昔に、学校で習ったことがあったらしい。
型の基本だけでも、俺はそれを何度もなぞることで、それなりの身のこなしができるようになっていた。師もなんだかんだ、と言って俺に付き合い、引きずられる格好で上達した。特に、師が分析して、俺が実践し、二人で理解する。武術の型の動きの合理性、体の構成との相関性、精錬された意味に…、二人して発見し、驚いたものだ。
しかし、師に武術は必要なかっただろう。魔法使いとしての技量が、次元を超えて違っていた。体術・杖術の勝負をした場合、いくら俺の方が動きはいいとしても、その勝率は五分五分に届かない。どう動けば勝てるとわかっている相手の上を行くのは難しいからだ。そんな相手に鍛えられて、俺の腕は上がったともいえる。
そんな師は、ものの教え方がうまかった。俺の興味を生かし、自分の体をどう動かすか、体がどう動くか、体の構造と機能を結びつけ、研鑽させていったのだ。筋肉・骨格・内臓・神経の結びつき…、つまりは解剖学。それが今の操体術と医術の基本につながっている。俺がこの分野を得意になったのは、体を動かすことが好きだったからである。
そういえば…、と、ここで思い出して苦笑する。
師が少し離れた世界の住人となってから、俺は師が隠していた大量の手記を発見した。俺に隠れて、そんなものを時に気ままに書いていたらしい。日記なのか備忘録なのか、判然としないものだったが…、それにより計算すると――、なんと師の年齢は二〇〇歳を超えていた。…前々から年齢というものにまったく執着しないな、とは思っていたが…。それだけ生きてるともうそのへん、ボケてたんじゃないのか。「たぶん百は超えてる。」という、いい加減な話しか俺も聞いていない。
もう百年足りていないぞ?一体どこに置いてきた。死んでまで人を呆れされるとは、なんて御仁だ…。
「…なんか笑ってるけど、どうかした?」
「あっ、あ~、なんでもないです。ちょっと思い出し笑いを。」
後ろから声をかけられて、我に返った。自然と笑みが漏れていたらしい。うしろの男は、「…ふ~ん?」と胡乱なまなざしを俺に向けている。
…まずい。すごく胡散臭く見られているような気がする…。
俺は内心冷や汗をかいた。いくら二〇〇年の研鑽の末を継いだとしても、その知恵の中に人付き合いの仕方はすっぽりと抜け落ちている。心の中ですべて師のせいにして、俺は体を洗うのもそこそこに立ち上がった。
「ちょっと、子供の様子をみてきますね。」
「…そう。俺もいくわ。」その男も立ち上がった。
……うっわ~、これは絶対あやしい目で見られている。天を仰ぎたい心地だった。慣れない経験に自分の動きがぎこちなくなるのを感じながら、その男と連れ立って歩いて行った。




