一章 隠者の旅路 ⑪
医師・治療師としての手が空くにつれ、農作業を手伝った。
恐れ多い、とも言われたが、旅ではいつもしていることだ。体を動かしておきたいし、自分も食べさせてもらっているから、と頼み込んだ。実際、動いておかないと体力が落ちてしまう。
作業が終わっての休憩中や、休憩所では、按摩や脊椎矯正の治療をした。どれも健康増進のためのものだった。中枢や血流を直に操作するようなことはしない。幼い頃覚えた、ただの技術なので、気楽なものだった。師からすべて教わった。――師はどちらかというと体を動かすのは不得手だったから、働いた後にこうするのが俺の役目だった。
――それで思い出した。子供のころ、師から頭を撫でてもらうのは、特別なことだったのだ。
小さい頃、俺はただ頭を撫でてもらいたいがためだけに、なんでも師の手伝いを行った。
師に頭を撫でてもらうのは、本当に特別なことだったのだ。――今ならわかる。我々の手は、直に心が届いてしまう…。
あのころの俺は、師に撫でられると、いつも幸せな気分になれた。何もかもが変わってしまうようだった。得難い経験をしていたのだと思う。師は天才。世界とつながっていた。世界の真理に触れたものの手だったのだ…。
それからは、俺もリョータの頭をよく撫でるようになった。
俺が師ほどになっているかどうかは関係がない。リョータの気持ちがわかったから。彼がどのくらいその手を渇望しているか、うかがい知れたから。無視するわけにはいかなかった。
師が俺の実の親ではないと知った時、言い知れぬ不安を癒してくれたのが、あの手である。
俺が師から受け取ったもの、それが欠片でも届いてほしいと、願うだけだった。
リョータはほとんど俺にくっついていたが、一日に何回か、必ずふらりといなくなった。
後をつけてみると、…母親と暮らしていた小屋のあった場所に戻っていた。そこに何もない、とわかると…、途方に暮れて俺のところに戻ってくる。そして全部忘れたようにはしゃぎ始めて…、またふと思い出したように小屋の跡地に戻っていた。何回も、何回も。それに気が付いたときは、かなりの衝撃をうけた。
…俺は、知っている。リョータの体には古い打撲傷もあった。記憶もわずかだが、垣間見ている。
虐待を受けてなお、子は、母を恋い慕うのか。
何もない白い灰の山を前に、ぽつねんとたたずむ少年の後姿を見るのは、切なすぎて胸が締め付けられた。この子は泣くということすらわかっていない。もうその頃には同じテントで眠るのが当然のようになっていたが、それがわかった日には、リョータを抱きしめて自分が泣いてしまった。リョータは複雑な感情や事情になるともう分からない。ぺたぺたと俺の顔をさわって、不分明な顔をするだけだった。そのうち、獣のように頭をこすり付けてきた。元気を出せということらしい。俺は泣き笑いで、ありがとうと伝えることしかできなかった。
俺が農作業を手伝っているときは、彼はいつも遠巻きにこちらを見ていた。村人とのいさかいを覚えているのだろう。よってこようとしない。
なんとかこちらに呼んで、少しずつでも手伝えることをさせた。うまくできると、必ず頭をなでて褒めてやる。村人たちもその様子をみて、いつしかリョータを受け入れていた。リョータも、彼らを受け入れ始めた。
治療が終わり、村を離れる時が近づいていた。
全員を診察したが、結果は上々。菌というものはその性質上、撲滅が難しいが…、その何倍も、人の抵抗力が強い状態になっていた。人と菌、それぞれが、いい位置に収まったといえる。
ある程度長くいると、やはりここでも、腰を落ち着けて村で暮さないか、と引き止められるが…。
…断った。他の巡回するべき村もあるし…。
師の声が聞こえない。それが一番大きな理由だった。そして、俺はまだ師の答えの真意を得ていない。“進め、助けはある。”あの言葉が妙に心に残っていた。
どうせ、この村も巡回のルートに入っている。また来るし、その時にまたお世話になるよ、その時よろしく頼む、と言ったら…、当たり前だろ!と、意気込んだ若者たちに背を叩かれた。………うれしかった。
村を離れるに当たり、いつもだいたい、ちょっとした報酬をもらっていたが…。これは次の補給地点までの食料、ということになった。つまり、最低限である。次の村まではいけないが、補給地点を介せば、遠回りして旅は続けられる。
そもそもこの報酬というものは、いつもいい加減でテキトーである。…かに見せて、こちらが盗み見た村の収穫状況を鑑みたものになっている。一つはそのための農作業の手伝いだ。村人の感謝の意を汲み、さらにこちらの必要性を折半するためである。
農村が生き残る…、というのは、気候や作柄によっては、想像以上に厳しい現実がある。我々も苦労して治療した人々を、また治療が必要な栄養失調状態に戻しては本末転倒、ただのバカである。付き合いの長い年長は、うすうす感づいているだろうが…、お互い、暗黙の了解となっている。
だいたい、本当にどうしようもなくなれば、金や銀、はては、はちみつから栄養素まで作りえる我々にとっては、村の頼りない貯蓄を奪うのはただの罪悪だ。師はそう言っていた。最低限ですら、もらわなかったこともある。師はその力を自分のため、世を乱すことのために使うことを極端に嫌っていたが、ときどきまっさらな子供のような、茶目っ気を持っていた。「必要なときは細かいこと考えんなアホ。」さらりと砂金を手渡し、買い物をしたことがある。飢饉のときだった。…その食料は飢えた村々へと配布された。




