一章 隠者の旅路 ⑨
ある夜のことだった。
眠りが必要なのに、まったく眠れない。眠る前の瞑想も、うまくできなかった。自己調律がまったくとれていない。テント内で横になってみたが、目はさえるばかりだ。余計なことばかり考える。自分には眠りが必要。それはわかっているのに。
しばらくして、気怠く身を起こすと、大きくため息をついた。隣では静かな寝息を立て、リョータが眠っている…。容体が落ち着き始めていた。
リョータの額に手を触れる。闇の中で迷子になってしまわないよう、ここに俺がいることだけを簡単に伝えた。深くは交流しない。魂の交流は、お互いの奥深いところまであらわになってしまう時がある。ウソはいえない。今の自分の状態は、子供に見せるべきではなかった。
……擦り切れたボロ雑巾にでもなったような、ささくれたひどい気分だ。
手拭いをもって、外に出た。顔を洗って、口でもゆすごう。少しはすっきりするかもしれない。
月もない星明りの下、川岸にしゃがみ込む。よくは見えないが、川面に映ったら、ひどい顔をしているんだろうな、と思った。
水に、手を伸ばす。――伸ばして、不意に思い切り、川面へとこぶしを叩きつけた。細かい水しぶきが飛び跳ね、波紋が表れては、流れ去っていった。
………いらいらとしている。でも、それをどこにぶつけていいのかが、分からない。
―――俺は、何をやっているんだ?これに、何の意味があるんだ?
いつか、師とともに見た、魂の流れ、魂の旅路…。あの中にただ還っていく身ならば、何をこんなことする必要があるんだ?俺は、馬鹿なんじゃないのか?
放縦を尽くし、やりたいことだけをやって、好きに生きていくことこそ人生だ、と、そういう人もいる。
願望と欲求の満足こそが、人の生の至上命題だ、と。
それに対し、我々魔法使いは、欲望を否定はしていない。
ならば何故自分は、こんなことをしている?
しかし、分かっている。――あれを見たからこそ、教えられた魂の意味。この世で生きることの意味。
――知ったうえで、それだけを生きることは、俺にはできない。
そしてまた、分かっている。
自分は、こういう生き方しか、知らないのだ。誰も教えてはくれなかったし、やり方もよくわからなかった。
師もまた、そういう生き方しか知らなかった。
いつか、泣きながら、謝られたことがある。心からすまない、と。このようなやり方しか、教えることができないと。あの時、深くはわかっていなかった。ただ泣きながら師に謝られて、こちらの方が泣いていた。
“――今なら分かる――、そうじゃないよ、先生。違うんだ。
俺たちは結局、似た者同士だったんだ。
だからこそ、盟友になれたんだ……。“
今は、その盟友ももういない。
本来はこういう時、二人で手分け作業をするのが常だった。そもそも長期の治療になりそうな場合は、一方が患者の治療を行い、一方がその治療者の治療を――体調・精神を管理する、というのが我々の本来のやり方なのである。
その発案者たる盟友は、もういない……。
――もう、この旅も、やめるべきなんだろうか……、俺一人では……。
いつの間にか濡れた手もそのままに、膝を抱えて丸くなっていた。
…どのくらい、そうしていたのか。
ふと、だれかの手が、肩におかれた気配がする。
“――進め、助けはある。”
師の声がした。それでも、師の言葉を疑うのは久しぶりだった。顔を上げることすらできなかった。
…また、しばらくの時がたった。
声のした方を振り返っても、やはり師の姿はどこにもなかった。
代わりにねぐらとするテントが見え、中で眠るリョータが目に付いた。
……。
ふと、思い至る。ふらりと立ち上がって、ほとんど夢遊病者のような足取りで、テントに向かった。
リョータの隣に座る。
リョータは、自分が調整した、安らかな眠りについていた。
……。
隣に寝そべった。リョータの呼吸に、己の呼吸を合わせていく。他人を無理に自分へと同調させるのは、かなり応用された技術だ。この本来の基本は、自分を他人に同調させるもの。この最初の訓練は、俺が、師の呼吸・波長に、己自身を同調させていくものだった。その基本に、立ち返る。
基本ならば、夢の中で練習させられるほど、叩き込まれている。その基本をリョータに対して行った。体格が異なるので、呼吸の深さは異なる。すぐに応用した。回数と長さを合わせるのが骨子ではない。体に見合った心臓の鼓動の調子、髄液の循環、精神の波長、霊体の光輝を、リョータのものに同調させていく…。
…やがて、自分の循環が正常化されていくのを感じた。…どこかに、誰かの手を…、温かさを、…感じる…。
いつの間にか俺は、リョータにすがりつくように、眠りに落ちていた。




