第七章 文民統制
神保町の裏通りに、「ラドリオ」という古い喫茶店がある。
昭和の初めから続く店で、煉瓦の壁には蔦が絡まり、店内は昼間でも薄暗い。天井から吊るされた古いランプが、琥珀色の光を、木のテーブルの上に落としている。壁には、色褪せた映画のポスターと、誰かが描いた油絵。コーヒーの匂いと、古本の匂いが、何十年もかけて、壁や床や椅子の布地に、染み込んでいた。
五月十八日、午後七時。
真壁しずくは、店のいちばん奥の、柱の陰になった席に座っていた。向かいには、二人の大人が座っている。
一人は、衆議院議員の秋津千景。五十一歳。野党第一党の、防衛問題の論客で、魔素適性者特別措置法の制定時に、第二十四条――「国は、適性者の心身の健康を保持し、その尊厳を尊重するため、必要な措置を講じなければならない」――を、修正案として盛り込ませた張本人だった。短く刈り込んだ白髪交じりの髪。化粧気のない顔。鋭い目。
もう一人は、東都新聞の社会部記者、樋口晃。三十八歳。くたびれたジャケットに、ノーネクタイ。無精髭。葛西みのりの死と補助炉の関係を、最初に記事にしようとして、デスクに止められた男だった。
灯と小夜とトワは、白樺園から戻る途中で、しずくと合流した。今、三人は、店の入り口近くの席で、コーヒーを前に、外の通りを見張っていた。
「……これは」
秋津議員は、しずくの差し出したタブレットの画面を、長い間、無言で見つめていた。
炉心管理台帳。百四十二人の名前。炉心化処置日。基幹塔移送日。死亡処理。筆跡模写書簡。そして、綾瀬宗一郎の、四分三十二秒の録音。三輪技官の、結晶分析。
「本物、なのね」
「本物です」
しずくは、眼鏡を押し上げた。
「すべての資料に、取得経路と、取得日時を記録してあります。台帳のデータには、施設の端末の電子署名が残っています。改竄されていないことは、技術的に証明できます」
秋津は、タブレットから顔を上げた。その目は、赤く充血していた。
「私が、第二十四条を書いた時」
秋津の声は、低く、かすれていた。
「委員会で、当時の防衛大臣に、こう質問したの。『この国は、子供たちを盾にする。その代わりに、何を約束するのか』と。大臣は、こう答えた。『すべてを』」
秋津は、テーブルの上で、両手を組んだ。指の関節が、白くなるほど、強く。
「すべてを約束して、すべてを奪っていた」
「議員」
樋口が、言った。
「これは、出せる。出さなきゃいけない。うちのデスクが何と言おうと、これは、出す。明日の朝刊に、間に合わせる」
「間に合うの」
「輪転機が回るのは、午前一時。それまでに、原稿と、裏取りを、全部、終わらせる。台帳の名前の中から、遺族に連絡がつく人を、十人。それだけで、十分だ」
「私は、明日の朝、衆議院の安全保障委員会で、緊急質問をする」
秋津は、言った。
「新聞が出るのと、同時に。テレビが入る委員会室で、台帳の名前を、一人ずつ、読み上げる。御厨に、答えさせる。綾瀬に、答えさせる。鷹野に、答えさせる」
しずくは、頷いた。
「それから、もう一つ、お願いがあります」
「何」
「久我凛子さんの、炉心化処置を、止めてください。四十八時間の延期は、明日の午前十時に切れます。それまでに、何らかの、法的な措置を」
秋津は、しばらく考えた。
「人身保護請求。……弁護士に、すぐに連絡する。裁判所が、今夜中に動いてくれれば、明日の朝には、施設に、身柄の提出命令が出せる。それで、少なくとも、処置は止められる」
「お願いします」
しずくは、深く、頭を下げた。
店の入り口近くの席で、灯は、その様子を見ていた。
――正しい手続きで、正しい人に届ける。
しずくの言葉。
届いた、と灯は思った。
ちゃんと、届いた。この国には、まだ、こういう大人がいる。こういう仕組みが、ある。
窓の外の、神保町の裏通りを、帰宅途中の会社員たちが、のんびりと歩いていた。古本屋の店先で、老人が、百円均一のワゴンを漁っていた。昨日、東京湾で、何百万もの禍が天蓋にぶつかったことなど、まるで、なかったかのように。
トワが、灯の袖を、引いた。
灯は、トワを見た。
トワは、窓の外の、通りの向こう側を、じっと見つめていた。
古本屋の、店先。百円均一のワゴンの前の、老人。
その老人は、さっきから、同じ本を、手に取って、戻して、また手に取っていた。十五分間。一度も、ページを、めくらずに。
*
午後十一時四十分。
樋口晃は、首都高速都心環状線の、竹橋ジャンクション付近で、事故を起こした。
彼の運転する乗用車は、緩いカーブで、ハンドル操作を誤り、側壁に激突した。車は大破し、樋口は、搬送先の病院で、死亡が確認された。警視庁は、「居眠り運転の可能性が高い」と発表した。
車内から、取材ノートと、ノートパソコンと、記録媒体は、発見されなかった。
東都新聞の翌日の朝刊に、炉心管理台帳の記事は、載らなかった。
*
五月十九日、午前五時。
灯は、営舎の食堂のテレビの前で、立ち尽くしていた。
久我凛子の、二十二歳の誕生日の朝だった。
『――繰り返しお伝えします。政府は、本日午前四時、臨時閣議において、緊急事態宣言の発令を決定しました』
画面の中で、NHKのアナウンサーが、硬い表情で、原稿を読み上げていた。
『一昨日の東京湾における大規模裂開を受け、政府は、今後さらに大規模な裂開が発生する可能性が高いと判断。改正憲法第九十八条に基づく緊急事態宣言を、首都圏一都三県に発令しました。これにより、内閣は、法律と同一の効力を有する政令を制定できることとなります』
食堂には、八咫中隊の五人が、集まっていた。凛子の椅子だけが、空いていた。
『また、政府は、緊急事態宣言の期間中、来月に予定されていた衆議院の解散総選挙を、延期することを決定しました。鷹野総理は、「国家の存立が脅かされている今、選挙による政治空白を生じさせることはできない」と述べています』
しずくが、テーブルの端を、握りしめていた。
『さらに、政府は、緊急政令第一号として、「魔素災害時における報道及び情報流通の適正化に関する政令」を制定。適性者および天蓋に関する情報のうち、国家の安全に重大な影響を及ぼすおそれのあるものについて、報道および公開を、一時的に制限するとしています』
『また、昨夜、特定秘密保護法違反の疑いで、衆議院議員・秋津千景氏の議員会館事務所に、家宅捜索が入りました。秋津議員は、防衛装備品に関する特定秘密を不正に入手し、外部に漏洩しようとした疑いが持たれています。議員は、不逮捕特権により、身柄の拘束はされていませんが、東京地検特捜部は、国会に対し、逮捕許諾請求を行う方針です』
画面が、切り替わった。
首相官邸の、記者会見室。青いカーテンの前に、御厨恭介防衛大臣が、立っていた。鷹野総理の姿は、なかった。
『国民の皆さん。私たちは今、未曾有の危機の中にいます』
御厨大臣の声は、深く、落ち着いていて、そして、どこか、優しかった。
『一昨日、天蓋は、首都を守りました。しかし、天蓋は、まだ完成していません。完成のためには、さらなる時間と、さらなる資源が必要です。その時間を、私たちは、なんとしても、確保しなければならない』
御厨大臣は、カメラを、まっすぐに見つめた。
『残念ながら、この国難に乗じて、天蓋計画を妨害しようとする勢力が存在します。根拠のない噂を流し、適性者の少女たちの不安を煽り、国民の分断を図ろうとする者たちが。私は、そうした者たちに、はっきりと申し上げたい。あなた方の行為は、三千万人の首都圏住民の命を、危険に晒すものです』
フラッシュが、焚かれた。
『政府は、適性者の皆さんを、全力で守ります。皆さんの健康と尊厳は、第二十四条によって、保障されています。どうか、安心して、任務に励んでください。そして、国民の皆さん。どうか、適性者の少女たちを、信じてください。彼女たちは、この国の、誇りです』
*
午前六時。
桐生征一等陸佐が、第一防壁群群長の職を、解かれた。
理由は、「部下の適性者に対する、不適切な特別休暇の付与」。後任には、内閣官房から派遣された、市ヶ谷の情報本部出身の二等陸佐が、着任した。
桐生は、営舎を去る前に、八咫中隊の部屋に、立ち寄った。
五人は、それぞれのベッドに、腰掛けていた。桐生は、部屋の入り口に立ったまま、中に入ってこなかった。
「すまん」
桐生は、言った。
「俺の休暇許可が、足がついた。白樺園の門衛所の記録と、照合されたらしい」
「一佐のせいじゃ、ありません」
灯は、言った。
「いや。俺のせいだ。もっと、うまくやれたはずだった」
桐生は、ポケットから、煙草の箱を取り出しかけて、やめた。
「秋津議員の人身保護請求は、今朝、裁判所に、却下された。『緊急事態宣言下において、国家の安全保障に関わる施設への司法の介入は、慎重であるべき』だそうだ」
ひばりが、小さく、悲鳴のような声を上げた。
「それから、もう一つ。お前らに、新しい命令が出ている。八咫中隊は、本日付で、解隊。隊員は、それぞれ、別の防壁群に、分散して再配置される。……篠宮と、早乙女は」
桐生は、言葉を切った。
「篠宮と、早乙女は、灰化率の再検査のために、立川の研究所に、出頭するよう、命じられている」
部屋が、静まり返った。
灰化率の、再検査。
――現役の適性者の中から、灰化率の高い順に、前倒しで回収していくしかない。
「行くな」
桐生は、低い声で、言った。
「これは、上官としての命令じゃない。俺には、もう、お前らに命令する権限はない。これは、ただの、一人の、娘を持っていた男としての、頼みだ」
桐生は、部屋の中を、見回した。五人の少女の顔を、一人ずつ。
「俺は、これから、市ヶ谷の警務隊に出頭する。たぶん、しばらくは、出てこられない」
「一佐」
灯は、立ち上がった。
「一つだけ、教えてください」
「何だ」
「私たちは、これから、何をすればいいんですか」
桐生は、灯を、じっと見た。
長い、長い沈黙があった。
「……篠宮。二・二六事件を、知っているか」
「教科書で、少しだけ」
「昭和十一年。陸軍の青年将校たちが、千四百人の兵を率いて、首相官邸と、警視庁と、大臣たちの私邸を襲った。彼らは、腐敗した政治家と財閥が、国を蝕んでいると信じていた。農村は飢え、娘たちは身売りされ、その一方で、政治家たちは、私腹を肥やしていた。将校たちは、自分たちが正しいと、心の底から信じていた」
桐生は、窓の外を見た。
「そして、実際に、彼らの言っていたことの、いくらかは、正しかった。政治は、腐っていた」
「……それで」
「それで、彼らは、大臣たちを、殺した。高橋是清を。斎藤実を。渡辺錠太郎を。寝室で、家族の目の前で、撃ち殺した」
桐生は、灯に、視線を戻した。
「そして、その結果、何が起きたか。彼らの反乱は、四日で鎮圧された。だが、それ以降、政治家たちは、軍を恐れるようになった。軍の言うことに、逆らえなくなった。軍は、反乱を鎮圧したという功績を盾にして、政治を、乗っ取っていった。九年後、この国は、焼け野原になった」
桐生の声が、少しだけ、震えた。
「正しいと信じた者たちが、正しいと信じて剣を抜いた。その剣が、国を、殺した。……俺が言えるのは、それだけだ」
「では、私たちは、黙って」
「そうは言っていない」
桐生は、首を振った。
「篠宮。お前らは、剣じゃない。盾だ。俺は、二十年、お前らを見てきて、それだけは、確信している。お前らは、何も、殺さない。何も、壊さない。ただ、守る。……それが、お前らの、唯一の、そして、最強の武器だ」
桐生は、部屋の入り口から、一歩、下がった。
「もし、お前らが、何かをするなら。盾であることを、忘れるな。剣を抜いた瞬間に、お前らは、あの将校たちと同じになる。盾のままで、何ができるか。それを、考えろ」
そして、桐生は、深く、頭を下げた。
「すまん。俺は、お前らの腕に、なれなかった」
桐生は、去っていった。廊下を遠ざかっていく足音を、灯は、数えていた。
四十一歩目で、足音は、階段の下に、消えた。
*
その日の午後。
営舎の屋上に、五人は、集まっていた。
空は、灰色の雲に覆われていた。湾の向こうの、天蓋の基幹塔が、雲の中に、ぼんやりと霞んでいた。風が、湿っていた。雨が、近いのかもしれなかった。
灯の携帯端末に、何度も、着信が入っていた。新しく着任した群長からの、出頭命令の催促。灯は、端末の電源を、切った。
「……どうする」
ひばりが、最初に、口を開いた。
「どうするん、灯ちゃん。うちら、明日、研究所に行かされんねやろ。行ったら、たぶん、うちらも、あそこに」
ひばりの声が、震えた。
「凛子さんは、明日の朝十時に、背中に石、埋められるんやろ。秋津さんも、樋口さんも、もう、あかんのやろ。新聞も、テレビも、もう、何も言われへんのやろ。選挙も、なくなったんやろ」
ひばりは、灯の制服の袖を、つかんだ。
「なあ。うちら、何のために、盾やってたん。誰を、守ってたん。あんなやつらを、守るために、みのりさんは、燃えたん」
「早乙女さん」
しずくが、言った。
「何、しずくちゃん。また、法律の話?」
「そうです。法律の話です」
しずくは、ひばりの前に、立った。
「あなたが、今、考えていること。私には、わかります。私も、同じことを、考えています。官邸に乗り込んで、御厨と綾瀬を、引きずり出して、全部、ぶちまけてやりたい。私たちには、それができる。どの警察も、どの軍隊も、私たちを止められない」
「せやったら」
「でも、それをやったら、私たちは、二・二六の将校と、同じです」
しずくの声は、震えていなかった。
「私たちが、私たちの判断で、政府を倒したら。私たちは、正義の味方じゃない。私たちは、新しい、独裁者です。誰も、私たちを止められない。誰も、私たちを裁けない。次に、私たちが間違えた時に、誰が、私たちを止めるんですか」
「間違えへんもん」
「御厨も、そう思っています」
ひばりは、言葉に詰まった。
「私たちは、自分で自分に、鎖をかけた。その鎖の端を、選挙で選ばれた人たちに、握らせた。その人たちが、腐っていた。だからといって、私たちが、鎖を引きちぎっていいことには、ならない」
「ほな、どうすんねん!」
ひばりは、叫んだ。
「鎖、握ってる人が、その鎖で、うちらの首、絞めにきてんねんで! 凛子さんの首、絞めてんねんで! 黙って、絞められとけって言うん!」
「そうは、言っていません」
「ほな、何て言うてんの!」
「わからないから、悩んでいるんです!」
しずくが、初めて、声を荒げた。
眼鏡の奥の目から、涙が、こぼれていた。
「わからないんです! 私だって、わからない! 法律は、こんなことを、想定していない! 文民統制は、文民が腐らないことを、前提にしている! 前提が崩れたら、どうすればいいのか、どこにも、書いていない!」
しずくは、眼鏡を外して、腕で、目を擦った。
「……どこにも、書いていないんです」
*
沈黙が、屋上を、満たした。
風が、強くなっていた。雨粒が、一つ、二つ、灯の頬に当たった。
「綾瀬さん」
灯は、小夜を見た。
「綾瀬さんは、どう思う」
小夜は、屋上の手すりのそばに、立っていた。天蓋の基幹塔を、見ていた。
「今朝、父から、電話がありました」
小夜は、振り返らずに、言った。
「『帰ってきなさい。今なら、まだ、間に合う。お前だけは、守ってやれる』と」
「……何て答えたの」
「何も。黙って、切りました」
小夜は、振り返った。
「篠宮さん。父は、私を、守ると言いました。でも、父が守ろうとしているのは、私ではありません。父の娘、という、父の持ち物です。自分の持ち物だけは、炉心にしたくない。それだけのことです」
小夜は、微笑んだ。仮面ではない、本当の微笑みだった。とても悲しくて、とても静かな。
「私は、父の持ち物では、ありません。私は、八咫中隊の、修復担当です。割れたものを、縫うのが、私の仕事です」
小夜は、灯の前に、歩いてきた。
「この国は、割れています。父と御厨さんが、割ったんです。私は、それを、縫いたい。……どうすれば縫えるのか、篠宮さん、あなたが、考えてください。私は、あなたの決めたことに、従います」
「どうして、私が」
「中隊長が、あなたに、頼んだからです」
――八咫中隊の、中隊長代理。篠宮灯。命令だ。
灯は、目を閉じた。
それから、トワを見た。
トワは、スケッチブックを、胸に抱いて、灯を見ていた。
灯は、トワに、訊いた。
「トワは、どう思う」
トワは、スケッチブックを開いた。
そこには、新しい絵が、描かれていた。
永田町の、国会議事堂。首相官邸。霞が関の、官庁街。その上空を、一枚の、大きな、透明な膜が、ドームのように、覆っていた。
天蓋に、似ていた。
でも、違った。
その膜は、外から、何かを防ぐためのものではなかった。
中にあるものを、包み込むためのものだった。
そして、その膜の外側に、トワは、たくさんの、小さな人の形を描いていた。膝を抱えていない。立っている。手をつないでいる。膜の中を、見つめている。
国民だ、と灯は思った。
膜の中の人たちを、見つめている、国民。
灯は、トワの絵を、長い間、見つめていた。
それから、桐生の言葉を、思い出した。
――盾のままで、何ができるか。それを、考えろ。
そして、レイの言葉を、思い出した。
――閉じ込めるためじゃなくて、守りたいものを、包むために使いなさい。
そして、しずくの言葉を、思い出した。
――最初に剣を抜くのは、私たちであってはならない。
灯は、目を開けた。
雨が、本格的に降り始めていた。灰色の雲の下で、東京湾が、鉛色に、沈んでいた。湾の向こうで、天蓋の基幹塔が、雨に煙っていた。
あの中で、百四十二人が、背中を焼かれながら、守り続けている。
明日の朝十時には、百四十三人目が、背中に石を、埋められる。
「……数える」
灯は、呟いた。
「何、灯ちゃん」
「数えるの。私たちが、できることを。一つずつ」
灯は、四人を、見回した。
「一つ。私たちは、誰も、殺さない。誰も、傷つけない。何も、壊さない」
しずくが、顔を上げた。
「二つ。私たちは、権力を、取らない。政府を、乗っ取らない。誰かを、裁かない。それは、私たちの仕事じゃない」
ひばりが、目を見開いた。
「三つ。私たちは、必ず、返す。期限を決めて、その期限が来たら、必ず、すべてを、元の場所に返す。鎖の端を、もう一度、国民に、握らせる」
小夜が、静かに、頷いた。
「その三つを守ったまま、私たちに、何ができるか」
灯は、トワのスケッチブックを、指さした。
「包む」
「……包む?」
「永田町を。官邸と、国会と、霞が関を。全部、防壁で、包む。中の人たちを、外に出さない。外の人たちを、中に入れない。誰も、傷つけずに。何も、壊さずに。ただ、包んで、止める」
しずくが、息を呑んだ。
「それは」
「時間を、止めるの」
灯は、言った。
「御厨たちが、証拠を消す時間を。凛子さんを、炉心にする時間を。報道を黙らせて、選挙をなくして、この国を、自分たちのものにする時間を。全部、止める。そして、その間に、国民に、全部、見せる。台帳も、録音も、白樺園も、塔の中の声も。全部」
「見せて、どうするん」
ひばりが、訊いた。
「決めてもらう」
灯は、言った。
「私たちじゃなくて、国民に。この人たちに、鎖の端を、握らせ続けるのか。それとも、別の人に、握らせるのか。決めるのは、私たちじゃない。……私たちは、ただ、決められる時間を、守るだけ」
屋上に、雨の音だけが、響いていた。
しずくが、ゆっくりと、口を開いた。
「……それは、クーデターです」
「わかってる」
「法的には、内乱罪に該当します。首謀者は、死刑または無期禁錮」
「わかってる」
「たとえ、誰も傷つけなくても。たとえ、権力を取らなくても。私たちが、選挙で選ばれた政府の機能を、実力で停止させることには、変わりない。それは、文民統制の、完全な否定です」
「わかってる、しずく」
灯は、しずくの目を、まっすぐに見た。
「だから、首謀者は、私一人。終わったら、私が、裁かれる。それで、いい」
「そういう問題じゃ」
「そういう問題だよ」
灯は、凛子の口癖を、真似た。
「しずく。あなたが、正しいことは、わかってる。私たちがやろうとしていることは、間違ってる。でも、何もしないことも、間違ってる。どっちも間違ってるなら、私は、誰かを助けられるほうの間違いを、選びたい」
しずくは、長い間、灯を見つめていた。
それから、眼鏡を、かけ直した。
「……条件があります」
「何」
「その三つの誓約を、文書にしてください。私が、起草します。決起の宣言と一緒に、全国民に、公開する。私たちが、何をして、何をしないのか。いつ、すべてを返すのか。それを、最初に、約束する。約束を破ったら、私たちは、ただの反乱軍です。約束を守り切れたら」
しずくは、言葉を切った。
「守り切れたら、何なのか、私にも、わかりません。でも、少なくとも、二・二六とは、違う何かには、なれるかもしれない」
「……ありがとう、しずく」
「お礼を言われることじゃありません。私は、あなたを止められなかった、というだけです。法律家としては、失格です」
しずくは、雨に濡れた眼鏡を、指で拭った。
「それから、篠宮さん。首謀者は、一人じゃありません。私も、起草者として、名前を連ねます」
「うちも」
ひばりが、手を挙げた。
「うちも、名前、書く。うち、みのりさんのクッキーのレシピ、聞きそびれてん。凛子さんに、ちゃんと、謝ってもらうまで、うち、絶対に、逃げへん」
小夜は、何も言わずに、灯の隣に立った。
トワは、スケッチブックの、ドームの絵の下に、鉛筆で、五つの名前を書き込んだ。
篠宮灯。
真壁しずく。
早乙女ひばり。
綾瀬小夜。
鳴海永遠。
そして、少し間を空けて、六つ目の名前を。
久我凛子。
*
雨は、夜になっても、止まなかった。
五月十九日、午後十一時。
久我凛子の、二十二歳の誕生日が、あと一時間で、終わろうとしていた。
白樺園の地下七階で、凛子は、まだ、眠っていた。
炉心化処置まで、あと十一時間。
灯は、営舎の屋上で、雨に打たれながら、東京の夜景を見ていた。永田町の方角。首相官邸の灯りが、雨に滲んで、ぼんやりと光っていた。
灯は、数えていた。
永田町から、霞が関までの、距離。
官邸から、国会議事堂までの、距離。
包むために、必要な、防壁の、枚数を。
「……中隊長」
灯は、雨の中で、呟いた。
「誕生日、おめでとうございます」
遠くで、雷が、鳴った。




