第六章 白樺園
桐生征一等陸佐は、駐屯地の官舎の、自分の部屋で、灯たちを待っていた。
五月十八日、午前二時。天蓋起動の翌日の、深夜。
官舎の部屋は、驚くほど、物がなかった。六畳の和室に、座卓が一つ。壁際に、本棚が一つ。本棚には、戦史の本と、法律の本と、それから、一冊だけ、色鉛筆で描かれた絵本が並んでいた。座卓の上には、湯呑みが二つと、急須と、灰皿。灰皿には、吸い殻が、山のように積もっていた。
灯と、小夜と、トワが、座卓の前に正座していた。しずくとひばりは、営舎に残っている。
「話は、真壁から聞いた」
桐生は、煙草に火をつけた。ライターの炎が、彼の顔を、下から照らした。深い皺が、影になって、刻まれていた。
「録音も、聞いた。三輪技官の分析結果も、見た。鳴海の絵も、見た」
桐生は、煙を、長く吐き出した。
「俺は、二十年、この仕事をしてきた。最初は普通科で、それから、適性者の部隊ができた時に、志願して、こっちに来た。娘がいたんだ。適性者じゃなかったが、お前らと同じくらいの年の」
桐生は、本棚の絵本に、ちらりと目をやった。
「八年前に、裂け目で死んだ。仙台でな。避難所の、体育館の屋根が、鯨に潰された。あの時、近くに、適性者の部隊は、一つもいなかった。全部、東京の防衛に回されてた」
灯は、何も言わなかった。
「だから、俺は、お前らを、一人でも多く、一つでも多くの街に送れるように、この仕事を続けてきた。お前らが盾なら、俺は、その盾を運ぶ腕になろうと思った」
桐生は、煙草を、灰皿に押しつけた。
「それが、この様だ」
長い沈黙が、あった。
「……一佐」
灯が、口を開いた。
「白樺園に、行きます」
「わかってる」
「止めないんですか」
「止めたら、行かないのか」
「行きます」
「だろうな」
桐生は、座卓の引き出しから、一本の鍵を取り出して、灯の前に置いた。
「俺の私物の車だ。官舎の裏の駐車場に停めてある。白いワゴン。古いが、よく走る。それから」
もう一つ、封筒を置いた。
「お前ら三人の、三日間の特別休暇の許可証だ。理由は、『天蓋起動時の戦闘による心身の疲労回復のため』。日付は、昨日にしてある」
「一佐。これは」
「俺は、何も知らない」
桐生は、新しい煙草に、火をつけた。
「お前らが、休暇中に、どこに行こうが、俺の知ったことじゃない。長野の高原で、空気のいいところで、のんびりしてこい。それだけだ」
灯は、鍵を、握りしめた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。俺は、何もしていない」
桐生は、窓の外を見た。夜の滑走路で、誘導灯が、オレンジ色に、点滅していた。
「篠宮」
「はい」
「久我を、頼む」
*
中央自動車道を、西へ。
夜明け前の高速道路は、ほとんど車がいなかった。ヘッドライトの光の中に、白い車線が、次々と現れては、後ろに流れていく。灯がハンドルを握り、小夜が助手席に、トワが後部座席に座っていた。灯は、去年、部隊の訓練の一環で、運転免許を取っていた。適性者は、緊急時に自力で移動できるよう、十七歳から特例で免許を取ることができる。
八王子を過ぎ、相模湖を過ぎ、山梨に入ったころ、東の空が、白み始めた。
バックミラーに、朝焼けが映っていた。富士山の黒いシルエットが、桃色の空を背景に、くっきりと浮かび上がっている。三日前、東富士演習場で、同じ山を、反対側から見た。あの時は、まだ、凛子が隣にいた。
「篠宮さん」
小夜が、窓の外を見たまま、言った。
「私、父の名前を使います」
「え」
「白樺園は、防衛省と内閣官房の共管施設です。父は、天蓋計画の推進責任者です。官房副長官の娘が、父の代理で、施設の視察に来た。そう言えば、少なくとも、門は開くはずです」
「でも、確認の連絡を入れられたら」
「入れさせません」
小夜は、振り返った。その顔に、いつもの、完璧な微笑みが戻っていた。けれど、灯には、それが、仮面だとわかった。とても美しくて、とても冷たい、陶器の仮面。
「私は、綾瀬宗一郎の娘です。生まれてから十八年間、あの人の隣で、あの人のやり方を見てきました。人に、確認の電話をかけさせないための話し方くらい、知っています」
*
霧ヶ峰高原は、その名の通り、霧の中にあった。
諏訪インターを降り、ビーナスラインと呼ばれる山岳道路を、つづら折りに登っていく。標高が上がるにつれて、車窓の外の景色が、変わっていった。杉の森が、唐松の森になり、唐松の森が、白樺の森になる。白い幹が、霧の中に、何百本も、何千本も、林立している。まだ芽吹いたばかりの若葉が、淡い緑の靄のように、枝先にまとわりついていた。
やがて、森が途切れ、なだらかな草原が広がった。
霧が、草原の上を、ゆっくりと流れていく。その霧の切れ間から、ときおり、遠くの山並みが見えた。八ヶ岳。蓼科山。まだ雪を残した、青灰色の峰々。草原には、ニッコウキスゲの、まだ固い蕾が、ぽつぽつと顔を出していた。七月になれば、一面、黄色い花で埋め尽くされるのだろう。
牛がいた。
黒と白の、ホルスタイン。十数頭が、柵の中で、霧に濡れた草を、のんびりと食んでいた。首につけた鈴が、からん、からん、と鳴っていた。
――高原の空気がうまいとか、牛がいるとか、そんなことばっか書いてくる。
佐伯ゆかりの、手紙。
嘘ではなかった。牛は、本当にいた。
「……あれ」
小夜が、前方を指さした。
草原の向こう、白樺の森を背にして、建物が見えた。
白い、三階建ての、瀟洒な洋館だった。赤い屋根。張り出したバルコニー。窓辺には、白いレースのカーテン。玄関の前には、手入れの行き届いた花壇があって、パンジーとビオラが、色とりどりに咲いていた。
門柱に、真鍮のプレートが掲げられていた。
――国立適性者療養施設 白樺園
絵葉書のようだ、と灯は思った。
あまりにも美しすぎて、誰も、その奥を、覗こうとは思わない。
*
門は、開いた。
小夜の言った通りだった。門衛所の警備員に、小夜は、自分の身分証と、父親の名刺――実家の書斎から持ち出したものだった――を見せ、静かに、こう言った。
「父の代理で参りました。昨日の天蓋起動に関して、炉心の状態を、父が直接確認したいと申しておりまして。ただ、父はご存じの通り、今朝から官邸に詰めておりますので、私が代わりに。事前の連絡は、父の意向で、控えております。外部に漏れると、まずいので。……ご理解いただけますね」
警備員は、三秒ほど、小夜の顔と、名刺と、後ろに控える灯とトワの、紺色の制服を見比べた。
それから、門を開けた。
炉心、という言葉を、警備員は、聞き返さなかった。
*
洋館の一階は、本当に、療養施設のように見えた。
明るいロビー。ふかふかのソファ。暖炉。壁には、高原の風景画。受付のカウンターには、花瓶に生けられた白いカーネーション。廊下の奥から、クラシック音楽が、かすかに流れていた。
だが、誰も、いなかった。
ソファに座っている入所者も、廊下を歩く看護師も、いない。人の気配が、まったくない。暖炉には、火が入っていなかった。カーネーションは、造花だった。
「施設長の、兵頭です。お待ちしておりました」
ロビーの奥から、白衣の男が、現れた。
六十代くらいの、痩せた男だった。銀縁の眼鏡。丁寧に整えられた口髭。物腰は柔らかく、声は穏やかで、病院の院長というよりは、大学の古い教授のような雰囲気だった。
「綾瀬先生のお嬢様ですね。お噂は、かねがね。修復型の、珍しい適性をお持ちだとか」
「恐れ入ります」
「炉心の状態を、ご覧になりたいと。承知いたしました。どうぞ、こちらへ」
兵頭は、ロビーの奥の、何の変哲もない木製のドアを開けた。
その向こうに、エレベーターがあった。
*
エレベーターは、地下に降りていった。
階数表示が、B1、B2、B3と、変わっていく。灯は、心の中で、数えていた。B4。B5。B6。
B7で、止まった。
ドアが、開いた。
冷気が、流れ込んできた。
消毒液の匂い。それから、金属の匂い。それから、かすかに、焦げた紙のような匂い。灰の匂いだ。
そこは、広大な空間だった。
天井は低く、蛍光灯が、白く、均一に、光っていた。床は、リノリウム。そして、その床の上に、ずらりと、整然と、並んでいた。
ガラスの、筒。
高さ二メートル、直径一メートルほどの、透明な円筒。中は、淡い青色の液体で満たされている。その液体の中に、一人ずつ。
少女たちが、浮かんでいた。
膝を抱えて。丸くなって。
トワのスケッチブックに描かれていた、あの形で。
灯は、数えようとした。
――一つ、二つ、三つ。
数えきれなかった。筒は、奥へ、奥へと、蛍光灯の光の届く限り、どこまでも、並んでいた。
「現在、こちらで、調整中の炉心候補が、四十二体」
兵頭が、穏やかな声で、説明した。
「調整が完了した炉心は、順次、天蓋の基幹塔に、移送しております。基幹塔には、現在、百四十二体が稼働中。昨日の起動で、三体が、機能停止いたしましたので、正確には、百三十九体ですね」
機能停止。
「機能停止した炉心は、どうなるんですか」
小夜が、静かに訊いた。
「回収して、こちらで、再調整を試みます。再調整が不可能な場合は、廃棄処分となります。ご遺族には、療養中の急変ということで、お知らせしております」
灯は、ガラスの筒の一つに、近づいた。
中の少女は、十九歳くらいに見えた。長い髪が、液体の中で、ゆらゆらと揺れている。目は、閉じている。眠っているように見える。けれど、その首の後ろ、うなじのあたりから、背骨に沿って、何本もの細い管が、筒の底へと伸びていた。管の中を、淡い光が、脈打つように、流れていた。
そして、背中に。
肩甲骨の間に。
拳ほどの大きさの、結晶が、埋め込まれていた。
補助炉の、心臓部と同じ。魔素安定結晶。
「適性者は、失効後も、神経系に、微量の魔素を保持しています」
兵頭が、まるで講義をするように、続けた。
「その微量の魔素を、結晶を介して増幅し、継続的に抽出する。それが、炉心化処置です。抽出された魔素は、基幹塔に集められ、天蓋の膜を形成する。一体あたりの出力は小さいですが、二百体を連結すれば、首都圏全域を、恒久的に防護できる。適性者を、最前線に立たせる必要は、もうなくなる」
「……意識は」
灯の声は、自分のものとは思えないほど、かすれていた。
「意識は、あるんですか」
兵頭は、少しだけ、首を傾げた。
「医学的には、意識の有無を判定するのは、困難です。ただ、脳波は、正常な睡眠時のパターンを示しています。夢を見ている、と考えるのが、妥当でしょう」
「夢」
「ええ。おそらく、幸せな夢を」
――あつい。せなかが、あつい。
灯の頭の中で、共鳴室で聞いた声が、こだました。
「先生」
小夜が、言った。完璧な微笑みを、浮かべたまま。
「昨日、こちらに、久我凛子という適性者が、移送されてきたはずです。父が、特に、その個体の状態を気にしておりまして」
「ああ、久我。ええ、昨夜遅くに、到着しました。素晴らしい個体です。灰化率が、驚くほど高い。あれほど高い灰化率で、なお神経系が機能を保っているのは、極めて稀です。炉心としての素質は、これまでで最高と言っていい」
兵頭は、嬉しそうに、目を細めた。
「ご案内しましょう。ちょうど今、処置の準備中です」
*
凛子は、施設の最奥の、処置室にいた。
手術台の上に、うつ伏せに、横たえられていた。病院の、薄い水色の検査着。その背中の部分が、大きく切り開かれ、肩甲骨の間の皮膚が、露わになっていた。白く、灰化した皮膚。
台の脇に、銀色のトレイ。その上に、拳ほどの大きさの、新しい結晶。
凛子の目は、閉じていた。腕に、点滴の針が刺さっていた。
「鎮静剤で、眠らせています」
兵頭が言った。
「処置は、本日の午後に予定しています。結晶の埋め込みが完了すれば、二週間ほどで、神経系との癒着が完了します。そうなれば、基幹塔への移送が可能になります」
灯は、凛子の顔を、見ていた。
眠っている凛子の顔は、驚くほど、幼かった。眉間の皺がない。口元に、シガレットチョコもない。ただの、二十一歳の、少女の顔だった。
――ちゃんと、迎えに来いよ。
灯の両手が、また、勝手に、開きかけていた。
その手首を、誰かが、握った。
トワだった。
トワは、灯の手首を、包帯の巻かれた手で、強く握っていた。それから、首を、小さく、横に振った。
――まだ。
声には出さなかった。でも、灯には、聞こえた。
「先生」
小夜が、言った。
「この個体の、処置を、延期していただくことは、可能ですか」
兵頭は、眉をひそめた。
「延期、ですか」
「ええ。父が、この個体について、別の用途を検討しているようなのです。詳しいことは、私も存じませんが。正式な指示は、明日、父から、改めて届くと思います。それまで、処置を、保留していただきたい、と」
兵頭は、小夜の顔を、じっと見た。
灯は、息を止めていた。
「……承知いたしました」
兵頭は、穏やかに、頷いた。
「綾瀬先生のご意向とあれば。鎮静状態のまま、保管しておきます。ただし、灰化が進行中ですので、四十八時間以上の延期は、炉心としての品質に影響が出ます。その点は、お伝えください」
「必ず」
*
施設を出る前に、灯は、もう一つのことをした。
兵頭が、小夜を応接室に案内して、紅茶を淹れている間に、灯とトワは、トイレに行くふりをして、地下の管理室に忍び込んだ。トワが、警備員の配置を、壁越しに、正確に感じ取った。鍵のかかったドアは、灯が、鍵穴の中に、紙よりも薄い防壁を一枚、差し込んで、内側から押し上げて開けた。防壁の、こんな使い方を、灯は、初めて試した。
管理室の端末は、ロックされていなかった。誰も、ここまで侵入されることを、想定していなかったのだろう。
灯は、端末に、持ってきた記録媒体を差し込み、炉心の管理台帳を、すべて、コピーした。
コピーの進捗バーが、ゆっくりと伸びていく間、灯は、画面に表示された、台帳の一覧を、見ていた。
名前。生年月日。適性発現日。失効日。炉心化処置日。基幹塔移送日。現在の状態。
――佐伯ゆかり。炉心化処置、二〇四六年八月。基幹塔移送、同年九月。第一層、第十二区画。稼働中。
――葛西みのり。死亡処理、二〇四八年四月二十二日。炉心化処置、同年四月二十四日。基幹塔移送、同年五月八日。第一層、第四十区画。稼働中。
死亡処理。
葬儀は、四月二十六日に行われた。棺は、閉じられたままだった。遺体の損傷が激しいため、という理由で。
灯は、画面をスクロールした。
――氷室澪。炉心化処置、二〇四五年七月。基幹塔移送、同年八月。第一層、第一区画。稼働中。
第一区画。最初の炉心。
――備考:特殊防護班班長・氷室レイの実姉。面会要求への対応は、筆跡模写書簡による。来月予定の面会については、「急変による面会謝絶」として処理予定。
コピーが、完了した。
*
白樺園の門を出て、草原の中の道を、車で下っていく。
霧は、晴れ始めていた。陽光が、雲の切れ間から差し込んで、草原を、まだらに照らしていた。牛たちが、のんびりと、草を食んでいた。首の鈴が、からん、からん、と鳴っていた。
誰も、口をきかなかった。
白樺の森に入る手前の、カーブを曲がったところで、灯は、ブレーキを踏んだ。
道の真ん中に、黒塗りのSUVが、一台、停まっていた。
その前に、黒い制服の少女が、一人、立っていた。
銀色の髪が、高原の風に、揺れていた。
「……氷室さん」
灯は、車を降りた。小夜とトワも、続いた。
氷室レイは、表情のない顔で、三人を見ていた。
「施設の警備システムに、不審なアクセスの記録が残っていました」
レイは、淡々と言った。
「管理室の端末から、炉心管理台帳の、全件コピー。三十二分前。内閣官房に、自動で通報が入りました。最寄りの特殊防護班員である私に、対処命令が出ています」
「対処、って」
「確保です」
レイは、両手を、胸の前で、合わせた。
祈るように。
灯は、反射的に、両手を開いていた。
だが、レイの防壁のほうが、速かった。
鏡の球が、出現した。
*
球の中は、静かだった。
外の音が、何も聞こえない。風の音も、牛の鈴の音も、遠くの鳥の声も。完全な、無音。球の内側から外を見ると、草原と、白樺の森と、黒いSUVが、少しだけ歪んで、見えた。外からは、鏡にしか見えないのだろう。
球の中には、灯と、小夜と、トワと。
そして、氷室レイが、いた。
レイは、自分の作った球の中に、自分自身も、入っていた。
「……どうして」
灯は、訊いた。
「この中なら、誰にも、聞かれません」
レイは、言った。
「私の車には、盗聴器が仕掛けられています。私の制服にも。私の携帯端末にも。班員たちの中にも、たぶん、監視役がいます。でも、この球の中の音は、外には、絶対に漏れない。私の防壁の、唯一の、良いところです」
レイは、灯を見た。灰色の瞳が、ほんの少しだけ、揺れていた。
「コピーしたもの。見せてください」
灯は、迷った。
それから、ポケットから、記録媒体を取り出した。携帯端末に差し込んで、画面を、レイに向けた。
氷室澪の、項目を。
レイは、画面を、長い間、見つめていた。
表情は、変わらなかった。
ただ、その白い指先が、画面の上の、「第一層、第一区画」という文字を、そっと、なぞった。
「……三年前」
レイの声は、とても小さかった。
「姉が、白樺園に入る前の日。姉は、私に、防壁の張り方を、最後に、もう一度、教えてくれました。『レイの壁は、閉じる壁だから。閉じ込めるためじゃなくて、守りたいものを、包むために使いなさい』って」
レイは、画面から、目を上げた。
「私は、三年間、姉の言葉を、忘れていました」
球の中に、沈黙が、満ちた。
「あの塔の中に」
灯が、言った。
「あなたのお姉さんの、声が、聞こえるかもしれない。共鳴室で、私には、聞こえた。葛西みのりさんの声も、佐伯ゆかりさんの声も。みんな、背中が熱いって、泣いていた」
レイは、目を閉じた。
「……この記録を、どうするつもりですか」
「正しい手続きで、正しい人に届けます」
「届かなかったら」
「その時は」
灯は、言葉を、探した。
見つからなかった。
代わりに、小夜が、言った。
「その時は、私たちが、届く場所まで、持っていきます」
レイは、目を開けた。小夜を見た。それから、灯を見た。トワを見た。
トワは、スケッチブックを開いて、レイに見せていた。
塔の断面図。第一層、第一区画。そこに、膝を抱えた小さな人の形と、その横に、トワの丁寧な字で、「ひむろ みお」と書かれていた。
そして、その人の形の周りに、トワは、何本もの細い線を描き足していた。光の線。まるで、その小さな人が、誰かを、包み込もうとしているように。
「……私は、あなたたちを、見ませんでした」
レイが、言った。
「対処命令を受けて、現場に急行しましたが、不審者は、すでに逃走したあとでした。そう、報告します」
レイは、両手を、下ろした。
鏡の球が、泡が弾けるように、消えた。
風の音が、戻ってきた。牛の鈴の音が、戻ってきた。高原の、冷たく、澄んだ空気が、肺の中に流れ込んできた。
レイは、黒いSUVに向かって、歩き出した。
その背中に、灯は、言った。
「氷室さん。あなたは、誰に、背中を預けるんですか」
レイは、足を止めた。
振り返らなかった。
「……考えておきます」
そして、SUVに乗り込み、白樺の森の中へ、走り去っていった。
*
帰りの車の中で、灯は、ハンドルを握りながら、数えていた。
四十八時間。
凛子の処置が、保留される時間。
あと、四十七時間と、十二分。




