↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/14

第五章 天蓋起動

 五月十七日、土曜日。久我凛子の誕生日の、二日前。

 午後四時二十分、気象庁は、東京湾全域に、史上初めての「警戒レベル五」を発令した。

 予測される裂け目の位置は、東京湾の中央、天蓋第一基幹塔の北北西、約六キロ。羽田空港の沖合。予測規模、館山の八倍。

 予報が出てから裂開までの猶予は、九十分。

 首都圏の三千万人に、九十分で、逃げ場はなかった。

*

『こちら、内閣総理大臣、鷹野隆道です』

 木更津の営舎の食堂のテレビに、総理大臣の顔が映し出された。

 六十八歳。白髪をきれいに後ろに撫でつけ、紺色のスーツに、えんじ色のネクタイ。官邸の会見室の、青いカーテンの前に立っている。顔色は悪く、目の下に、濃い隈が浮いていた。手元の原稿を持つ指が、かすかに震えていた。

『国民の皆さん。落ち着いて、聞いてください。政府は、ただいま、天蓋の緊急起動を決定いたしました』

 食堂にいた全員が、息を呑んだ。

『天蓋は、まだ完成しておりません。しかし、すでに、首都圏の主要部分を覆うだけの出力は、確保されております。本日、午後五時三十分、天蓋を起動し、首都を、禍から守ります。国民の皆さんは、慌てて避難することなく、屋内に留まってください。天蓋の内側は、安全です。繰り返します。天蓋の内側は、安全です』

 凛子が、食堂の椅子を、蹴った。

 椅子が、床を滑って、壁にぶつかった。

「……百四十二人で」

 凛子の声は、低く、震えていた。

「百四十二人で、三千万人を守れってのか。あの人たちに。膝抱えて、背中が熱いって泣いてる、あの人たちに」

『八咫中隊』

 食堂のスピーカーから、桐生一佐の声が響いた。

『出動だ。担当区域は、品川。天蓋の境界線の、最南端だ』

「境界線?」

『天蓋は、首都圏の主要部分しか覆えない。品川埠頭から南、大田区の臨海部と、羽田空港は、天蓋の外側になる』

「外側の住民は」

 桐生は、一瞬、沈黙した。

『避難指示は、出ている』

「九十分で、何人逃げられるんだ」

『……久我。行ってくれ。頼む』

*

 品川埠頭は、東京湾に向かって突き出した、巨大なコンクリートの舌のような場所だった。

 コンテナターミナルのガントリークレーンが、何十基も、首の長い鳥の群れのように、湾に向かって並んでいる。赤と白に塗り分けられた鉄骨が、西日を受けて、燃えるように輝いていた。岸壁には、積み上げられたコンテナの壁が、色とりどりの煉瓦のように、どこまでも続いている。潮の匂いと、重油の匂いと、錆の匂い。カモメが、何十羽も、低く鳴きながら旋回していた。

 灯は、ガントリークレーンの一基の、高さ五十メートルの運転台の屋根に立っていた。

 北を見る。

 品川の高層ビル群の向こう、新宿や池袋の方角まで、東京の街が、灰色の海のように広がっている。その街の上空、高度三千メートルあたりに、天蓋の第一基幹塔から伸びた光の線が、何本も、蜘蛛の糸のように放射状に張られていた。まだ、起動前。光の線は、細く、弱々しかった。

 南を見る。

 大田区の臨海部。京浜運河沿いの、倉庫と工場と、古い団地の並ぶ街。そして、その先に、羽田空港の滑走路が、灰色の帯になって、湾に突き出している。空港には、もう、一機の飛行機も見えなかった。

 その南の街の路地を、無数の人が、北に向かって歩いていた。

 車は、使えなかった。道路は、とっくに、動かない車で埋め尽くされていた。人々は、車を捨てて、徒歩で、天蓋の内側を目指していた。品川駅へ。大井町へ。少しでも北へ。ベビーカーを押す母親。老人の手を引く若者。ランドセルを背負ったまま走る子供たち。その頭上を、カモメが、何も知らずに、鳴きながら飛んでいた。

 灯は、数え始めた。数えられるはずがない、とわかっていても、数えずにはいられなかった。

 ――百、二百、三百。

 数えきれない。

『灯』

 インカムから、凛子の声。

『守る線を、決める。天蓋の境界線は、品川埠頭の北端だ。あたしらは、その外側、南側に、もう一本、線を引く。京浜運河沿い、大井埠頭から、昭和島まで。運河の北側に逃げてくる人間を、全部、守る』

「中隊長、それは」

 灯は、運河沿いの距離を、目で測った。

「六キロ、あります」

『知ってる』

「中隊長の壁は、最大で、一キロ」

『知ってる』

「無理です」

『無理でも、やる』

 凛子の声は、静かだった。

『灯。あたしは、二日後に、二十二になる。二十二になったら、塔に入れられる。入れられたら、天蓋の一部になって、三千万人を守ることになる。……だったら、今日、ここで、天蓋の外側の連中を守ったって、いいだろ。順番が、ちょっと変わるだけだ』

「そういうことじゃ、ないです」

『そういうことだよ』

 凛子は、笑ったようだった。

『あたしは、塔の中じゃなくて、ここで、自分の意思で、守りたいんだ。それだけだ』

*

 午後五時三十分。

 天蓋が、起動した。

 灯は、その瞬間を、一生忘れないだろうと思った。

 東京湾の中央に立つ白い塔が、根元から頂上まで、一瞬で、真っ白に発光した。その光が、塔の頂上から、四方八方に張られた光の線を伝って、走った。光の線が、空中で、互いに結びつき、編み合わされ、網になり、膜になる。

 数秒後、東京の空に、巨大な、透明なドームが出現していた。

 夕焼けの空を、ドームの表面が、虹色に屈折させていた。新宿の高層ビル群も、東京タワーも、スカイツリーも、皇居の森も、すべてが、その巨大な、薄い、シャボン玉のような膜の中に、包み込まれていた。

 美しかった。

 息が止まるほど、美しかった。

 そして、灯の頭の中に、声が、流れ込んできた。

 ――あつい。

 ――いたい。

 ――せなかが。

 ――やめて。

 ――おかあさん。

 ――だれか。

 灯は、ガントリークレーンの手すりに、しがみついた。

 共鳴室の時ほど、近くはない。遠い。小さい。でも、確かに聞こえる。天蓋の膜の、一枚一枚の繊維の中から。百四十二人の声が。

『灯、聞こえるか』

 凛子の声。

「……聞こえます」

『あたしもだ』

 凛子の声は、震えていなかった。

『ゆかりの声も、聞こえる。……あいつ、まだ、歌ってやがる』

 灯は、耳を澄ませた。

 無数の悲鳴の中に、一つだけ、違う声が混じっていた。小さく、かすれた、ほとんど聞き取れない声。でも、それは、悲鳴ではなかった。

 歌だった。

 ――ふるさとの、やまに、むかいて、いうことなし。

 佐伯ゆかりは、塔の中で、歌っていた。

*

 午後五時四十八分。羽田沖に、裂け目が開いた。

 それは、これまでに灯が見た、どの裂け目とも違っていた。

 縦ではなく、横に開いた。水平線と平行に、湾の上空を、端から端まで、真一文字に切り裂くように。長さは、目測で、十キロを超えていた。その裂け目が、ゆっくりと、上下に開いていく。まるで、巨大な口が、あくびをするように。

 灰が、降り始めた。

 いや、降る、という言葉では足りなかった。灰は、滝のように、裂け目からあふれ出し、湾の上に落ちて、海面を灰色に覆い尽くしていった。夕焼けの赤い光が、灰に遮られて、急速に暗くなる。午後五時台の空が、真夜中のように、黒く染まっていく。

『トワ、数』

 凛子の問いに、トワは、答えなかった。

『トワ!』

 インカムの向こうで、鉛筆の音が、止まっていた。

 しばらくして、トワの声が、聞こえた。

『かぞえられない』

*

 蛾が来た。

 黒い雲ではなかった。黒い壁だった。湾の上空を、端から端まで埋め尽くす、何十万、何百万という蛾の群れが、灰の滝の中から、湧き出してきた。翼の羽ばたく音が、聞こえた。初めて、禍の音が、聞こえた。何百万もの薄い膜が、空気を叩く音。それは、遠い雷鳴のようであり、巨大な生き物の呼吸のようでもあった。

 群れは、天蓋に向かっていった。

 天蓋の、虹色の膜に、黒い波が、叩きつけられた。

 膜が、震えた。

 灯の頭の中で、百四十二人の悲鳴が、いっせいに、跳ね上がった。

 ――いたいいたいいたいいたい。

 天蓋は、持ちこたえた。黒い波は、膜に触れた端から、白い粉になって散っていった。でも、灯には、わかった。膜の向こうで、百四十二人が、悲鳴を上げながら、耐えているのが。

 そして、群れの一部は、天蓋の外側へ、流れてきた。

 南へ。品川埠頭の南へ。大田区の臨海部へ。人々が、まだ逃げ惑っている、天蓋の外側の街へ。

「展開」

 凛子が、言った。

*

 久我凛子の壁が、京浜運河の上空に、立ち上がった。

 幅、一キロ。

 灯は、その壁を見て、目を疑った。

 ――二キロ。三キロ。

 凛子の壁が、伸びていく。運河に沿って、南へ。大井埠頭から、八潮の団地を越えて、勝島を越えて、平和島を越えて。

 ――四キロ。五キロ。

「中隊長! 出力が!」

『黙って、重ねろ!』

 ――六キロ。

 京浜運河の、六キロの全長を、一枚の壁が、覆った。

 久我凛子の単層絶対壁。一枚。継ぎ目も、隙間も、層もない。その一枚が、夕闇の中で、青緑色に、燃えるように光っていた。

 灯は、両手を開いた。

 ――一枚、二枚、三枚。

 凛子の壁の、内側に。重ねる。ずらす。分散させる。

『結晶格子、展開。大井埠頭の北端を、押さえます』

 しずく。

『修復、展開します。中隊長の壁の、全長を、見ます』

 小夜。

『反射膜、出力、十割。……今日は、怒らんといてな、中隊長』

 ひばり。

 そして、トワが、声を出した。

『りんこさん。みぎ、さんびゃく。ひだり、ななひゃく。まんなか、いちばんおおきいのが、くる』

*

 戦闘は、三時間続いた。

 灯は、その三時間のことを、断片的にしか、覚えていない。

 蛾の群れが、凛子の壁に叩きつけられる音。白い粉が、雪のように、運河の水面に降り積もっていく光景。運河の北側の歩道を、何千人もの人々が、走って逃げていく足音。子供の泣き声。誰かの、「ありがとう!」という叫び声。

 自分の防壁が、割れていく感覚。一枚。十枚。百枚。数えるのを、途中でやめた。数える余裕が、なくなった。割れた端から、新しい壁を重ね続けた。両腕の感覚は、一時間を過ぎたあたりで、完全になくなった。

 小夜の、修復の糸が、凛子の壁の上を、何百本も、何千本も、走っていく光景。小夜の顔が、どんどん白くなっていく。鼻から、血が一筋、流れていた。それでも、小夜は、縫い続けていた。

 しずくの結晶格子が、大井埠頭の北端で、最後まで割れずに残っていた光景。六角形の網目の一つ一つが、蛾の体当たりを受けるたびに、ちかちかと、星のように瞬いていた。

 ひばりの反射膜が、凛子の壁の穴から入り込んできた鯨の頭を、銀色の閃光とともに、跳ね返した光景。ひばりの、「どや!」という叫び声。それから、ひばりの補助炉が、旧型だったのに、それでも煙を上げ始めて、小夜が、ひばりの炉を、縫った。炉を縫えるなんて、誰も知らなかった。小夜自身も、知らなかった。

 トワの声。途切れなく、方角と、数と、距離を告げ続ける、小さな、かすれた声。トワは、三時間、一度も黙らなかった。

 そして、凛子。

 凛子の壁は、三時間、一度も、割れなかった。

*

 午後八時五十二分。

 裂け目が、閉じた。

 海上自衛隊の護衛艦隊と、航空自衛隊のF-35の編隊が、湾の上空に残った三頭の鯨を、最後に撃墜した。橙色の炎が、夜空を三度、照らした。

 灰が、止んだ。

 蛾の群れの、最後の一匹が、凛子の壁にぶつかって、白い粉になって、散った。

 静寂が、戻ってきた。

 灯は、ガントリークレーンの運転台の屋根の上に、仰向けに倒れていた。空が、見えた。灰の雲が、ゆっくりと晴れていき、その向こうに、星が、一つ、二つ、見え始めていた。天蓋の虹色の膜は、もう、消えていた。

 ――終わった。

 灯は、目を閉じた。

 それから、目を開けた。

「……中隊長」

 インカムに、呼びかけた。

「中隊長。終わりました。中隊長」

 返事は、なかった。

*

 灯が、凛子のもとにたどり着いたのは、それから二十分後だった。

 京浜運河の、勝島橋の上。凛子は、橋の欄干に背中を預けて、座り込んでいた。両手を、膝の上に、だらりと投げ出して。

 小夜が、凛子の前に膝をついて、凛子の手を、握っていた。

「……篠宮さん」

 小夜が、振り返った。その顔は、涙で、ぐしゃぐしゃだった。完璧な微笑みは、どこにもなかった。

「中隊長の手が」

 灯は、凛子の手を見た。

 白かった。

 指先から、手首まで。雪のように、白かった。いや、雪ではない。灰だ。皮膚の表面が、灰のような、白い、粉っぽい質感に変わっていた。小夜が握っている指先から、さらさらと、細かい粉が、こぼれ落ちていた。

 灰化。

 三輪技官の言葉が、頭の中に蘇った。

 ――焼けた部分が、灰みたいに、固まって残る。

 それが、皮膚の表面にまで出てくるほど進んだ例を、灯は、聞いたことがなかった。

「よう、灯」

 凛子が、目を開けた。

 その目は、まだ、光っていた。

「見たか。六キロ。一枚も、割れなかったぞ」

「……はい」

「ゆかりの記録、抜いたな。あいつ、最高で四キロだったんだ」

「……はい」

「何人、逃げた」

 灯は、答えられなかった。数えていなかった。数えられなかった。

 しずくが、後ろから、答えた。

「警視庁の推計で、天蓋の外側にいた住民、約十八万人。そのうち、京浜運河の北側に避難できた人、約十七万六千人。犠牲者は、現時点で、確認されていません」

「……そっか」

 凛子は、もう一度、目を閉じた。

「じゃあ、いいや」

「中隊長」

「灯。あとで、ゆかりに、言っといてくれ。抜いたぞ、って」

「自分で言ってください」

 灯の声が、震えた。

「自分で、言ってください。中隊長」

 凛子は、笑った。目を閉じたまま。

「そうだな。そうするよ」

*

 午後九時三十分。

 勝島橋のたもとに、白い車両が三台、到着した。

 救急車ではなかった。窓のない、白いバン。車体の側面に、小さく、「防衛省 衛生」の文字。

 中から、白い防護服を着た男たちが、六人、降りてきた。顔は、防護マスクで隠れていて、見えなかった。

「久我凛子二等防壁曹を、収容します」

 先頭の男が、事務的な口調で、言った。

「重度の魔素灰化を確認。規定により、ただちに、専門の医療施設に移送します」

「専門の医療施設って、どこ」

 灯は、凛子の前に、立ちはだかっていた。

「機密です」

「白樺園ですか」

「機密です」

「あの人は、まだ、二十二歳になっていない。退役の年齢じゃない」

「重度の灰化が確認された場合、年齢に関わらず、退役手続きを前倒しにできる、と、規定にあります」

 男は、一枚の書類を、灯の目の前にかざした。防衛大臣、御厨恭介の署名。日付は、今日。時刻は、午後八時五十五分。

 裂け目が閉じた、三分後。

 ――最初から、決まっていたのだ。

 灯の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。

 両手が、勝手に開いていた。腕の感覚は、まだ戻っていなかった。それでも、指の間に、薄い膜が、一枚、生まれかけていた。

「……灯」

 背後から、凛子の声がした。

「やめろ」

「でも」

「やめろ。それは、まだ、早い」

 灯は、振り返った。

 凛子は、欄干に背中を預けたまま、白い指先を、ゆっくりと持ち上げて、灯に向けていた。指先から、灰が、さらさらと、こぼれ落ちていた。

「あたしは、行く。行って、ゆかりに会う。どうせ、会いに行くつもりだったんだ。手間が省けた」

「中隊長」

「灯。あとは、頼む」

 凛子は、にやりと笑った。シガレットチョコを咥えていない凛子の顔を、灯は、初めて見たような気がした。

「八咫中隊の、中隊長代理。篠宮灯。命令だ。……ちゃんと、迎えに来いよ」

*

 白いバンが、凛子を乗せて、走り去っていった。

 テールランプの赤い光が、灰の積もった道路の上を、遠ざかっていく。灯は、それを、数えていた。

 一台目。二台目。三台目。

 三つの赤い光が、首都高速の入り口のカーブの向こうに、消えた。

 灯は、その場に、立ち尽くしていた。

 運河の水面に、白い灰が、雪のように浮かんでいた。その灰の上に、月の光が、静かに落ちていた。

 北の空を見上げた。

 天蓋の基幹塔が、夜の湾の真ん中で、白く、光っていた。

 何事もなかったかのように。

 灯台のように。墓標のように。

 そして、灯の頭の中で、遠く、かすかに、歌声が聞こえていた。

 ――ふるさとの、やまに、むかいて。

 灯は、目を閉じた。

 それから、目を開けた。

「迎えに行く」

 誰に言うでもなく、灯は、言った。

「必ず」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。