第四章 鴉
五月十三日。静岡県御殿場市、陸上自衛隊東富士演習場。
富士山は、まだ山頂に雪を残していた。五月の陽射しを受けて、白い稜線が、青空にくっきりと切り取られている。裾野に広がる演習場は、一面の枯れ草と、まばらに芽吹き始めた若草で、まだら模様に染まっていた。風が強い。富士から吹き下ろす風が、枯れ草を波のようになびかせ、砂埃を巻き上げる。遠くで、戦車の履帯が地面を噛む、低い音が響いていた。
共鳴試験から三日後。八咫中隊は、「合同防護訓練」のために、ここに呼ばれていた。
トワの両手には、まだ包帯が巻かれていた。凛子は、試験の翌日から、ほとんど口をきかなくなった。食事も、半分以上残した。シガレットチョコだけが、一日に何本も減っていった。
灯は、まだ、誰にも、トワの描いた断面図のことを話していなかった。凛子の名前が書かれていたことも。
話すべきだとわかっていた。けれど、どう話せばいいのか、わからなかった。
――あなたは、二週間後に、生きたまま、塔の部品にされます。
そんな言葉を、どんな顔で口にすればいいのか。
「おい、灯」
演習場の待機所――カマボコ型の、プレハブの仮設兵舎――の前で、凛子が、灯を呼んだ。
「今日の相手、知ってるか」
「いいえ。合同訓練としか」
「『鴉』だとさ」
灯は、眉をひそめた。
「鴉、って」
「内閣直轄の特務防壁隊。正式名称は、内閣官房危機管理監付き特殊防護班。防衛省の指揮系統の外にいる、総理大臣直属の適性者部隊だ。噂だけは聞いてたけどな。実物を見るのは、あたしも初めてだ」
凛子は、演習場の向こうを、顎で示した。
枯れ草の丘の上に、黒い車両が三台、停まっていた。防衛省の車両ではない。ナンバープレートのない、黒塗りの大型SUV。その横に、五つの人影が、一列に並んで立っていた。
黒い制服。八咫中隊の紺色とは違う、光を吸い込むような、漆黒の詰襟。肩章も、階級章も、ない。ただ、左胸に、銀色の小さな徽章が一つ。三本足の鳥の意匠。
「……八咫烏」
灯が、呟いた。
「あたしらの名前を、パクりやがった」
凛子が、吐き捨てるように言った。
*
「内閣官房特殊防護班、班長、氷室レイ。本日は、よろしくお願いします」
黒い制服の少女が、凛子の前で、きっちりと十五度、頭を下げた。
二十歳くらいだろうか。銀に近い、色素の薄い髪を、顎の線でまっすぐに切り揃えている。肌は白く、瞳は灰色。表情というものが、ほとんどなかった。人形のようだ、と灯は思った。精巧に作られた、陶器の人形。
「久我凛子。八咫中隊長。……よろしく」
凛子は、頭を下げなかった。
「噂は聞いてる。総理直属の、お抱えの盾。普段は何してんだ」
「機密です」
「出動記録、一回も見たことねえけど」
「機密です」
「訓練内容は」
「本日、ご覧いただけます」
氷室レイは、顔を上げた。灰色の瞳が、凛子をまっすぐに見た。それから、灯を見た。しずくを見た。小夜を見た。ひばりを見た。最後に、トワを見て、その包帯の巻かれた両手に、ほんの一瞬だけ、視線を止めた。
「本日の訓練課目は、『大規模騒擾事態における防護』です」
「騒擾?」
しずくが、眉をひそめた。
「騒擾って、暴動のことですよね。禍の話じゃなくて」
「はい。禍の出現に伴う社会的混乱、および、それに乗じた暴徒の集団行動から、要人および重要施設を防護する訓練です」
「それは、警察の仕事でしょう」
「警察の手に余る事態を想定しています」
「措置法第九条。適性者による魔導の行使は、国民の生命及び身体を防護する目的に限る」
しずくは、早口で言った。
「暴徒も、国民です。暴徒に対して防壁を行使することは、国民の生命と身体を防護する目的とは言えない。むしろ、その逆です」
氷室レイは、表情を変えなかった。
「暴徒から要人を防護することは、要人という国民の生命及び身体を防護することです。法的には、問題ありません。内閣法制局の見解も、得ています」
「内閣法制局の、公表されていない見解ですか」
「機密です」
しずくは、口を開けて、それから閉じた。眼鏡の奥の目が、怒りで細くなっていた。
*
訓練は、演習場の南端に設けられた、市街地戦闘訓練場で行われた。
コンクリートの低い建物が、碁盤の目のように並んだ、模擬の街。窓ガラスはなく、ぽっかりと開いた四角い穴が、虚ろな目のように通りを見下ろしている。壁には、過去の訓練でついた弾痕と、ペンキ弾の跡が、色とりどりにこびりついていた。風が吹くと、どこかの建物の中で、ブリキの看板が、からからと音を立てた。
訓練場の中央の広場に、二百人ほどの陸上自衛隊員が、暴徒役として集められていた。私服に着替え、手には、プラスチック製の棒や、空のペットボトルを持っている。顔には、訓練用の防護マスク。
「状況開始」
拡声器から、号令がかかった。
暴徒役の隊員たちが、雄叫びを上げて、広場の北端に置かれた模擬の「官公庁舎」――三階建ての、白く塗られたコンクリートの建物――に向かって、殺到し始めた。
氷室レイが、一歩、前に出た。
両手を、ゆっくりと、胸の前で合わせる。祈るような仕草。
「展開」
灯は、その瞬間、空気が凍りつくのを感じた。
レイの防壁は、壁ではなかった。
球だった。
広場の中央、殺到してくる二百人の群衆の、ちょうど先頭集団の三十人ほどを、すっぽりと包み込むように、透明な球体が出現した。直径、二十メートル。球の表面は、鏡のように、外の景色を映していた。内側からは、どう見えているのか、灯にはわからなかった。
球の中に閉じ込められた三十人は、たちまち、パニックに陥った。プラスチックの棒で球の内壁を叩く。体当たりする。叫ぶ。だが、球は、びくともしない。そして、その叫び声は、外には、まったく聞こえてこなかった。
音を、遮断している。
球の外にいた残りの百七十人が、足を止めた。仲間が、鏡の球の中に呑み込まれて、声も出せずにもがいている。その光景に、明らかに、怯んでいた。
レイは、さらに、両手を広げた。
二つ目の球。三つ目の球。四つ目。五つ目。
群衆が、次々と、鏡の球の中に、呑み込まれていく。五十秒後、広場に立っている暴徒役は、一人もいなかった。広場には、直径二十メートルの鏡の球が、七つ、静かに浮かんでいた。それぞれの球の表面に、富士山と青空と、白い官公庁舎が、歪んで映り込んでいた。
「鏡獄」
レイの隣に立っていた、鴉の班員の一人が、誇らしげに言った。
「班長の防壁です。内部の音、光、空気の流れを、すべて遮断できます。内部の酸素がなくなるまで、約十五分」
「……酸素」
ひばりが、青ざめた顔で、呟いた。
「もちろん、訓練ですので、三分で解除します」
レイが、両手を下ろした。鏡の球が、ひとつずつ、泡が弾けるように消えていった。中から解放された隊員たちが、膝をついて、激しく咳き込んでいた。何人かは、泣いていた。訓練だとわかっていても、音も光もない鏡の中で、仲間の顔だけを見ながら閉じ込められる三分間は、耐えがたいものだったのだろう。
「状況終了」
拡声器から、号令。
灯は、自分の手が、冷たくなっているのに気づいた。
「……盾じゃねえ」
凛子が、低い声で言った。
「あれは、盾じゃねえ。檻だ」
*
昼の休憩時間。
灯は、待機所の裏手の、枯れ草の土手に一人で座って、官給の戦闘糧食を食べていた。缶詰の鶏飯。味は、ほとんどしなかった。
「隣、いいですか」
声に、顔を上げた。氷室レイが、立っていた。手には、同じ缶詰を持っている。
「……どうぞ」
レイは、灯から一人分の間を空けて、土手に腰を下ろした。缶詰のプルタブを、慣れた手つきで引き開ける。しばらく、二人は、黙って食べた。風が、枯れ草を揺らしていた。富士山の雪が、陽光を照り返して、まぶしかった。
「篠宮灯さん。館山で、六十枚の防壁を重ねた」
レイが、富士山を見たまま言った。
「有名なんですか、私」
「私たちは、全適性者の戦闘記録を、閲覧できますから」
「……総理直属だから」
「はい」
レイは、缶詰の鶏肉を、箸で小さく切り分けて、口に運んだ。所作が、ひどく丁寧だった。
「あなたの防壁は、美しいと思います」
不意に、レイが言った。
「重ねて、ずらして、分散させる。一枚一枚は弱いのに、全体としては、とても強い。誰も傷つけずに、ただ受け止める。理想的な、盾です」
「……あなたの防壁は」
「醜いでしょう」
レイは、淡々と言った。自嘲でも、謙遜でもない、ただの事実を述べるような口調だった。
「私の防壁は、何も受け止めません。ただ、閉じ込めるだけ。中の人間が、何を叫んでも、何を訴えても、外には届かない。外の人間には、ただ、鏡に映った自分たちの姿しか見えない」
レイは、箸を止めた。
「でも、篠宮さん。盾というのは、結局、誰かに向けて構えるものです。禍に向けるか、人に向けるか。それだけの違いです。盾は、誰に向けても、盾なんですよ」
「違う」
灯は、思わず、言っていた。
「盾は、守るものに背を向けて、守るものじゃないものに向けて構えるものです。誰に向けるかじゃない。誰に、背中を預けるか、です」
レイは、灰色の瞳で、灯を見た。
「……では、あなたは、誰に背中を預けているんですか」
灯は、答えられなかった。
国民、と答えるべきだった。国民に背中を預けて、禍に向けて盾を構えている。それが、正しい答えだった。
でも、その国民の代表である政府が、葛西みのりの補助炉を三万円の石英にすり替え、佐伯ゆかりを塔の部品にし、凛子を、二週間後に、同じ場所に送ろうとしている。
灯は、誰に、背中を預けているのだろう。
「……氷室さんは」
「私?」
「誰に、背中を預けているんですか」
レイは、少しだけ、黙った。
「私には、姉がいます」
風が、レイの銀色の髪を、揺らした。
「氷室澪。三年前に失効して、白樺園に入りました。姉は、私よりもずっと強い適性者でした。単独で、鯨を三頭、止めたことがあります。私は、姉に、防壁の張り方を教わりました」
灯は、息を呑んだ。
「白樺園では、家族の面会が、原則、禁止されています。神経症状の治療に、外部からの刺激が悪影響を与えるから、という理由で。でも、特殊防護班の班員には、特例で、年に一度、面会が許されます。勤務成績が、優秀であれば」
レイは、缶詰の最後の一口を、口に運んだ。
「私は、そのために、ここにいます。私の背中は、姉に、預けています」
「……面会、したんですか。お姉さんに」
「来月、初めての面会が、予定されています」
レイは、立ち上がった。空になった缶詰を、きちんと、ビニール袋に入れた。
「三年間、一度も、会っていません。手紙は、毎月来ます。とても、きれいな字で」
灯は、何も言えなかった。
きれいな字。標準偏差、〇・二度。
レイは、灯に、軽く頭を下げた。
「午後の訓練も、よろしくお願いします。篠宮さん」
そして、去っていった。黒い制服の背中が、枯れ草の土手の向こうに、小さくなっていった。
*
その夜。
演習場の宿舎の、八咫中隊にあてがわれた一室で、灯は、全員を集めた。
十二畳ほどの和室。古い畳が、ところどころ、ささくれ立っていた。窓の外は真っ暗で、遠くに、御殿場の市街地の灯りが、ぼんやりと滲んでいた。部屋の真ん中に、小さな座卓が一つ。その上に、灯は、四つのものを並べた。
一つ目は、しずくのノートパソコン。画面には、佐伯ゆかりの、二種類の筆跡の比較。
二つ目は、三輪技官から預かった、焼け焦げた結晶体の、X線回折の分析結果のコピー。
三つ目は、トワのスケッチブック。塔の断面図のページを、開いて。
そして四つ目は、小夜のスマートフォン。
「これを、聞いてください」
小夜が、再生ボタンを押した。
四分三十二秒。
綾瀬宗一郎の声が、和室の中に、静かに流れた。
――久我の個体が、特に良い。予定を前倒しにできる。
――誕生日が十九日だから、その翌週に、白樺園への移送命令を出す。
――天蓋の本稼働に必要な炉心は、最低二百。現在、百四十二。
――現役の適性者の中から、灰化率の高い順に、前倒しで回収していくしかない。
録音が、終わった。
誰も、何も言わなかった。
ひばりが、最初に、泣き出した。声を殺して、両手で口を押さえて。
しずくは、眼鏡を外して、目頭を押さえていた。
トワは、スケッチブックの、凛子の名前が書かれた場所を、指でなぞっていた。
小夜は、背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。
そして、凛子は。
凛子は、座卓の上の、トワのスケッチブックを、じっと見つめていた。自分の名前が書かれた、小さな、膝を抱えた人の形を。
それから、ポケットから、シガレットチョコの箱を取り出した。一本、抜き出して、咥えた。
かりり、と噛んだ。
「……そうか」
凛子は、言った。
「そういうことか」
声は、驚くほど、落ち着いていた。
「ゆかりの手紙が、きれいすぎた理由。白樺園から、誰も戻ってこない理由。天蓋が、電気じゃ動かない理由」
凛子は、灯を見た。
「灯。お前、いつから知ってた」
「……三日前。共鳴試験の、帰りのヘリで」
「なんで、すぐに言わなかった」
「どう言えばいいか、わからなくて」
凛子は、しばらく、灯を見つめていた。
それから、ふっと、笑った。
「バカだな、お前は。そういう時は、何も考えずに言えばいいんだよ。『中隊長、あんた、二週間後に塔の部品にされますよ』ってな」
「……中隊長」
「気にすんな。三日早く知っても、遅く知っても、同じことだ」
凛子は、シガレットチョコを、最後まで噛み砕いた。
「で。どうする」
五人の視線が、凛子に集まった。
「あたしは、二週間後に、白樺園に送られる。送られたら、たぶん、もう戻ってこない。ゆかりと、みのりと、百四十二人の先輩たちと同じように、塔の中で、膝を抱えて、背中が熱いって泣き続ける。天蓋が完成すれば、この国は、あたしらがいなくても、禍から守られる。その代わり、あたしらは、永遠に、守り続ける。……まあ、ある意味、本望かもしれねえな。盾として死ねるなら」
「中隊長!」
ひばりが、叫んだ。
「冗談だよ」
凛子は、ひばりの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「冗談に決まってんだろ。誰が、あんなとこで膝抱えて泣くかよ」
凛子は、立ち上がった。窓の外の、真っ暗な夜を見た。
「ゆかりを、出す」
短い言葉だった。
「白樺園に行って、ゆかりを、出す。出せなくても、何が起きてるのかを、この目で見る。証拠を、押さえる。それから」
凛子は、振り返った。
「それから、しずく。お前の出番だ。証拠を持って、正しい手続きで、正しい人に届ける。国会でも、裁判所でも、新聞社でも、どこでもいい。この国が、まだ、まともな国だってんなら、それで、なんとかなるはずだ」
しずくは、眼鏡をかけ直した。
「……なんとか、ならなかったら」
「その時は」
凛子は、言いかけて、やめた。
灯は、凛子の顔を見ていた。窓の外の闇を背にした、凛子の顔。その目の奥に、共鳴室で見た、あの光が、まだ、燃えていた。
「その時は、その時だ」
*
翌朝、演習場を発つ直前に、灯の携帯端末に、一通のメッセージが届いた。
送信者は、しずくだった。同じ部屋にいるのに、わざわざ、メッセージで。
――三輪技官が、昨夜、立川の自宅で逮捕されました。容疑は、特定秘密保護法違反。防衛装備品に関する特定秘密を、外部に漏洩した疑い。
灯は、顔を上げた。
しずくが、部屋の反対側から、灯を見ていた。眼鏡の奥の目が、まったく眠たげではなかった。
窓の外で、黒塗りのSUVが三台、演習場のゲートを出ていくところだった。
先頭の車の後部座席の窓が、一瞬だけ、開いた。銀色の髪が、朝日を受けて、きらりと光った。
氷室レイは、灯を見ていた。
それから、窓は、閉じた。




