第三章 塔の声
防衛装備庁の技術研究本部、魔導技術研究所は、東京都立川市の、かつての米軍基地跡地にあった。
五月の初め、連休の谷間の平日。灯は、包帯の取れた両腕の経過観察という名目で、研究所を訪れていた。実際には、もう一つの目的があった。
「篠宮さん、ね。どうぞ、座って」
技官の三輪早苗は、四十代半ばの、小柄な女性だった。白衣の袖を肘までまくり上げ、髪は後ろで無造作に束ねている。研究室の机の上には、書類と、分解された補助炉の部品と、食べかけのコンビニのおにぎりが、混沌と散らばっていた。窓のブラインドの隙間から、初夏の光が、縞模様に差し込んでいる。
「腕、見せて」
灯が袖をまくると、三輪は、灯の前腕を、指先で丁寧に押していった。手首から肘へ。肘から二の腕へ。押されるたびに、皮膚の下で、細い針で刺されるような、かすかな痺れが走る。
「ここ、痛い?」
「少し」
「ここは」
「痛くないです。でも、感覚が、遠い」
三輪は、何も言わずに、カルテに何かを書き込んだ。それから、ボールペンの尻で、こめかみを掻いた。
「館山で、六十枚、だったね」
「はい」
「そのうち、何枚割れた」
「三十一枚です」
「数えてたんだ」
「数えないと、怖いので」
三輪は、少しだけ笑った。それから、真顔に戻って、言った。
「篠宮さん。あなたの神経は、館山で、だいたい二年ぶん、歳を取った」
灯は、瞬きをした。
「……二年」
「正確な言い方じゃないけどね。わかりやすく言えば、そういうこと。適性者の神経は、防壁を張るたびに、少しずつ、焼ける。普通の訓練や小規模な戦闘なら、焼けた部分は回復する。でも、限界を超えて展開すると、回復が追いつかない。焼けた部分が、灰みたいに、固まって残る。私たちは、それを『灰化』と呼んでる」
「失効と、関係があるんですか」
三輪は、答える前に、研究室のドアのほうを見た。ドアは閉まっていた。それでも、彼女は立ち上がって、鍵をかけた。
「……あなたが今日、腕の診察だけのために来たんじゃないことは、わかってる。真壁さんから、連絡をもらったから」
しずくだ。灯は、何も言わなかった。
「だから、一回だけ、言う。私は、ここで聞いたことを誰にも話さないし、あなたも、誰から聞いたかを話さない。いい?」
「はい」
三輪は、机の引き出しから、一枚のグラフを取り出した。横軸に年齢、縦軸に何かの数値。点が、右肩上がりに並んでいる。
「これは、過去十七年間の、全適性者の神経灰化率と、失効年齢の相関。見ての通り、灰化が進んでいる子ほど、失効が早い。つまり、失効っていうのは、生まれつきの寿命みたいなものじゃない。使いすぎた結果なの。防壁を張れば張るほど、早く終わる」
「……それは、公表されて」
「ない。十年前に、私の前任者が論文にまとめた。防衛省の判断で、非公開になった。理由は、『適性者の士気に影響を与える恐れがあるため』」
三輪は、グラフを裏返した。
「それから、もう一つ。こっちが、本題」
机の上の、分解された補助炉の部品を、指さした。黒く焼け焦げた、拳ほどの大きさの結晶体。
「早乙女さんの炉の、心臓部。魔素安定結晶。規格では、人工合成の高純度ルチル結晶を使うことになってる。一個、八百万円。でも、これは」
三輪は、結晶体を光にかざした。焦げた表面の割れ目から、内部が見える。不透明な、濁った白。
「中国の、工業用の研磨材グレードの合成石英。一個、三万円くらい。それに、ルチルっぽく見えるように、表面にコーティングしてある。外から見ただけじゃ、わからない。X線回折にかけないと」
「ヤシマ重工は、それを、知って」
「知らないわけがない。調達仕様書には、結晶の成分分析表の提出が義務付けられてる。ヤシマが提出した分析表は、完璧なルチルのデータだった。別の結晶のデータを、使い回したんでしょう」
三輪は、結晶体を、机の上に置いた。ことり、と小さな音がした。
「差額は、一個あたり七百九十七万円。去年の秋の定期更新で、ヤシマ製の炉は、全国の適性者に、四百十二台配備された」
灯は、計算した。数えるのは、得意だった。
「……三十二億、八千万円」
「そのうちのいくらが、どこに流れたのか。それは、私の専門じゃない」
三輪は、椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。蛍光灯が、一本、切れかけて、ちらちらと瞬いていた。
「この結果は、三週間前に、報告書にまとめて上に上げた。葛西さんが亡くなる、一週間前に。もし、あれがちゃんと読まれていたら」
三輪は、そこで言葉を切った。
「報告書は、どうなったんですか」
「差し戻された。『分析手法に疑義あり。再検証せよ』。再検証のための予算は、つかなかった」
*
研究所からの帰り道、灯は、立川駅のホームで、電車を待ちながら、空を見上げていた。
五月の空は、高く、青く、雲一つなかった。ホームの屋根の端で、燕が巣を作っていた。親鳥が、何度も何度も、虫をくわえて巣に戻ってくる。巣の中で、雛が、黄色い口を大きく開けて鳴いている。
三十二億八千万円。
灯は、その数字を、頭の中で、何度も数え直した。数え直しても、数字は変わらなかった。
葛西みのりの命は、いくらだったのだろう。一個八百万円の結晶と、一個三万円の結晶の、差額。七百九十七万円。
――違う。
灯は、首を振った。
――命を、数で数えちゃいけない。
でも、誰かが、数えたのだ。誰かが、葛西みのりの命と、七百九十七万円を、天秤にかけたのだ。そして、七百九十七万円のほうを、選んだのだ。
電車が、ホームに滑り込んできた。燕が、驚いて、空へ飛び立った。
*
五月十日。天蓋第一基幹塔で、「第三次共鳴試験」が行われた。
天蓋の起動には、現役の適性者による「呼び水」が必要だ、と説明されていた。塔の中枢にある魔素変換炉に、外部から適性者の魔素を流し込み、炉を共鳴させて、起動させる。試験は、これまでに二回、別の中隊が担当していた。今回は、八咫中隊の番だった。
東京湾の中央、海ほたるパーキングエリアの南二キロに、人工島が造成されていた。その中心に、塔は立っていた。
近くで見ると、塔は、思っていたよりもずっと巨大だった。直径は、根元で八十メートル。白い外壁は、コンクリートでも金属でもない、陶器のような、なめらかな質感の素材で覆われている。継ぎ目がない。窓もない。ただ、白い、巨大な円柱が、空に向かって、まっすぐに伸びている。頂上は、薄い雲の中に消えていた。
「……でけえな」
凛子が、見上げて呟いた。
「なんか、生き物みたいや」
ひばりが、凛子の袖をつかんでいた。
塔の根元に、一つだけ、入り口があった。鋼鉄の扉。その前で、防衛省の職員と、白衣の研究者たちが、五人を出迎えた。
「八咫中隊の皆さん、お待ちしておりました」
先頭に立つ男が、名刺を差し出した。防衛省天蓋計画推進室長、という肩書きだった。
「本日の試験の手順を、ご説明します。皆さんには、塔の最下層、第一共鳴室に入っていただきます。共鳴室の中央に、接触端子がございますので、そこに両手を置いて、通常の防壁展開と同じ要領で、魔素を流し込んでください。時間は、五分間。出力は、三割程度で結構です」
「中は、見せてもらえないのか」
凛子が訊いた。
「共鳴室以外の区画は、機密指定となっておりますので」
「炉の構造は」
「申し訳ございません。機密です」
推進室長は、にこやかに微笑んだ。御厨大臣の笑顔に、どこか似ていた。
*
第一共鳴室は、直径二十メートルほどの、円形の部屋だった。
床も、壁も、天井も、塔の外壁と同じ、白い、陶器のような素材でできていた。照明は、どこにも見当たらない。それなのに、部屋全体が、ぼんやりと、内側から発光していた。影が、できない。自分の足元を見ても、影がない。灯は、それが、ひどく落ち着かなかった。
部屋の中央に、腰の高さほどの、白い台座があった。その上面に、手形のような窪みが、五つ、放射状に並んでいる。
「じゃあ、始めるか」
凛子が、最初に、窪みに両手を置いた。灯、しずく、小夜、ひばりが、それに続く。
トワだけが、部屋の入り口に、立ち止まっていた。
「トワ?」
灯が振り返ると、トワは、真っ白な顔をして、首を横に振っていた。両手で、スケッチブックを、胸に抱きしめている。
「トワ、どうしたの」
トワは、答えなかった。ただ、首を振り続けていた。
「鳴海さんは、観測要員として、記録をお願いします」
壁のスピーカーから、推進室長の声が聞こえた。
「接触は、四名で結構です」
凛子が、トワを一瞥した。それから、窪みの上で、両手に力を込めた。
「展開。出力、三割」
灯も、魔素を流した。
最初は、何も感じなかった。いつもの防壁展開と同じ。腕の神経を、温かいものが流れていく感覚。それが、掌から、台座の窪みに吸い込まれていく。
十秒。二十秒。
三十秒が過ぎたころ、灯は、何かに気づいた。
――引っ張られている。
自分の魔素が、窪みに吸い込まれていく。それは、予想していた。でも、その吸い込まれる速度が、灯が流し込もうとしている速度よりも、少しだけ、速い。まるで、台座の向こう側にいる誰かが、灯の手を、握って、引き寄せようとしているように。
四十秒。
そして、声が、聞こえた。
耳からではなかった。掌から。台座の窪みを通して、腕の神経を逆流して、頭の中に、直接、流れ込んできた。
――あかり。
灯は、息を止めた。
――あかり、でしょう。この壁の感じ、わかるよ。薄くて、たくさん重なってる。臆病な壁。
知っている声だった。
――怖いなら、怖いぶんだけ、重ねればいいんだよ。
「……ゆかり、さん」
灯は、声に出していた。
隣で、凛子が、びくりと肩を震わせた。
「灯、お前も、聞こえ――」
凛子の言葉は、そこで途切れた。
声が、増えた。
一つではなかった。二つでも、三つでもなかった。何十もの声が、一斉に、灯の頭の中に流れ込んできた。
――さむい。
――おかあさん。
――ここ、どこ。
――くらい。くらい。くらい。
――だれか、いるの。
――てが、うごかない。
――あついの。せなかが、ずっと、あついの。
――かえりたい。
――わたしの、なまえ、なんだっけ。
灯は、窪みから手を離そうとした。離れなかった。手のひらが、台座に吸いついている。魔素が、ものすごい速さで、吸い出されていく。三割どころではない。七割。八割。
「手を離せ! 全員、手を離せっ!」
凛子が叫んだ。
ひばりが、泣き叫んでいた。しずくが、歯を食いしばって、腕を引き剥がそうとしていた。小夜は、目を見開いたまま、動かなかった。その唇が、小さく、何かを呟いていた。
「――葛西、さん」
灯にも、聞こえた。
――あつい。せなかが、あつい。たいちょう、ごめんなさい。わたし、まもれた? だんち、まもれた?
葛西みのりの声だった。
十八日前に死んだはずの、葛西みのりの声が、この塔の中から、聞こえていた。
*
次に気づいた時、灯は、共鳴室の床に倒れていた。
白い天井が、ぼんやりと光っている。影のない光。誰かが、灯の肩を揺すっていた。
トワだった。
トワは、灯の顔を覗き込みながら、泣いていた。声を出さずに、ぼろぼろと、涙をこぼしていた。その涙が、灯の頬に落ちて、温かかった。
「……トワ。手を、離してくれたの」
トワは、頷いた。それから、自分の両手を見せた。掌が、赤く、焼けただれていた。台座から、四人の手を、一人ずつ、力ずくで引き剥がしたのだ。
部屋の反対側で、凛子が、壁にもたれて座り込んでいた。顔色が、紙のように白い。小夜が、凛子の手首を握って、脈を取っていた。しずくは、膝を抱えて、震えていた。ひばりは、小夜の背中にしがみついて、しゃくり上げていた。
『試験は、終了です。皆さん、お疲れ様でした』
スピーカーから、推進室長の声が流れた。何事もなかったかのような、穏やかな声だった。
『共鳴率、予測値の三百四十パーセント。素晴らしい結果です。特に、久我さんと篠宮さんの魔素は、炉との親和性が極めて高い。今後の参考にさせていただきます』
凛子が、ゆっくりと、顔を上げた。
その目に浮かんでいたものを、灯は、それまで一度も見たことがなかった。
*
帰りのヘリの中で、誰も、口をきかなかった。
ローターの轟音の中で、トワが、スケッチブックに、何かを描いていた。灯は、それを、横から見ていた。
塔の断面図だった。
最下層に、共鳴室。その上に、何層にもわたって、小さな部屋が、蜂の巣のように並んでいる。そして、その一つ一つの部屋の中に、膝を抱えて丸くなった、小さな人の形。
トワは、その人の形の一つ一つに、鉛筆で、名前を書き込んでいった。
佐伯ゆかり。
森下あおい。
宇佐美ちとせ。
灯の知っている名前があった。知らない名前もあった。白樺園に入所したはずの、先輩たちの名前。
トワの鉛筆は、止まらなかった。
十人。二十人。五十人。百人。
そして、塔のいちばん下の層、共鳴室のすぐ上の、まだ空いている部屋の一つに、トワは、ためらいながら、一つの名前を書き込んだ。
久我凛子。
灯は、トワの手首を、そっと握った。
トワは、鉛筆を置いた。それから、灯を見た。濡れた目で、まっすぐに。
そして、口を開いた。
「りんこさんが、つぎ」
*
同じ日の夜。
綾瀬小夜は、世田谷区成城の実家にいた。
試験のあと、彼女は、休暇を申請した。理由は「家族の用事」。桐生一佐は、何も訊かずに、許可した。
実家は、成城の住宅街の奥にある、古い洋館だった。祖父の代から続く家で、庭には、樹齢百年を超える楠が、枝を大きく広げている。小夜は、子供の頃、その楠に登って、よく母に叱られた。
夕食のあと、小夜は、自分の部屋に戻るふりをして、二階の廊下の、父の書斎の前に立った。
書斎のドアは、少しだけ開いていた。中から、父の声が聞こえた。電話で、誰かと話している。
「――ああ。共鳴率、三百四十だ。久我の個体が、特に良い。予定を前倒しにできる」
小夜は、息を殺した。
「――いや、本人にはまだ伝えていない。誕生日が十九日だから、その翌週に、白樺園への移送命令を出す。表向きは、通常の退役手続きだ。誰も疑わない」
沈黙。相手が、何かを言っている。
「――わかっている、恭介。だが、炉の件はもう限界だ。葛西の件で、報道が嗅ぎ回り始めている。ヤシマには、在庫の差し替えを急がせろ。それから、技研の三輪とかいう女。あれは、どうにかしないとまずい」
恭介。御厨恭介。
「――天蓋の本稼働に必要な炉心は、最低二百。現在、百四十二。残り五十八。現役の適性者の中から、灰化率の高い順に、前倒しで回収していくしかない。……ああ、わかっている。娘のことは、言うな」
小夜の手が、ドアノブに触れかけて、止まった。
「――小夜は、炉心にはしない。それだけは、絶対に。あの子の能力は修復型だ。炉心には向かない。……そういう問題じゃない? ああ、そうだな。そういう問題じゃない。だが、それでも、だ」
父の声が、ほんの少しだけ、震えた。
小夜は、それを聞いて、自分が泣くと思った。
でも、涙は出なかった。
代わりに、胸の奥で、何かが、とても静かに、凍りついていくのを感じた。
彼女は、音を立てずに、書斎の前を離れた。自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛け、スマートフォンを取り出した。
そして、録音アプリの停止ボタンを押した。
録音時間、四分三十二秒。
窓の外で、楠の枝が、夜風に揺れていた。小夜は、その枝を、長い間、見つめていた。
子供の頃、あの枝の上から見た世界は、とても広くて、とても美しかった。
父が、下から両手を広げて、「降りておいで、小夜。受け止めてあげるから」と笑っていた。
小夜は、スマートフォンを、胸に抱きしめた。
そして、誰にも聞こえない声で、言った。
「さようなら、お父様」




