第二章 相模湾の鯨
四月二十二日、午前三時十一分。気象庁の裂開予報が、相模湾沖に「警戒レベル四」を発令した。
灯は、ベッドの上で目を開けた時には、もう制服の袖に腕を通していた。体が先に動く。三年間の訓練が、眠りと覚醒の境界を削り取っていた。窓の外の誘導灯が、オレンジから赤に変わって、高速で明滅している。出動の合図だ。
「起きろ、ひばり」
「……あと五分……」
「鯨だぞ」
凛子の一言で、ひばりがベッドから転げ落ちた。
輸送ヘリCH-47Jの機内は、ローターの轟音で会話ができなかった。五人は、壁際の折り畳み座席に並んで座り、ヘッドセットのインカムで連絡を取り合う。機体の小さな窓から見える東京湾は、まだ黒く、ところどころに船の航行灯が、星のようにまたたいていた。
『状況を説明する』
インカムから、一等陸佐・桐生征の声が聞こえた。四十八歳。防衛大学校を出て、普通科連隊から叩き上げてきた男だった。第一防壁群の群長として、適性者の少女たちを指揮する立場にある。いつも少し掠れた声で話し、少女たちのことを、決して「君たち」とは呼ばず、必ず名字で呼んだ。
『裂け目の予測位置は、相模湾、江の島の南南西十二キロ。予測規模は館山の一・五倍。鯨型の出現確率、六割。八咫中隊は鎌倉市の海岸線、由比ヶ浜から七里ヶ浜までを担当。第二中隊「天鈿女」が逗子・葉山方面、第三中隊「玉依」が藤沢方面を担当する』
「海自は」
凛子が訊いた。
『護衛艦「いずも」と「むらさめ」が、横須賀から出港済み。艦対空誘導弾で鯨を叩く。ただし、射程の関係で、鯨が海岸線から三キロ以内に入るまで撃てない』
「つまり、三キロ以内に入ってから、撃墜されるまでの間、あたしらが持たせろってことか」
『そういうことだ』
桐生は、少しだけ間を置いた。
『久我。補助炉の件は、聞いている』
「報告書なら、差し戻されましたよ」
『知っている。……今回、全中隊の補助炉を、旧型の在庫品に交換するよう、防衛装備庁に要請した。だが、在庫が足りなかった。八咫中隊の分は確保したが、第二中隊の一部は、ヤシマ製のままだ』
機内の空気が、変わった。
「……第二の誰が」
『葛西みのりと、他二名だ』
凛子は、何も言わなかった。
灯は、葛西みのりの顔を思い出していた。第二中隊の副長で、十九歳。合同訓練で何度か顔を合わせた。笑うと目がなくなる人で、休憩時間にいつも、手作りのクッキーを配っていた。「料理は防壁と同じ。分量を守れば、絶対に失敗しないの」と言っていた。
『出力を抑えて運用するよう、第二中隊長には伝えてある。……すまない。俺にできるのは、ここまでだった』
桐生の声は、いつもより、さらに掠れていた。
*
鎌倉の海は、夜明け前の薄闇の中で、鉛色に沈んでいた。
由比ヶ浜の砂浜に降り立つと、靴の下で、湿った砂がきしんだ。波の音が、規則正しく打ち寄せている。浜辺に沿って走る国道一三四号線は、すでに通行止めになっていて、街灯の明かりだけが、誰もいない道路を照らしていた。その向こうに、鎌倉の街並みが、低く、黒く、うずくまっている。若宮大路の鳥居が、街灯の光の中に、かろうじて輪郭を浮かび上がらせていた。
避難は、まだ終わっていなかった。
警報が出たのは午前三時。鎌倉市の人口は十七万。そのうち、海岸線から一キロ以内に住む約三万人が、避難対象になっている。だが、古い寺社と細い路地の入り組んだこの街では、避難は遅々として進まない。灯の耳には、遠くの路地から、消防の拡声器の声が、かすかに聞こえていた。
『――ただちに、高台へ、避難してください。繰り返します――』
「配置につけ」
凛子の号令で、五人は散った。
凛子は、由比ヶ浜の中央、滑川の河口付近。灯は、その西側、坂ノ下の漁港。しずくは、さらに西の稲村ヶ崎。小夜は、凛子の背後、国道沿いの防風林の中で、修復の待機。ひばりは、火傷が完治していないため、今回は七里ヶ浜の高台で、予備として待機を命じられた。
トワは、凛子のそばにいた。トワの役目は、観測だった。彼女には、裂け目の開く前兆と、禍の数と位置を、誰よりも早く、正確に感じ取る力があった。それが魔素適性の一種なのか、それとも、十二歳のあの日に何かが壊れたせいなのか、医官たちにも、わからなかった。
灯は、坂ノ下の漁港の防波堤の上に立った。潮の匂いが、濃い。足元のコンクリートに、フジツボがびっしりと張りついている。港には、小さな漁船が十数隻、舫われたまま揺れていた。漁師たちは、もう避難しただろうか。船を置いて逃げることを、彼らはどう思っただろうか。
灯は、数え始めた。
漁船の数。十四。防波堤のテトラポッドの数。見えるだけで、四十一。沖の、裂け目の予測位置のあたりを、じっと見る。何も見えない。ただ、暗い海と、暗い空が、境目なく溶け合っている。
――数える。数えられるうちは、まだ大丈夫。
『来る』
インカムから、トワの声が聞こえた。
トワが、声を出した。
灯の背筋に、冷たいものが走った。
沖の暗闇に、一本の、白い線が引かれた。水平線と垂直に。空と海を、縦に貫くように。その線が、ゆっくりと、左右に開いていく。
裂け目の向こうは、何も見えなかった。黒でも白でもない、色という概念そのものが欠落したような、空白。そこから、灰が、降り始めた。
『灰の降下量、館山の三倍』
しずくの声。
『トワ、数は』
凛子の問いに、トワが答えるまで、十秒かかった。インカム越しに、鉛筆がスケッチブックの上を走る音が聞こえる。それから、凛子が、トワの書いたものを読み上げた。
『……蛾、八百。鯨、二』
二頭。
灯は、自分の喉が、ごくりと鳴るのを聞いた。
『いずも、むらさめ、それぞれ一頭ずつ対処する。各中隊、鯨が三キロ圏に入るまで、蛾を抑えろ』
桐生の声。
『八咫中隊、展開』
「展開します」
灯は、両手を開いた。
*
蛾の群れは、館山の時よりも、密度が濃かった。
凛子の単層絶対壁が、由比ヶ浜の上空に、横一文字に広がる。その壁に、黒い雲のような群れが、間断なく叩きつけられ、白い粉となって散っていく。灯の多層防壁は、凛子の壁の西端と、坂ノ下の漁港を繋ぐように、扇形に展開されていた。しずくの結晶格子が、稲村ヶ崎の岬を覆い、六角形の網目が、朝焼けの最初の光を受けて、虹色にきらめいていた。
空が、白み始めていた。
東の空、三浦半島の山並みの向こうから、薄い桃色の光が滲み出してくる。その光が、降りしきる灰を照らし、灰の一粒一粒が、ほんのりと色づいて見えた。桜の花びらが降っているようだった。四月の終わり。今年の桜は、もう散ってしまったけれど。
『鯨一、三キロ圏に進入。いずも、射撃開始』
沖合から、白い煙の尾が、空に向かって駆け上がっていく。灯は、それを横目で見ながら、防壁の枚数を数え続けていた。今のところ、割れたのは七枚。補充して、常に三十枚を維持している。補助炉の出力は、六割。旧型の炉は、ヤシマ製よりも重く、熱を持ちやすいが、安定していた。
――大丈夫。今日は、大丈夫。
鯨の一頭目に、誘導弾が命中した。橙色の炎が、沖の空を染める。巨体が、崩れていく。
『鯨一、撃破。鯨二、進路変更。逗子方面に向かっています』
逗子。第二中隊の担当区域。
灯は、反射的に、東の方角を見た。由比ヶ浜の東端、材木座海岸の向こう、小坪の岬のさらに先に、逗子の海がある。ここからは見えない。
『むらさめ、射撃位置への移動に、あと四分』
『第二中隊、天鈿女。鯨の正面に入る。持たせる』
知らない声。第二中隊長の声だ。
灯は、自分の担当区域に意識を戻した。蛾の群れは、少しずつ数を減らしていた。凛子の壁は、揺らぎもしない。小夜の修復も、まだ一度も呼ばれていない。
『――みのり、出力落として! それ以上は――』
第二中隊の無線が、混線した。
『大丈夫です、隊長。私の炉、今日は調子いいんです。ほら、こんなに』
葛西みのりの声だった。明るい、笑っているような声。
『――壁が、足りない。鯨の腹が、下がってくる。小坪の団地の真上――』
『団地の避難は』
『まだ、三割が――』
『だったら、私がやります』
『みのり!』
灯は、その後に起きたことを、音でしか知らない。
無線の向こうで、何かが、ぱしり、と割れる音がした。館山で、凛子の壁が割れた時と同じ音。それから、甲高い、金属が焼き切れるような音。それから、誰かの悲鳴。それから。
『――炉が、炉が燃えてる! みのり、炉を外して! 外して!』
『あつ、い』
小さな声だった。
それが、灯の聞いた、葛西みのりの最後の言葉だった。
『――壁、消失。鯨、団地上空、高度百――』
『むらさめ、射撃開始!』
東の空で、炎が上がった。橙色の光が、小坪の岬の向こうから、空を照らした。
それから、長い、長い、沈黙があった。
*
鯨は、団地に到達する直前で、撃墜された。
小坪の市営団地では、避難の遅れた住民のうち、四人が、崩れ落ちてきた鯨の残骸の下敷きになり、重傷を負った。死者は、出なかった。
一人を除いては。
葛西みのりの遺体は、小坪漁港の岸壁で、発見された。背中の補助炉は、黒く焼け焦げ、半ば溶けて、彼女の背中に癒着していた。死因は、補助炉の暴走による魔素過負荷。神経系の、急性の全焼。
彼女の最後の防壁は、補助炉が燃え始めてから消失するまでの四十秒間、鯨の腹を支え続けていた。その四十秒がなければ、むらさめの誘導弾は、間に合わなかった。
*
四日後。市ヶ谷の防衛省で、記者会見が開かれた。
壇上に立ったのは、防衛大臣・御厨恭介。五十四歳。若い頃は外資系の投資銀行にいて、四十代で政界に転じた、鷹野内閣きっての論客。整った顔立ちと、よく通るバリトンの声で、テレビ映えすることでも知られていた。
「――葛西みのり二等防壁士は、自らの身命を賭して、小坪の住民千二百名の命を守りました。その勇気と献身に、私は、一人の国民として、深い敬意を表します」
御厨大臣は、壇上で、深々と頭を下げた。フラッシュが、一斉に焚かれた。
「政府は、葛西二等防壁士に、防衛功労章を授与するとともに、一階級特進の措置を取ることを決定いたしました。また、ご遺族には、特別弔慰金を――」
灯は、営舎の食堂の、古いテレビの前で、それを見ていた。
食堂には、八咫中隊の五人のほかに、第一防壁群の整備員や、事務官たちが、十数人集まっていた。誰も、何も言わなかった。
「――今回の事案の原因について、伺います」
記者席から、声が上がった。
「葛西さんの補助炉が暴走したとの情報がありますが、事実でしょうか。また、先月、館山でも同型の補助炉が発火したという報道がありますが」
御厨大臣は、微笑んだ。穏やかで、自信に満ちた、少しだけ悲しげな微笑み。
「ご質問、ありがとうございます。補助炉の件については、現在、防衛装備庁において、詳細な調査を進めております。現時点で申し上げられるのは、補助炉は、適性者の極めて強力な魔素を制御する、極めて精密な装置であり、適性者の側の出力が、装置の設計上の上限を大きく超えた場合には、不具合が生じる可能性がある、ということです」
「つまり、葛西さんの側に原因があった、と」
「そうは申しておりません。葛西二等防壁士は、住民を守るために、自らの限界を超えた。その結果として、装置が耐えきれなかった。私は、そう理解しております。それこそが、彼女の勇気の証であります」
食堂の誰かが、小さく、テーブルを叩いた。
ひばりだった。
ひばりは、立ち上がっていた。背中の包帯が、Tシャツの下で、こわばっているのがわかった。
「……ちゃうやん」
声が、震えていた。
「ちゃうやん。そんなん、ちゃうやん。うちの炉も燃えたやん。三十秒で燃えたやん。十割なんか、規格の範囲内やん。限界超えたとか、そんなん、ちゃうやん」
「ひばり」
凛子が、静かに言った。
「座れ」
「中隊長、なんで! なんであの人、あんなこと言うの! みのりさん、なんも悪くないやん! 炉が、炉が悪いんやん! うちらの炉が、なんか、おかしいんやん!」
「座れ、ひばり」
「いやや!」
ひばりは、テレビの画面を指さした。画面の中で、御厨大臣は、まだ、穏やかに微笑んでいた。
「あの人、嘘ついてる。うち、わかる。うち、配信やってたから、わかる。あれ、嘘ついてる人の顔や。カメラの前で、嘘つくのに慣れてる人の顔や」
食堂が、静まり返った。
凛子は、ゆっくりと立ち上がった。そして、ひばりの前に立ち、その小さな肩に、両手を置いた。
「知ってるよ」
「……え」
「知ってる。あたしも、灯も、しずくも、小夜も、トワも。みんな、知ってる」
凛子は、ひばりの目を、まっすぐに見た。
「だから、座れ。今ここで叫んでも、何も変わらない。あたしらがここで暴れたら、あの人の言うことが、本当になる。『適性者は感情的で、制御が難しい』ってな。そうしたら、次に燃えるのは、お前の炉だ」
ひばりの目から、涙がこぼれた。一粒。二粒。それから、堰を切ったように。
「……みのりさん、クッキー、くれてん。合同訓練の時。チョコチップの。めっちゃ、おいしかってん」
「ああ」
「レシピ、教えてもらう約束、してたのに」
「ああ」
凛子は、ひばりを抱きしめた。ひばりは、凛子の肩に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
テレビの中で、記者会見が終わった。御厨大臣が、もう一度、深々と頭を下げた。フラッシュが、焚かれた。
*
その夜、灯は、営舎の屋上に上がった。
春の夜風は、まだ少し冷たかった。湾の向こうに、天蓋の基幹塔が、白い光を放って立っている。夜間照明に照らされた塔は、昼間よりもいっそう、灯台のように見えた。
屋上の手すりのそばに、先客がいた。
小夜だった。
小夜は、手すりにもたれて、塔を見ていた。風に、長い黒髪がなびいている。
「篠宮さん」
「綾瀬さん。……眠れないの」
「ええ。少し」
灯は、小夜の隣に立った。しばらく、二人で、黙って塔を見ていた。
「篠宮さん。私の父は、御厨大臣の、古くからの友人なんです」
小夜が、不意に言った。
「大学の先輩と後輩で。父が政界に誘ったのも、御厨さんなんです。父は、御厨さんを、とても信頼しています。家にも、よくいらっしゃいました。私も、小さい頃、膝の上に乗せてもらったことがあります。優しい方でした。いつも、外国のお菓子を持ってきてくださって」
小夜は、静かに笑った。
「ヤシマ重工の社長さんも、よくいらっしゃいました。御厨さんと一緒に。父の書斎で、遅くまで、お酒を飲んでいらして」
灯は、何も言わなかった。言うべき言葉が、見つからなかった。
「先週、父が式典に来た時。私を抱きしめて、背中を二度、叩きました。覚えていらっしゃいますか」
「……うん」
「あれは、私が小さい頃からの、父と私の合図なんです。『何も言うな』という意味の」
小夜は、手すりを握りしめた。白い指の関節が、さらに白くなった。
「父は、知っているんです。炉のことを。知っていて、私に、黙っていろと言った」
湾の上を、夜間飛行の旅客機が、赤い航空灯を点滅させながら、羽田のほうへ降りていく。
「篠宮さん。私は、誰の娘なんでしょう」
小夜の声は、とても静かだった。
「父の娘なのか。この国の盾なのか。それとも」
小夜は、灯のほうを向いた。月明かりの中で、その目は、濡れていなかった。乾いていて、そして、とても深かった。
「葛西さんを殺した人たちの、仲間なのか」
灯は、答えられなかった。
ただ、小夜の手の上に、自分の手を重ねた。包帯の巻かれた、まだ痛む手を。
小夜の手は、氷のように冷たかった。
二人は、長い間、そうしていた。湾の向こうで、白い塔が、何事もなかったかのように、光り続けていた。




