第一章 木更津の盾たち
陸上自衛隊木更津駐屯地の東端に、「第一防壁群」の営舎はあった。
かつてヘリコプターの格納庫だった鉄骨の建物を改装したもので、天井は高く、冬は寒く、夏は暑い。壁の上のほうには、まだ前の持ち主の名残の「第一ヘリコプター団」という色褪せたペンキ文字が残っていて、誰もそれを塗り潰そうとはしなかった。窓からは東京湾が見えた。晴れた日には対岸の川崎の工業地帯が、灰色の積み木のように並んでいるのが見える。そしてもっと晴れた日には、湾の真ん中に立つ、高さ三百メートルの白い塔が見えた。
「天蓋」の第一基幹塔。
政府が五年の歳月と一兆二千億円の予算をかけて建設中の、国家規模の防壁システム。完成すれば、首都圏全域を一枚の巨大な防壁で覆うことができる。そうなれば、もう適性者の少女たちを最前線に立たせる必要はなくなる――と、内閣総理大臣・鷹野隆道は、国会でも記者会見でも、何度も繰り返していた。
「そんなうまい話があるかよ」
久我凛子は、営舎の屋上の手すりに肘をつき、塔を眺めながら言った。四月の初め、館山の戦闘から三週間後の午後だった。潮風が、彼女の短く切った黒髪を揺らしている。
「あれが完成したら、あたしらはお払い箱。それで済むなら万々歳だけどな」
「済まないと思うんですか」
灯は、凛子の隣で同じように手すりにもたれていた。両腕にはまだ包帯が巻かれている。魔素焼けの治りが、予想より遅かった。
「思うね。でっかい盾ってのは、でっかい手で持たなきゃ持てない。あれを動かすのに、何が要ると思う」
「電力、ですか」
「電力で防壁が張れるなら、最初からあたしらは要らねえよ」
凛子はシガレットチョコを一本取り出し、灯に差し出した。灯は首を横に振った。凛子は肩をすくめて、自分で咥えた。
「研究所の連中に聞いても、誰もまともに答えねえ。『新型の魔素変換炉』だとさ。何をどう変換してんだか」
凛子は、来月の五月十九日に、二十二歳になる。
適性者の能力は、例外なく、二十二歳前後で急速に失われる。「失効」と呼ばれる現象だ。原因はまだ解明されていない。失効した適性者は「退役」となり、長野県の霧ヶ峰高原にある国立の療養施設「白樺園」に入所する。そこで一年ほど、失効に伴う神経症状の経過観察を受けたあと、社会に戻る。
――と、されていた。
「白樺園の先輩たちから、手紙、来てますか」
灯は訊いた。凛子は少しだけ間を置いて、答えた。
「来てるよ。ゆかりから、毎月」
佐伯ゆかり。凛子と同期で、二年前まで八咫中隊の中隊長だった人。灯が入隊した時、最初に防壁の張り方を教えてくれたのは、ゆかりだった。「怖いなら、怖いぶんだけ重ねればいいんだよ」。灯の「臆病な壁」を、ゆかりは笑わずに見てくれた。
「元気そうですか」
「元気そうだよ。高原の空気がうまいとか、牛がいるとか、そんなことばっか書いてくる。字もきれいなもんだ」
凛子は、そこで言葉を切った。
「……きれいすぎるんだよな」
「え?」
「なんでもねえ」
凛子は手すりから体を離し、背伸びをした。
「さて、午後の訓練だ。今日はしずくの番だろ。法律の講義」
「はい」
「あれ、寝ないで聞けた試しがねえんだよな」
凛子は笑って、階段のほうへ歩いていった。灯は、もう一度だけ、湾の向こうの白い塔を見た。春の霞の中で、塔はぼんやりと光って見えた。灯台のようにも、墓標のようにも見えた。
*
営舎の一階には、「教場」と呼ばれる部屋があった。元は整備員の休憩室で、長机が四つと、古いホワイトボードが一枚。窓の外には格納庫時代の名残の、錆びた滑走路誘導灯が並んでいる。
「――以上が、魔素適性者特別措置法の成立過程です。質問は」
ホワイトボードの前に立つ真壁しずくは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、四人の聴衆を見渡した。
早乙女ひばりは、机に突っ伏して寝ていた。背中の火傷の包帯が、Tシャツの襟元から覗いている。
綾瀬小夜は、両手を膝の上に揃えて、にこにこと微笑んでいた。完璧な姿勢だった。完璧すぎて、話を聞いていたのかどうかわからなかった。
鳴海トワは、スケッチブックに何かを描いていた。
篠宮灯だけが、ノートを取っていた。
「……篠宮さん以外、全滅ですね」
しずくはため息をついた。
「いいですか。これは単なる座学ではありません。私たちが何をしていいのか、何をしてはいけないのか。それを決めているのは、この法律です。私たちが国家に対して持つ義務と、国家が私たちに対して持つ義務。その両方が、ここに書いてある」
「しずくちゃん、むずかしいこと言うてもあかんて」
ひばりが、突っ伏したまま言った。
「起きてたんですか」
「半分な。要するに、うちらは盾で、盾以外のことしたらあかん、ってことやろ? そんなん、入隊初日に言われたわ」
「それは第九条だけです。私が言いたいのは、第二十四条のほう」
しずくはホワイトボードに条文を書いた。
――第二十四条 国は、適性者の心身の健康を保持し、その尊厳を尊重するため、必要な措置を講じなければならない。
「これが、国の義務です。私たちを守る義務。そして」
さらに書く。
――第三十一条 適性者は、内閣総理大臣の指揮監督の下に、その任務に従事する。
「これが、文民統制の原則。私たちは、選挙で選ばれた政治家の命令に従う。これは、絶対です。どれほど強い力を持っていても、どれほど政治家が愚かに見えても、私たちは彼らの命令に従わなければならない。なぜだかわかりますか、早乙女さん」
「え、うち?」
ひばりは顔を上げた。頬に、机の木目の跡がついていた。
「えーと……偉い人やから?」
「違います」
「ほな、法律でそう決まってるから?」
「半分正解です。もう半分は」
しずくは、マーカーのキャップを閉めた。
「私たちが、怖いからです」
教場が、少し静かになった。
「私たちは、国中のどの戦車よりも、どの戦闘機よりも、硬い。私たちの防壁は、ミサイルでも破れない。もし私たちが、誰の命令にも従わずに、自分たちの判断で動き始めたら、誰も私たちを止められない。だから、私たちは、自分で自分に鎖をかけているんです。選挙で選ばれた人たちに、鎖の端を握らせている。それが、文民統制です」
「……鎖、て」
ひばりは、少し嫌そうな顔をした。
「うち、犬ちゃうで」
「犬のほうがましです。犬は、自分が鎖に繋がれていることを知らない。私たちは、知っている。知っていて、自分で繋いでいる。それが、人間の尊厳というものです」
しずくは、そこで少しだけ、表情を緩めた。
「……まあ、受け売りですけどね。高校の公民の先生の」
灯は、ノートに「鎖の端」と書いた。それから、その下に小さく「誰が握っている?」と書き足した。
小夜が、静かに手を挙げた。
「真壁さん。一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「もし、鎖の端を握っている人が、その鎖で、私たちではない誰かを縛ろうとしたら。私たちは、どうすればいいのでしょう」
小夜の声は、いつもと同じように柔らかかった。けれど、その目は笑っていなかった。
しずくは、すぐには答えなかった。
「……それは、法律の外の問題です」
「法律の外」
「ええ。法律は、そういう事態を想定していません。想定していたら、法律は成り立たないんです。国家というのは、最後の最後で、信頼でできているので」
「そうですか」
小夜は、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。とても、よくわかりました」
その時、トワが、スケッチブックを持ち上げた。描かれていたのは、湾の向こうの白い塔だった。鉛筆の細かい線で、精密に描かれている。けれど、塔の根元のあたりに、何か小さなものがたくさん描き込まれていた。
灯は目を凝らした。
それは、人の形をしていた。膝を抱えて丸くなった、小さな人の形。何十も、何百も、塔の根元に、まるで種子のように並んでいた。
「トワ、それ……」
トワは、スケッチブックを閉じた。それから、首を傾げて、何でもないというように、窓の外を見た。
*
その週の金曜日、綾瀬小夜の父親が、木更津を訪れた。
内閣官房副長官、綾瀬宗一郎。六十二歳。鷹野内閣の「調整役」として知られ、天蓋計画の推進責任者の一人でもある。広報行事の一環として、「最前線の少女たちを激励する」という名目で、テレビカメラを三台引き連れてやってきた。
営舎の前の広場に、即席の演台が設けられた。八咫中隊の五人は、制服――紺色の詰襟に、白い肩章のついた、どこか軍学校の制服を思わせるデザイン――に着替えて、一列に並ばされた。凛子は、腕の包帯を隠すために、手袋をはめていた。
「諸君らの献身に、国民を代表して、心から感謝を申し上げる」
綾瀬宗一郎は、銀髪をきれいに撫でつけた、品のいい紳士だった。声は低く、よく通り、言葉の一つ一つに、抑揚と間がある。人前で話すことに、慣れきっている人間の声だった。
「館山での諸君らの奮闘は、私も報告で読ませてもらった。巨大な禍を前にしても一歩も退かず、一人の市民の犠牲も出さなかった。これこそが、我が国の誇る専守防衛の精神である」
カメラのレンズが、少女たちの顔を一人ずつ舐めるように映していく。灯は、まっすぐ前を見ていた。視界の端で、小夜が、父親の顔を見ずに、その後ろの空を見ているのがわかった。
「天蓋の完成まで、あと一年。それまで、どうか、もう少しだけ、この国を守ってほしい。そして、天蓋が完成した暁には、諸君らはようやく、普通の少女に戻ることができる。学校に通い、友人と笑い、恋をする。そんな当たり前の日々を、私たちは必ず、諸君らに返す。それが、政府の約束である」
拍手が起きた。随行の官僚たちと、駐屯地の広報班の拍手だった。
ひばりが、口の端だけで、小さく呟いた。
「……恋、やって」
「黙ってろ」
凛子が、同じく口の端だけで返した。
式典が終わると、綾瀬宗一郎は、カメラを従えて少女たち一人ひとりと握手をして回った。灯の手を握った時、彼の手は乾いていて、温かかった。
「篠宮くん、だね。館山で六十枚の防壁を重ねたと聞いた。素晴らしい」
「ありがとうございます」
「腕の具合は、どうかね」
「三日で治ると言われました。三週間経ちましたが」
綾瀬は、一瞬だけ、目を細めた。それから、すぐに柔らかな笑顔に戻った。
「そうか。医療体制については、私からも防衛省に申し入れておこう」
そして、最後に、小夜の前に立った。
カメラが、近づいた。父と娘。官房副長官と、その娘である最前線の適性者。広報としては、これ以上ない絵だった。
「小夜」
「お父様」
小夜は、完璧な微笑みを浮かべていた。
「元気そうで、何よりだ」
「お父様も」
「母さんが心配していた。たまには、電話をしなさい」
「はい。そういたします」
二人は、カメラの前で、軽く抱擁を交わした。綾瀬宗一郎の手が、小夜の背中を二度、軽く叩いた。
その時、灯は見ていた。
父親の腕の中で、小夜の両手が、ほんの一瞬だけ、拳に握られたのを。
*
その夜、灯は眠れなかった。
営舎の二階、元はパイロットの待機室だった部屋を、五人で共有している。二段ベッドが三つ並び、そのうちの一つの上段は、荷物置き場になっている。窓の外では、滑走路の誘導灯が、規則正しく、オレンジ色に点滅していた。
一、二、三。点滅を数える。
――きれいすぎるんだよな。
凛子の言葉が、耳から離れなかった。
灯は、そっとベッドを抜け出し、廊下に出た。リノリウムの床が、裸足の裏に冷たい。突き当たりの給湯室に、明かりが漏れていた。
中を覗くと、しずくが、ノートパソコンの画面を睨んでいた。眼鏡のレンズに、青白い光が反射している。テーブルの上には、冷めたインスタントコーヒーのマグカップが二つ。
「……篠宮さん」
「眠れなくて」
「私もです」
しずくは、画面を灯のほうに向けた。
表示されていたのは、二つの画像だった。どちらも、手書きの手紙をスキャンしたもの。便箋の上に、丁寧な、きれいな文字が並んでいる。
「左が、二年前に佐伯ゆかりさんが中隊の業務日誌に書いた文字。右が、先月、白樺園から久我中隊長宛てに届いた手紙の文字。中隊長に頼んで、借りました」
灯は、画面に顔を近づけた。
「……同じ人の字、ですよね」
「そう見えますね。でも」
しずくは、画像を拡大した。
「『あ』の字を見てください。左の、日誌の文字。三十二個の『あ』のサンプルを取りました。二画目の終わりの払いの角度が、平均で十四度、標準偏差は六度。人間の字は、毎回少しずつ違うんです。疲れていれば崩れるし、急いでいれば流れる。ところが」
右の画像の『あ』を、次々と拡大していく。
「手紙の文字。四十一個の『あ』。払いの角度は、全部、十四度。標準偏差、〇・二度」
灯は、息を止めた。
「……機械」
「筆跡模写のプロッターでしょうね。数年前から、行政の儀礼文書に使われ始めた技術です。本人の過去の筆跡データを学習させて、それらしい手書き文字を出力する。精度は高い。でも、完璧すぎる。人間の揺らぎまでは、まだ再現できない」
「ゆかりさんは、自分で手紙を書いていない」
「少なくとも、先月の手紙は。それ以前のものも、たぶん」
しずくは、マグカップのコーヒーを一口飲み、顔をしかめた。
「書けない理由があるのか。書かせてもらえない理由があるのか。それとも」
しずくは、その先を言わなかった。言わなくても、灯にはわかった。
――それとも、もう、書ける状態ではないのか。
「中隊長には」
「まだ言っていません。でも、たぶん、気づいています。気づいているから、私に手紙を貸したんでしょう」
給湯室の窓の外で、誘導灯が点滅している。オレンジ。消灯。オレンジ。消灯。
灯は、トワのスケッチブックを思い出していた。白い塔の根元に並んだ、膝を抱えた小さな人の形。何十も。何百も。
「真壁さん」
「しずくでいいですよ。同じ中隊なんですから」
「……しずく。第二十四条」
「国は、適性者の心身の健康を保持し、その尊厳を尊重するため、必要な措置を講じなければならない」
しずくは、何も見ずに諳んじた。
「国がその義務を果たしていなかったら。私たちは、どうすればいい」
しずくは、長い間、黙っていた。
それから、ノートパソコンを閉じて、言った。
「まず、調べます。証拠を集めます。それから、正しい手続きで、正しい人に届けます。この国には、そのための仕組みがあります。国会があり、裁判所があり、報道がある。私たちは、それを使う」
「それでも、だめだったら」
「その時は」
しずくは、眼鏡を外した。眼鏡のない彼女の顔は、思っていたよりずっと幼く見えた。
「その時に、考えます。でも、篠宮さん。一つだけ約束してください」
「何を」
「その時が来ても、最初に剣を抜くのは、私たちであってはならない。私たちは、盾なんです。盾であることをやめたら、私たちは、ただの化け物になる」
灯は、頷いた。
頷きながら、心のどこかで、数えていた。
盾と化け物の間に、何枚の壁があるのかを。




