序章 灰の降る町
空が裂ける音を、篠宮灯は一度も「音」だと思ったことがない。
それは耳ではなく奥歯で聴くものだった。下顎の骨を伝って頭蓋の内側に入り込み、脳の裏側を爪で引っかくような、低く、粘りつく振動。二〇四八年三月十一日、午前五時四十二分。千葉県館山市の上空、高度二千三百メートルに開いた裂け目は、夜明け前の群青を縦に引き裂き、その傷口から、灰色の綿のようなものをこぼし続けていた。
「灰、来るぞ。口元、締めろ」
中隊長の久我凛子が、無線ではなく肉声で言った。風が強く、言葉の端は千切れて海のほうへ飛んでいった。
灯は防塵マスクの留め具を顎の下で引き絞る。マスクのゴムは三年前の官給品で、伸びきっていて、何度締めても頬との間に指一本ぶんの隙間ができる。そこから入り込む空気は鉄錆と海藻と、それから焦げた紙のような匂いがした。裂け目から降る「灰」の匂いだ。
灰は禍の前触れだった。
灯たちが立っているのは、館山駅から東へ一キロ、国道一二八号線に架かる歩道橋の上だった。眼下の道路には、避難のために詰めかけた車列が、赤いテールランプを数珠のように連ねて北へ伸びている。クラクションは鳴っていない。三年前の条例改正で、避難時のクラクション使用は禁止された。音が禍を呼ぶ、という俗説が根拠だった。科学的な裏付けはない。それでも誰も鳴らさない。沈黙した車列は、葬列に似ていた。
歩道橋の欄干には、霜が白く張りついている。灯は手袋越しにそれを指でなぞった。三月の房総は、夜明け前だけ冬に戻る。
「篠宮、補助炉の数値」
「全員、正常範囲です。早乙女の炉だけ、出力の揺らぎが基準値の一・八倍」
「理由は」
「わかりません。機体側の問題かもしれません」
凛子は鼻を鳴らし、口に咥えていた細い棒をかりりと噛んだ。シガレットチョコだ。本物の煙草は十八歳になってから二十一歳の今日まで一度も吸ったことがない、と本人は言う。魔素適性者は肺に負担をかけるものを禁じられている。それでも彼女はいつも何かを咥えていた。「火のついてねえ煙草ってのは、撃てない銃に似てる」というのが凛子の口癖で、灯は、その言葉の意味を半分くらいしか理解していない。
「ひばり」
『はいはーい、聞こえてますー』
インカムから、間延びした関西訛りが返ってきた。早乙女ひばり、十五歳。中隊でいちばん若く、いちばんうるさい。彼女は歩道橋から二百メートル南の、館山中央郵便局の屋上に配置されている。
「炉の調子が悪い。何か感じるか」
『んー、なんかこう、背中のとこがチリチリする? みたいな。でもいつもこんなもんやで。気のせい気のせい』
「気のせいかどうかを決めるのはお前じゃない。出力を二割落として待機。合図があるまで展開するな」
『えー、せっかく映えるとこやのに』
「ひばり」
『……了解です、中隊長』
凛子は無線を切り、灯のほうへ顔を向けずに言った。
「あいつの炉、去年の秋に交換したやつだよな」
「はい。十月の定期更新で。メーカーの型番が変わった時のロットです」
「ヤシマ重工、だったか」
「はい」
凛子はそれ以上何も言わなかった。シガレットチョコの先が、すこしだけ短くなった。
灯は背中の補助炉に意識を向ける。肩甲骨の間に背負った、ランドセルほどの大きさの金属の箱。中には魔素を安定させる結晶体が封入されていて、彼女たちの「防壁」が暴走しないよう出力を調整している。補助炉がなくても防壁は張れる。だが、補助炉なしで十分以上展開し続けた適性者は、例外なく神経に損傷を負う。三十年前の記録が、そう教えている。
――数える。
灯は心の中で呟く。
――数えられるうちは、まだ大丈夫。
呼吸を数える。一、二、三。灰の粒が頬に当たる回数を数える。避難車列のテールランプを数える。四十七台。北の交差点の信号が、三回、赤から青に変わる。それでも列は動かない。前方の君津方面で、事故があったのかもしれない。
「来る」
その声は、灯の左隣から聞こえた。
鳴海永遠は、言葉を口にしない少女だった。声帯に異常があるわけではない。十二歳で適性が発現した日、彼女は家族とともに裂け目の真下にいて、そして一人だけ生き残った。それ以来、トワの声は、本当に必要な時にしか出てこない。
だから、トワが声を出した時は、それが本当に必要な時だった。
トワは右手の指を三本立て、空の一点を指した。それから指を一本ずつ折っていく。三、二、一。
裂け目が、咳き込むように震えた。
灰の降り方が変わった。それまで綿のようにふわふわと漂っていたものが、急に重さを得て、雨のように斜めに降り始める。その雨の中に、黒い点が混じっていた。
点は近づくにつれて形を持った。翼だった。薄く、膜のような、蛾の翅に似た翼。胴体は人間の腕ほどの太さで、頭部にあたる場所には目も口もなく、ただ白い、ぬるりとした窪みがあるだけだった。
蛾型の禍。この十七年で最も多く観測された種類。一体一体は脆いが、群れで来る。そして群れは、人間の体温に引き寄せられる。
「数」
「目視、百二十……いえ、二百以上。トワ」
トワは膝の上のスケッチブックに、鉛筆を走らせた。三秒で書き上げて、灯に向ける。
――四一二。第二波あり。大きいのが、うしろ。
「四百十二。第二波に大型」
「上等だ」
凛子はシガレットチョコを噛み砕いた。
「八咫中隊、全展開。守る線は国道一二八号線、車列の全長。いいか、あたしらは何も壊さない。何も殺さない。ただ守る。陸自の特科が撃ち落とすまで、裂け目が閉じるまで、一匹も、車に触らせるな」
それは命令であると同時に、法律の条文でもあった。
魔素適性者特別措置法、第九条。
――適性者による魔導の行使は、国民の生命及び身体を防護する目的に限るものとし、いかなる場合においても、攻撃の用に供してはならない。
彼女たちは盾だった。盾以外の何者でもないことを、法が、国が、そして彼女たち自身が決めていた。
「展開」
凛子が両手を前に突き出す。
空気が、軋んだ。
歩道橋の南、国道の上空十五メートルに、一枚の壁が出現した。透明で、しかし完全に透明ではなく、夜明け前の薄明かりを受けて、ガラスの縁のようなかすかな青緑色に光っている。厚さはわからない。幅は、国道に沿って八百メートル。高さは六十メートル。
久我凛子の防壁は「単層絶対壁」と呼ばれていた。ただ一枚。継ぎ目も、隙間も、層もない。その一枚が、これまで十七回の実戦で、一度も破られたことがなかった。
灯は息を吸った。
「篠宮、展開します」
右手を開く。指の間に、薄い膜が生まれる。一枚、二枚、三枚。灯の防壁は凛子のそれとは正反対だった。紙のように薄い板を何十枚も重ねて、角度をずらし、衝撃を分散させる。一枚が割れても、次の一枚がある。次の一枚が割れても、その次がある。
多層展開型。灯が十四歳の時、検査官は彼女の防壁を見てこう言った。「臆病な壁だね」。それは褒め言葉ではなかった。だが灯は、その言葉を嫌いではなかった。
――一枚、二枚、三枚、四枚。
数える。凛子の壁の内側、車列の真上に、灯の防壁が鱗のように重なっていく。凛子の壁を抜けてきたものを、受け止めるための第二線。
『結晶格子、展開。北側の交差点を押さえます』
冷静な声が無線から聞こえた。真壁しずく、十九歳。中隊の頭脳で、皮肉屋で、眼鏡の奥の目はいつも少し眠たげだ。彼女の防壁は六角形の結晶を蜂の巣のように連結させたもので、面積あたりの強度は低いが、広い範囲を一度に覆うことができる。
『修復、待機します。どなたか、割れたら呼んでくださいね』
柔らかい声。綾瀬小夜、十八歳。彼女自身の防壁は小さく、弱い。だが彼女は、他人の防壁の亀裂を「縫う」ことができた。中隊で唯一の、修復型の適性者だった。
『反射膜、出力二割で待機中ー。中隊長、もうちょい上げたらあかん?』
「あかん」
凛子が関西弁で即答して、無線の向こうでひばりが「ずるいわー」と笑った。
そして、群れが来た。
最初の一体が凛子の壁にぶつかった時、灯は音を聴いた気がした。実際には何の音もしなかった。ただ、壁の表面に、白い粉のようなものが散った。禍の体が、壁に触れた瞬間に崩れたのだ。
二体目。三体目。十体目。百体目。
蛾の群れは、まるで一つの意思を持った雲のように壁に殺到した。壁の表面に、白い粉が積もっていく。雪のようだった。夜明けの薄い光の中で、何百もの翼が透明な壁に叩きつけられ、崩れ、粉になり、風に流されていく。その光景は、残酷で、そして奇妙に美しかった。
灯は、壁の向こうを見ていた。
禍は、何も考えていないように見えた。ただ温度に向かって飛んでくる。壁があれば壁にぶつかる。崩れる。次が来る。崩れる。その繰り返しに、恐れも、怒りも、意図もない。
――だから、私たちは殺さなくていい。
灯は思う。
――壁があれば、勝手に崩れていく。私たちは、ただ、ここに立っていればいい。
それが、この国が彼女たちに与えた物語だった。
『第二波、来ます』
しずくの声が、わずかに硬くなった。
トワのスケッチブックが、灯の目の前に突き出された。
――クジラ。
裂け目の奥から、それは、ゆっくりと現れた。
最初は、雲だと思った。裂け目の縁から、灰色の、ぼってりとした塊がはみ出してくる。それは膨らみ、伸び、やがて、巨大な生き物の頭部の輪郭を描いた。目はない。口もない。ただ、表面に無数の皺が刻まれた、灰色の、ゆるやかな曲面。全長は、目測で三百メートルを超えていた。
鯨型の禍。観測例は、過去に十一件。そのうち三件で、防壁が破られた。
「……おいおい」
凛子の声が、初めて揺れた。
「館山に鯨かよ。予報じゃ蛾だけだったろ」
「気象庁の裂開予報は、精度七割です」
「残りの三割が今日かよ」
鯨は、ゆっくりと降下を始めた。巨体に似合わない、静かな動きだった。まるで深海に沈んでいく難破船のように、重力に身を任せて、館山の街へ落ちてくる。
『陸自特科、射撃開始まで九十秒』
司令部からの通信。木更津の前線指揮所で、一等陸佐・桐生征が声を張っている。
『八咫中隊、持たせられるか』
「持たせます」
凛子は迷わずに答えた。
「篠宮。あたしの壁の内側に、全部重ねろ。何枚いける」
「四十枚」
「六十」
「……やります」
灯は両手を開いた。補助炉が背中で唸る。肩甲骨の間が、焼けるように熱くなる。
――四十一、四十二、四十三。
数える。数えながら、重ねる。一枚の厚さは〇・三ミリ。六十枚重ねても、二センチにも満たない。それでも、角度をずらして重ねれば、衝撃は分散される。理論上は。
鯨が、凛子の壁に触れた。
今度は、本当に音がした。
空気そのものが割れるような、乾いた、巨大な音。凛子の壁が、鯨の腹を受け止めて、たわんだ。一度も破られたことのない壁が、目に見えて、内側に向かってたわんでいた。
「っ……ぐ……」
凛子が呻く。彼女の両腕が震えている。額に汗が浮かび、それが瞬く間に灰と混じって、黒い筋になって頬を流れ落ちる。
『中隊長っ、壁の右端、亀裂!』
しずくが叫ぶ。
『縫います!』
小夜の声。凛子の壁の右端、亀裂の走った部分に、細い光の糸が絡みつく。小夜の修復は、針と糸で布を縫うのに似ていた。亀裂の両側に光の糸を通し、引き絞り、閉じる。
だが、鯨の重さは、修復の速度を上回っていた。
亀裂が、広がる。
『特科、射撃開始まで六十秒』
「篠宮っ」
「五十八、五十九、六十……展開完了!」
灯の六十枚が、凛子の壁の内側に、鱗のように重なった。
その瞬間、凛子の壁が、割れた。
ガラスが砕けるような音ではなかった。もっと静かな、薄い氷を踏み抜いた時のような、ぱしり、という音。一度も破られたことのなかった壁の右端に、穴が開いた。幅、二十メートル。鯨の腹の一部が、その穴から垂れ下がるように、こちら側に入り込んでくる。
そして、灯の壁に触れた。
――一枚目、割れた。二枚目、割れた。三枚目。
数える。割れていく枚数を、数える。その数が増えていくたびに、灯の両腕に、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走る。防壁は、展開者の神経と繋がっている。壁が割れれば、展開者の神経も、少しずつ、焼ける。
――十一枚目。十二枚目。
『特科、射撃開始まで三十秒』
――十九、二十、二十一。
灯の視界が、白く霞み始める。補助炉の警告音が、背中で鳴り響いている。出力限界。出力限界。出力限界。
――二十九、三十。
あと三十枚。あと三十秒。
その時、無線から、場違いに明るい声が聞こえた。
『なあなあ、灯ちゃん。それ、ちょっと借りてええ?』
「……ひばり?」
『中隊長には内緒な』
郵便局の屋上から、光が走った。
早乙女ひばりの防壁は「反射膜」と呼ばれていた。他の誰とも違う、鏡のような、銀色に光る膜。受け止めるのではなく、跳ね返す。それは、法的には微妙な能力だった。跳ね返された衝撃が、禍に損傷を与えることがあるからだ。措置法第九条の「攻撃の用に供してはならない」に抵触する可能性がある、と国会で議論されたこともある。結論は、「反射は防護の副次的効果であり、攻撃には当たらない」。灰色の判断だった。
ひばりの銀色の膜が、灯の壁のさらに内側、鯨の腹が入り込んできた場所の真下に、斜めに広がった。
鯨の腹が、灯の壁を突き破り、ひばりの膜に触れた。
そして、跳ね返った。
三百メートルの巨体が、わずかに、ほんのわずかに、上空へ押し戻された。凛子の壁の穴から、鯨の腹が引き抜かれる。
『特科、射撃開始。弾着まで十秒!』
富津の演習場から放たれた誘導弾が、白い煙の尾を引いて、夜明けの空を横切っていく。
灯は、それを見ていた。数えることも忘れて、ただ見ていた。
誘導弾は鯨の側面に吸い込まれ、そして、炸裂した。橙色の炎が、灰色の巨体を内側から照らし出す。鯨は、悲鳴を上げなかった。ただ、静かに、ゆっくりと、崩れていった。巨大な体が、灰になり、粉になり、風に流されて、東の空へ、昇り始めた太陽のほうへ、散っていった。
裂け目が、閉じていく。
灰が、止んだ。
国道一二八号線の車列が、ようやく、北へ動き始めた。
灯は、歩道橋の欄干に手をついて、膝から崩れ落ちた。両腕の感覚がない。指先が、白く変色している。軽度の「魔素焼け」だ。三日もすれば治る、と医官は言うだろう。
「……ひばり」
凛子が無線に向かって言った。その声は、怒っているようで、そうでもなかった。
「出力、何割で展開した」
『えーと……十割?』
「二割で待機って言ったよな」
『言いはりました』
「炉は」
沈黙。
『……なんか、焦げ臭いです』
灯は顔を上げた。郵便局の屋上に、細い黒煙が一本、立ち上っているのが見えた。
ひばりの補助炉が、燃えていた。
「ひばり、すぐに炉を外せ! 背中から下ろせ!」
『わかってる、わかってるって! あっつ、なにこれ、留め具が溶けて――』
小夜が走り出していた。歩道橋の階段を三段飛ばしで駆け下り、国道を横切り、郵便局の非常階段へ。灯も立ち上がろうとして、足に力が入らずにまた座り込んだ。
しずくが、無線の向こうで、低く呟くのが聞こえた。
『……規格上、あの型の補助炉は出力十割で三十分は耐えるはずです。三十秒で発火するなんて、ありえない』
凛子は何も言わなかった。
ただ、新しいシガレットチョコを一本取り出して、咥えた。それから、ずいぶん長い間、東の空を見ていた。
太陽が、昇っていた。灰の残滓が朝日を受けて、金色に光りながら、海の上を漂っていた。
ひばりは、背中に二度の火傷を負った。命に別状はなかった。
燃えた補助炉は、その日の午後、防衛装備庁の職員が回収していった。灯たちが事故報告書を提出したのは、その翌日だった。
報告書は、三週間後、「機体の個体差による偶発的な不具合」という一行の結論とともに、差し戻されてきた。
その三週間の間に、同じ型の補助炉を背負った別の中隊の適性者が、一人、死んだ。
それが、すべての始まりだった。
――あとになって振り返れば、灯は、そう思う。
けれど、あの朝、館山の歩道橋の上で、金色の灰を見上げていた十七歳の彼女は、まだ何も知らなかった。
自分たちの盾が、いつか、誰に向けられることになるのかを。




