第十二章 黎明
市ヶ谷の防衛省、地下三階。中央指揮所。
五月二十日、午後十一時五十三分。神鳴が止まった、一分後。
御厨恭介は、指揮所の中央の、大型モニターの前に、立っていた。
モニターには、東京湾の、天蓋の基幹塔が、映し出されていた。塔の頂上の光は、消えていた。出力表示は、ゼロ。炉心の稼働数を示す数字が、赤く、点滅していた。
――一〇四。
「……何が、起きた」
御厨の声は、まだ、落ち着いていた。
「塔の内部で、何者かが、炉心と変換炉の接続を、遮断しました」
オペレーターの一人が、震える声で、答えた。二十代の、若い技官だった。
「遮断? 物理的に、か」
「いえ。魔素による、遮断です。単層の、極めて強固な防壁が、炉心系統の、全域に」
「再起動しろ」
「できません。防壁が、解除されない限り」
「では、塔に、部隊を送れ。防壁を張った適性者を、排除しろ」
技官は、答えなかった。
御厨は、技官を、見た。
「聞こえなかったのか」
「……大臣」
技官は、椅子から、立ち上がった。
「神鳴の発動前に、塔の炉心は、百四十二体でした。今は、百四体です。三十八体が、焼き切れました。……三十八人が、死にました」
「炉心は、補充できる」
御厨は、事も無げに、言った。
「白樺園には、まだ、四十二体の候補がいる。反乱を鎮圧すれば、反乱に加わった適性者も、炉心として」
「大臣」
指揮所の、入り口から、声がした。
低く、掠れた、男の声。
御厨は、振り返った。
入り口に、男が、立っていた。陸上自衛隊の、迷彩の作業服。階級章は、外されていた。顔には、何日も剃っていない無精髭。目の下に、深い隈。
その後ろに、腕章をつけた、警務隊の隊員が、六人。
「桐生、一佐」
御厨の声が、初めて、揺れた。
「君は、警務隊に、拘束されているはずでは」
「ええ。拘束されていました。昨日の朝から」
桐生征は、指揮所の中に、一歩、踏み込んだ。
「留置場の、テレビで、配信を、見ていました。警務隊の連中と、一緒に。……篠宮が、刃を受け流したところも。綾瀬の娘が、総理のために、門を開けたところも。早乙女が、神鳴を、裂け目に、跳ね返したところも」
桐生は、警務隊の隊員たちを、振り返った。
「こいつらは、全員、自分の判断で、俺を、留置場から、出しました。俺は、何も、命令していません。俺には、もう、命令する権限は、ありませんから」
警務隊の隊長が、一歩、前に出た。三十代の、三等陸佐。
「防衛大臣、御厨恭介。自衛隊法、および、刑法に基づき、あなたに、任意同行を、求めます」
「何の、容疑で」
「殺人、です」
警務隊長は、言った。
「本日、午後十一時三十六分から五十二分までの間に、天蓋基幹塔の炉心、三十八名を、死亡させた容疑。……それから、魔素適性者特別措置法第二十四条違反。補助炉の調達に関する、背任。収賄。その他、多数」
御厨は、笑った。
いつもの、穏やかで、自信に満ちた、少しだけ悲しげな、テレビ映えする笑顔だった。
「君たちは、自分が何をしているのか、わかっているのか。私は、国務大臣だ。憲法第七十五条。国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない」
「その、総理大臣の同意なら」
桐生が、言った。
ポケットから、携帯端末を、取り出した。画面を、御厨に向けた。
画面には、ひばりの配信が、映っていた。
首相官邸の、執務室。木目の大きな机の前に、鷹野隆道が、座っていた。ネクタイを、きちんと締め直していた。白髪を、撫でつけていた。
『――内閣総理大臣、鷹野隆道は、憲法第七十五条に基づき、防衛大臣・御厨恭介の訴追に、同意します』
鷹野は、カメラを、まっすぐに見ていた。手元に、原稿は、なかった。
『あわせて、本日付で、御厨恭介を、防衛大臣の職から、罷免します。……これは、私が、自分の言葉で、決めたことです』
御厨の笑顔が、凍りついた。
*
御厨恭介が、警務隊に連行されていく時、指揮所の誰も、彼を、見送らなかった。
ただ、一人だけ。
さっきの、若い技官が、御厨の背中に、言った。
「大臣。私は、先月まで、白樺園の担当でした。炉心の、一人ひとりの、脳波を、毎日、記録していました」
御厨は、足を止めなかった。
「脳波は、睡眠時のパターンでは、ありませんでした。……ずっと、悪夢を見ている時の、パターンでした。三年間、ずっと。報告書に、そう書いて、何度も、上げました」
技官の声が、震えた。
「誰も、読んでくれませんでした」
*
五月二十一日、午前四時。
籠目の中の、首相官邸の、記者会見室。
青いカーテンの前に、綾瀬宗一郎が、立っていた。
カメラは、一台だけだった。ひばりの、配信用のドローン。
綾瀬は、原稿を、持っていなかった。
その隣に、小夜が、立っていた。
「……内閣官房副長官、綾瀬宗一郎です」
綾瀬の声は、かすれていた。品のいい、よく通る、人前で話すことに慣れきった声は、もう、どこにもなかった。
「これから、私が、知っていたことと、したことを、お話しします」
*
綾瀬の証言は、二時間に及んだ。
天蓋計画の、立案。白樺園の設立。炉心化処置の、承認。筆跡模写書簡の、導入。ヤシマ重工との、関係。補助炉の、調達。差額の、行方。政治資金団体を経由して、御厨と、綾瀬と、与党の幹部数名の、関連団体へ。三十二億八千万円のうち、二十一億円。
綾瀬は、一つ一つ、具体的な日付と、金額と、人名を、挙げていった。
途中で、何度か、言葉に詰まった。
そのたびに、小夜が、父親の手を、そっと、握った。
綾瀬は、娘の手を、握り返して、また、話し始めた。
証言の最後に、綾瀬は、カメラに向かって、深く、頭を下げた。
「……三十八人の、ご遺族に。それから、百四人の、ご家族に。それから、白樺園の、四十二人の、ご家族に。それから、葛西みのりさんの、ご家族に」
綾瀬は、頭を下げたまま、言った。
「謝罪の言葉は、ありません。どんな言葉も、足りません。私は、これから、すべての罪を、法廷で、償います」
綾瀬は、顔を上げた。
それから、隣の、娘を見た。
「小夜。……お前の母さんへの手紙、読んだ」
「はい」
「庭の楠は、今年も、新しい葉が、出ていた。出ていた、と、母さんに、伝えてくれと」
小夜の、陶器の仮面が、割れた。
小夜は、父親の胸に、顔を埋めて、泣いた。
綾瀬宗一郎は、娘の背中を、抱きしめた。
今度は、背中を、叩かなかった。
*
それから、七十二時間の、残りの時間に、起きたことを、灯は、断片的にしか、覚えていない。
灰化した両腕の痛みで、何度も、意識が、遠のいた。籠目の骨組みは、しずくと、小夜と、レイと、鴉の四人が、交代で、支えてくれた。灯は、国会議事堂の、医務室のベッドに、横たわっていた。トワが、ずっと、そばにいた。
断片。
五月二十一日、午前十時。衆議院本会議。緊急事態宣言の、国会承認案。否決。賛成十二、反対百九。
同日、午後。参議院議員が、籠目の門を、くぐり始めた。最初は、五人。夕方には、六十人。
五月二十一日、夜。籠目の外の、ろうそくの数が、百万を、超えた。
五月二十二日、午前。内閣不信任決議案、可決。鷹野内閣は、総辞職ではなく、衆議院の解散を、選んだ。総選挙の日程が、閣議決定された。四十日後。
同日、午後。白樺園に、国際的な医療チームが、到着した。結晶を埋め込まれた十一人と、塔の中の百四人の、救出方法の、検討が、始まった。
同日、夕方。氷室レイが、塔の中から、出てきた。姉の、氷室澪を、抱えて。
澪は、塔の中の、第一層、第一区画で、凛子の壁に、守られていた。結晶は、背中に、埋め込まれたまま。でも、凛子の壁が、炉心系統を遮断したことで、結晶からの魔素の抽出が、止まっていた。
レイは、姉の背中の結晶だけを、拳ほどの小さな鏡の球で、包んだ。結晶と、塔の変換炉との、目に見えない繋がりを、球の内側に閉じ込めて、断ち切った。それから、管を、一本ずつ、外していった。十四時間かかった。一人を包むのが、レイの限界だった。レイは、鼻から血を流しながら、最後の一本を、外した。
澪は、目を覚ましていた。
三年ぶりに。
塔の入り口で、澪は、妹の顔を、見上げて、言った。
「……レイ。大きくなったね」
レイは、何も言えなかった。
ただ、姉を、抱きしめていた。鏡の球ではなく、自分の、両腕で。
*
久我凛子は、塔の中から、出てこなかった。
出てこられなかった。
彼女の単層絶対壁は、塔の内部の、炉心系統の全域に、張られたままだった。その壁を解除すれば、変換炉は、再び、炉心から、魔素を、吸い上げ始める。百四人が、また、背中を焼かれ始める。
国際医療チームが、百四人の結晶を、一人ずつ、安全に取り外す方法を見つけるまで、凛子は、壁を、張り続けなければならなかった。
凛子は、塔の、第一共鳴室の、台座の前に、座っていた。両手を、台座の窪みに、置いたまま。
灯は、五月二十二日の夜、トワに支えられて、塔を、訪れた。
影のない、白い部屋。台座の前に、凛子が、いた。
凛子の髪は、真っ白に、なっていた。
「……よう、灯」
凛子は、振り返らなかった。
「中隊長」
「元、中隊長だ。もう、適性は、ほとんど、残ってねえ。この壁が、最後だ。これを解いたら、あたしは、もう、何も、張れない」
凛子は、口に、シガレットチョコを、咥えていた。
「医者の連中は、一週間で、百四人全員の結晶を、外せるって言ってる。一週間。……まあ、持つだろ。たぶん」
「中隊長」
「何だよ」
「ゆかりさんは」
凛子は、少しだけ、黙った。
「生きてる。上の、第一層、第十二区画で。……まだ、目は覚めてねえけど。結晶を外したら、たぶん、覚める。医者は、そう言ってる」
凛子は、シガレットチョコを、かりり、と噛んだ。
「さっきまで、ずっと、歌ってた。ふるさと。あいつ、三番まで、歌詞、全部、覚えてんだよな。あたしは、一番しか、知らねえのに」
灯は、凛子の隣に、座った。
白い床に。影のない光の中に。
二人は、しばらく、黙っていた。
台座の窪みの向こうから、かすかに、歌声が、聞こえていた。
――こころざしを、はたして、いつのひにか、かえらん。
「……三番、ですね」
「ああ。いつか、帰ろう、って歌だ」
凛子は、目を閉じた。
「灯。お前、明日の朝、捕まるんだろ」
「はい」
「怖いか」
「……少し」
「そうか」
凛子は、目を開けた。
それから、台座の窪みから、右手を、ほんの少しだけ、浮かせて、灯の頭に、置いた。
白く、灰化した、指先。さらさらと、粉が、こぼれた。
「怖いなら、怖いぶんだけ、重ねればいいんだよ」
灯は、凛子を見た。
「ゆかりの、受け売りだ」
凛子は、にやりと笑った。
「お前は、千枚、重ねた。だから、大丈夫だ。……明日の朝も、ちゃんと、重ねてこい」
*
五月二十三日、午前四時三十分。
籠目の、解除まで、あと、三十分。
灯は、首相官邸の正面の、六本木通りを挟んだ向かいの、歩道橋の上に、立っていた。
七十二時間前に、籠目を展開した、同じ場所に。
両腕は、肘から先が、白い包帯で、ぐるぐると、巻かれていた。それでも、籠目の骨組みは、まだ、灯の神経と、繋がっていた。
東の空が、白み始めていた。
群青色の空が、少しずつ、薄い桃色に、染まっていく。籠目の虹色の膜が、その光を受けて、淡く、輝いていた。
籠目の外側には、まだ、人々が、いた。
何十万人もの、人々が。
ろうそくは、もう、ほとんど、燃え尽きていた。代わりに、人々は、スマートフォンのライトを、掲げていた。何十万もの、小さな光が、籠目を、取り巻いていた。
灯は、数えようとした。
数えられなかった。
――それでいい。
灯は、思った。
――数えきれないくらい、たくさんの人が、ここにいる。それで、いい。
*
籠目の、正門前の門の前に、警視庁の、捜査車両が、何台も、停まっていた。
内乱罪の、容疑者を、逮捕するために。
その先頭に、一人の男が、立っていた。
警備部の、制服。巡査長の、階級章。
井上和也。七十二時間前に、官邸の正門の警備ボックスで、籠目が編み上げられるのを、見ていた男。
彼は、手に、逮捕状を、持っていた。
*
午前四時五十分。
『全員、配置についた』
インカムから、しずくの声。
『籠目、解除の、最終手順を、確認します。北から順に、結晶格子を、ほどいていく。私が、最後の一枚まで、見届けます』
『頂上、反射膜、いつでも、外せるでー』
ひばり。背中に、包帯を、何重にも巻いていた。補助炉は、神鳴を跳ね返した時に、完全に、溶け落ちた。もう、ない。それでも、ひばりは、補助炉なしで、薄い、銀色の膜を、最後まで、張り続けていた。
『縫い目、全部、ほどく準備が、できています』
小夜。父親は、昨夜、自ら、警視庁に、出頭した。
『籠目の中の人たちを、包む準備も、できています。解除の時に、何かが、落ちてこないように』
レイ。鴉の四人も、一緒だった。
そして、トワ。
トワは、灯の隣に、いた。歩道橋の上に。
『あかり』
トワが、言った。
『ごじ』
*
午前五時。
東の空から、朝日の、最初の一筋が、差し込んだ。
七十二時間前と、同じように。
「籠目」
灯は、言った。
「解除」
*
籠目は、ゆっくりと、ほどけていった。
北から。
内堀通りの上空の、結晶格子の網目が、一つ、また一つと、ほどけていく。六角形の網目が、朝日を受けて、きらきらと光りながら、ゆっくりと、空に溶けていく。
網目に重なっていた、灯の防壁の板が、一枚、また一枚と、剥がれていく。鱗が、剥がれ落ちるように。剥がれた板は、空中で、くるくると回りながら、朝の光を、反射して、まるで、無数の蝶が、飛び立つように、空に、舞い上がっていく。そして、消えていく。
小夜の金色の糸が、ほどけていく。網目と網目の継ぎ目を縫い合わせていた糸が、するすると、ほどけて、朝風の中に、たなびいていく。
頂上の、ひばりの銀色の膜が、最後に、外れた。銀色の膜は、朝日を受けて、一瞬だけ、太陽のように、まぶしく、輝いた。
それから、消えた。
*
籠目の外側の、何十万人もの人々が、それを、見ていた。
誰も、何も、言わなかった。
ただ、見上げていた。
空に溶けていく、虹色の、籠を。
朝日の中を、舞い上がっていく、無数の、透明な、鱗を。
*
午前五時十二分。
籠目は、完全に、消えた。
永田町の上空に、朝の、青い空が、戻ってきた。
灯は、歩道橋の上で、両手を、下ろした。
腕の神経から、籠目の重さが、消えていった。七十二時間、ずっと、背負い続けていた重さが。
灯は、空を、見上げた。
何も、なかった。
ただ、青い空が、どこまでも、広がっていた。
*
歩道橋の階段を、誰かが、上ってきた。
井上和也だった。
井上は、灯の前に、立った。
逮捕状を、広げた。
「篠宮灯さん。内乱罪の容疑で、逮捕状が、出ています」
「はい」
灯は、両手を、差し出した。
包帯の巻かれた、白い両手を。
井上は、手錠を、取り出した。
それから、その手錠を、しばらく、見つめていた。
「……篠宮さん」
「はい」
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「どうして、あんなに、きれいだったんですか」
灯は、少しだけ、考えた。
それから、答えた。
「わかりません。……でも、たぶん、誰も、傷つけなかったから」
井上は、何も言わなかった。
手錠を、ポケットに、しまった。
「腕を、怪我していますね。手錠は、やめておきます。……ついてきて、ください」
*
灯は、歩道橋を、降りた。
六本木通りに、人々が、いた。何十万人もの、人々が。
その人々が、灯のために、道を、開けた。
誰も、何も、言わなかった。
ただ、一人、また一人と、頭を、下げていった。
灯は、その間を、歩いていった。
数えながら。
一歩。二歩。三歩。
捜査車両の、後部座席に、乗り込む直前に、灯は、振り返った。
永田町の、朝の空を。
国会議事堂の、中央塔の屋上に、トワが、立っていた。スケッチブックを、高く、掲げていた。
そこには、大きな字で、こう書かれていた。
――おかえり、あかり。
灯は、笑った。
それから、車に、乗り込んだ。
ドアが、閉まった。
車が、走り出した。
窓の外を、朝の東京が、流れていった。
空は、青く、晴れていた。
黎明だった。




