第十一章 神鳴
五月二十日、午後十一時八分。
裂け目は、天蓋の基幹塔の真上、高度四千メートルに、開いた。
これまでのどの裂け目とも、違っていた。縦でも、横でもなかった。塔の頂上を中心にして、放射状に、何本もの白い線が、夜空に走った。蜘蛛の巣のように。あるいは、氷の張った湖面に石を投げつけた時の、ひび割れのように。そのひび割れの一本一本が、ゆっくりと、口を開けていく。
空が、割れていた。
東京湾の上空、半径十キロにわたって、夜空そのものが、粉々に砕けようとしていた。
灰が、降り始めた。
ひび割れの全部から、一斉に。
『……かぞえられない』
国会議事堂の中央塔の屋上で、トワが、呟いた。
『ぜんぶ。ぜんぶ、くる』
*
最初の群れは、塔に、向かった。
天蓋の基幹塔は、裂け目の、真下にあった。白い塔の外壁に、黒い蛾の群れが、雪崩のように、降り注いだ。塔の頂上から、天蓋の膜が、展開された。首都を覆う、巨大な、虹色の、シャボン玉のような膜。三日前と、同じように。
膜に、群れが、叩きつけられた。
灯の頭の中で、百四十二人の悲鳴が、跳ね上がった。
――いたいいたいいたいいたいいたい。
灯は、籠目の骨組みを維持したまま、膝をついた。腕の神経が、悲鳴に、共鳴していた。
――耐えて。お願い。もう少しだけ。
天蓋の膜は、持ちこたえていた。
だが、群れは、天蓋の膜だけでは、止まらなかった。
裂け目は、塔の真上だけではなかった。放射状に広がったひび割れの、外側の端は、天蓋の膜の、さらに外側にまで、達していた。千葉の湾岸。川崎の工業地帯。横浜の港。
天蓋の外側に、灰が、降っていた。
『――こちら、玉依』
インカムに、聞き覚えのある声が、割り込んできた。
霧島沙耶。
『十二時間、経ったわ。補助炉の点検、終わった。……全部、旧型に、積み替えた』
「霧島さん」
『篠宮さん。あなたたちは、この十八時間、誰も、傷つけなかった。配信、全部、見てたわ。刃を、受け流したところも。鴉の子たちを、空気の通る檻に入れたところも』
霧島の声に、風の音が、混じっていた。
『だから、来た。十四歳の子たちも、連れてきた。あの子たちが、自分で、行くって、言ったの。……玉依、川崎の湾岸を、守る。そっちは、籠目を、守りなさい』
*
『こちら、第一空挺団、坂上』
別の声が、割り込んできた。低い、男の声。
『籠目の外の、内堀通りの部隊は、全員、湾岸に、転進する。避難誘導と、対空戦闘を、行う。……我々の任務は、国民の生命と財産を、守ることだ。それ以外の命令は、受けていない。少なくとも、今夜は』
灯は、内堀通りの方角を、見た。
装甲車の列が、籠目に背を向けて、湾岸の方角へ、走り出していた。
*
『こちら、天鈿女。東雲』
三つ目の声。
『今、信州大の、ドクターヘリの、二号機に乗ってる。霧ヶ峰から、東京まで、あと、二十分。……それから、篠宮』
東雲の声が、少しだけ、震えた。
『久我さんが、起きた』
灯は、息を止めた。
『起きて、最初に、何て言ったと思う。「灯は、どこだ」って。それから、「シガレットチョコ、ないか」って』
灯は、笑った。
笑いながら、泣いていた。
『今、隣に、乗ってる。替わる』
ノイズ。
それから。
『……よう、灯』
かすれた、低い声。
凛子の、声だった。
「中隊長」
『迎えに来るって、言ってたよな。お前』
「……はい」
『遅えよ。待ちくたびれて、こっちから、来ちまった』
「すみません」
『謝るな。……配信、ヘリの中で、東雲に、見せてもらった。全部』
凛子は、少しだけ、黙った。
『よくやった』
その一言で、灯の目から、涙が、止まらなくなった。
『泣くのは、後にしろ。今、塔が、どうなってる』
*
午後十一時三十一分。
テレビの画面に、御厨恭介の顔が、映った。
市ヶ谷の、防衛省の、地下の指揮所。背後に、何十もの、モニター。
『国民の皆さん』
御厨の声は、いつものように、深く、落ち着いていた。
『今、首都に、史上最大の裂け目が、開いています。天蓋は、懸命に、首都を守っています。しかし、天蓋の出力は、限界に近づいています』
御厨は、カメラを、まっすぐに見た。
『その原因は、永田町を占拠している、反乱軍です。彼女たちは、白樺園を襲撃し、天蓋の炉心の供給を、断ちました。彼女たちの防壁が、天蓋の膜と、干渉し、出力を、低下させています』
嘘だった。
籠目と天蓋は、干渉していない。しずくが、昼の間に、何度も、確認していた。
『私は、防衛大臣として、決断しました。天蓋の、緊急機能を、使用します。反乱軍の防壁を、排除し、天蓋の全出力を、首都の防衛に、集中させます』
御厨は、一瞬、目を伏せた。
『反乱軍の少女たちに、最後の警告をします。ただちに、防壁を解除し、投降しなさい。五分後に、緊急機能を、発動します』
*
「……嘘つき」
ひばりが、籠目の頂上で、呟いた。
『神鳴を撃ったら、炉心は、全部、焼き切れる。天蓋の膜も、消える。首都は、丸裸になる』
しずくの声。
『あの人は、それを、わかっていて、撃とうとしている』
「どうして」
『たぶん、私たちに、全部の責任を、押しつけるためです。私たちが、投降しなかったから、神鳴を撃つしかなかった。神鳴を撃ったから、天蓋が消えた。天蓋が消えたから、首都に、禍が降った。……全部、反乱軍のせい』
灯は、目を閉じた。
――籠目を、解除すれば。
神鳴は、撃たれない。百四十二人は、焼き切れない。天蓋は、残る。
でも、籠目を解除すれば、中にいる国会議員たちは、外に出される。臨時会は、開かれない。御厨は、国会議員たちを、反乱軍の協力者として、拘束する。台帳も、録音も、すべて、でっち上げにされる。白樺園は、また、閉ざされる。
そして、百四十二人は、明日からも、背中を焼かれ続ける。
――どっちも、間違ってる。
――だったら、私は。
「解除しない」
灯は、目を開けた。
「籠目は、解除しない。神鳴を、受け止める」
『篠宮さん!』
しずくが、叫んだ。
『神鳴は、どんな防壁も貫けるって、綾瀬さんのお父様が』
「理論上は、って言ってた」
灯は、立ち上がった。
「理論上は、ね。……しずく、私の壁は、何?」
『……多層展開型』
「そう。臆病な壁。一枚一枚は、弱い。でも、何枚でも、重ねられる。角度をずらして、受け流せる」
灯は、両手を、開いた。
「受け止めるんじゃない。受け流す。神鳴を、どこか、誰もいないところに、逸らす」
『どこに』
その時、トワが、声を出した。
『そら』
*
『そら。さけめに、かえす』
トワは、国会議事堂の中央塔の屋上で、立ち上がっていた。スケッチブックを、放り出していた。両手を、夜空に、向けていた。
『かんなりは、みんなの、ちから。とうの、なかの、みんなの。それが、さけめに、あたったら』
トワは、灯を、見た。
『さけめが、とじる。たぶん』
灯は、トワの言葉の意味を、理解するのに、一秒かかった。
禍は、防壁に触れると、崩れる。裂け目も、魔素の歪みだと、三輪技官は、言っていた。百四十二人分の、魔素の奔流を、裂け目に、まっすぐに、ぶつけたら。
「ひばり」
『わかってる』
ひばりの声は、もう、震えていなかった。
『うちの、出番やろ』
「神鳴を、私の壁で、受け流して、ひばりの膜に、誘導する。ひばりは、それを、裂け目に、跳ね返す。……角度は」
『みぎ、じゅうにど。うえ、よんじゅうさん』
トワが、即座に、答えた。
『とうから、さけめまで、まっすぐ。あたるのは、まんなか。いちばん、ふかいところ』
「しずく。籠目の全体を、支えて。私が、神鳴の受け流しに、集中する間」
『……わかりました。全部、私が持ちます』
「小夜。縫って。割れたところを、全部」
『はい』
「氷室さん」
レイは、籠目の、南西の外壁の上に、立っていた。四人の鴉を包んだ、空気の通る鏡獄の球を、背後に、浮かべたまま。
「あなたの防壁は、包むもの。……籠目の中の人たちを、包んで。もし、私たちが、失敗したら。その時は、せめて、中の人たちだけでも」
『承知しました』
レイは、両手を、合わせた。
『でも、篠宮さん。失敗は、しないでください。私は、まだ、姉に、会っていません』
*
午後十一時三十六分。
天蓋の基幹塔の、頂上が、光った。
それまで、首都を覆っていた、虹色の膜が、一瞬で、消えた。
膜を形成していた光が、すべて、塔の頂上に、吸い込まれていった。光が、一点に、集まっていく。白く。もっと白く。目を開けていられないほど、白く。
そして。
灯の頭の中で、百四十二人の声が、一斉に、途切れた。
悲鳴ではなかった。
沈黙だった。
すべての声が、一瞬だけ、消えた。
まるで、全員が、同時に、息を呑んだように。
それから。
――あああああああああああああああああああ。
百四十二人の、絶叫。
塔の頂上から、白い光の柱が、放たれた。
夜空を、真横に、切り裂いて。
永田町へ。
籠目へ。
*
灯は、その瞬間、何も、数えていなかった。
数える余裕など、なかった。
両手を、開いた。
神鳴の、通り道に。
――重ねる。
一枚、ではなかった。十枚、でもなかった。
灯の両手から、防壁の板が、奔流のように、溢れ出した。紙のように薄い、透明な板。それが、何百枚、何千枚と、湧き出して、籠目の外壁の、南東の方角に、扇のように、広がっていった。
一枚一枚の角度を、少しずつ、変えて。
七十度。七十一度。七十二度。
階段のように。螺旋のように。
鱗のように。
――千枚。
灯は、その時、初めて、自分の防壁が、千枚を超えるのを、見た。
神鳴が、灯の千枚の、最初の一枚に、触れた。
*
音は、なかった。
あまりにも、大きすぎて、音として、聞こえなかった。
ただ、世界が、白くなった。
灯の最初の百枚が、一瞬で、蒸発した。
次の百枚も。
その次の百枚も。
灯の腕が、焼けていた。神経が、焼けていた。肩甲骨の間の補助炉が、悲鳴を上げていた。視界が、白く、霞んでいた。
――でも。
四百枚目で、神鳴の向きが、ほんの少しだけ、変わった。
五百枚目で、さらに、少しだけ。
蒸発していく板の、一枚一枚が、ほんのわずかずつ、白い光の柱を、上へ、上へと、逸らしていた。
六百枚目。七百枚目。
神鳴の光の柱が、籠目の外壁の、南東の角から、斜めに、空へと、曲がり始めた。
――あと少し。あと少し。
八百枚目で、灯の膝が、崩れた。
国会議事堂の、中央塔の屋上に、両膝をついていた。いつの間に、ここに来ていたのか、わからなかった。トワが、隣で、灯の背中を、支えていた。
――九百。
神鳴の光の柱は、籠目の頂上の方へ、向かっていた。
ひばりの、方へ。
『――きた!』
ひばりの声。
*
早乙女ひばりは、籠目の頂上の、銀色の膜の上に、立っていた。
両手を、頭上に、掲げていた。
白い光の柱が、灯の千枚の鱗に沿って、斜めに、昇ってくる。
ひばりの、真正面に。
『みぎ、じゅうにど。うえ、よんじゅうさん』
トワの声が、インカムに、響いていた。
ひばりは、銀色の膜を、傾けた。
右に、十二度。
上に、四十三度。
『……みのりさん』
ひばりは、呟いた。
『クッキーのレシピ、もう、聞かれへんけど。……代わりに、これ、見てて』
神鳴が、ひばりの膜に、触れた。
ひばりの補助炉が、一瞬で、燃え上がった。
ひばりは、悲鳴を、上げなかった。
『――反射膜、出力』
ひばりは、叫んだ。
『二十割ぃっ!』
*
白い光の柱が、跳ね返った。
ひばりの、銀色の膜から。
まっすぐに。
右に十二度。上に四十三度。
東京湾の上空。放射状に広がった、裂け目の、中心。
いちばん、深いところへ。
*
灯は、それを、見ていた。
国会議事堂の、中央塔の屋上で。トワに、支えられて。
白い光が、夜空を、昇っていった。
裂け目の中心に、吸い込まれていった。
そして。
裂け目が、光った。
放射状に広がった、何十本ものひび割れの、すべてが、内側から、白く、輝いた。まるで、割れたガラスの継ぎ目に、溶けた金を、流し込んだように。
ひび割れが、閉じていく。
中心から。外側へ。
ゆっくりと。
灰が、止んだ。
*
だが、神鳴は、止まらなかった。
天蓋の基幹塔の頂上から、白い光の柱は、まだ、放たれ続けていた。灯の千枚の鱗に沿って、ひばりの膜で跳ね返されて、閉じかけた裂け目の中へ、注ぎ込まれ続けていた。
灯の頭の中で、百四十二人の絶叫が、少しずつ、小さくなっていった。
――ああああ。
――あああ。
――あ。
一つ、また一つと。
声が、消えていく。
「……止めなきゃ」
灯は、呟いた。
「止めなきゃ。みんな、焼き切れる」
『止まらへん!』
ひばりが、叫んでいた。
『うちの膜、もう、もたへん! 炉が、燃えてる! 小夜ちゃん!』
『縫ってます! 縫ってますけど、炉が、溶けて』
『御厨のところの、制御は』
しずくの声。
『綾瀬さんのお父様が、さっきから、防衛省に、何度も、停止を要求しています。でも、回線が、切られて』
灯は、東京湾の、白い塔を、見つめた。
塔の頂上から、光の柱が、伸び続けていた。
その中に、百四十二人が、いる。
佐伯ゆかりが。氷室澪が。葛西みのりが。
その声が、一つ、また一つと、消えていく。
「……誰か」
灯は、呟いた。
「誰か、塔に」
『――あたしが、行く』
*
声は、空から、聞こえた。
灯は、顔を上げた。
籠目の外側の、夜空に、赤と白に塗り分けられた、ヘリコプターが、一機、飛んでいた。信州大学の、ドクターヘリ。
その、開け放たれた側面の扉から、一人の女性が、身を乗り出していた。
水色の、病院の検査着。その上に、紺色の、八咫中隊の制服の上着を、羽織っていた。
短い黒髪が、ローターの風に、乱れていた。
口に、何かを、咥えていた。
細い、棒。
『シガレットチョコ、東雲の売店で、買ってもらった』
久我凛子は、言った。
『灯。あたしの壁、まだ、一枚くらいは、張れると思う』
「中隊長、だめです! 中隊長の灰化率じゃ、もう一度張ったら」
『わかってる』
凛子の声は、静かだった。
『たぶん、これが、最後の一枚だ。張ったら、あたしの適性は、もう、戻らない。……それでいい。ちょうど、二十二歳になったところだしな』
「中隊長」
『灯。お前、言ったよな。ゆかりに、抜いたって、自分で言えって』
凛子は、笑った。
『言いに行ってくる』
*
ドクターヘリは、東京湾の上空を、白い塔に向かって、飛んでいった。
神鳴の光の柱の、すぐ脇を。
灯は、トワの手を、握りしめていた。
『塔の入り口は、根元に、一つだけ』
インカムに、レイの声が、割り込んできた。
『久我さん。私も、行きます。塔の扉は、鋼鉄です。私の鏡獄なら、扉ごと、包んで、ねじ切れます』
レイは、籠目の外壁から、跳んでいた。空中に、防壁の足場を、次々と、出現させながら。東京湾の上を、塔に向かって。
『籠目の中の人は』
『鴉の子たちの、檻を、解きました』
レイは、言った。
『あの子たちに、籠目の中を、包むよう、頼みました。……四人とも、引き受けてくれました。監視役の子も』
*
午後十一時五十二分。
天蓋の基幹塔の、根元。
鋼鉄の扉が、鏡の球に包まれて、ねじ切れた。
凛子は、塔の中に、駆け込んだ。
レイが、その後に、続いた。
影のない、白い光の廊下。第一共鳴室。
部屋の中央の、白い台座。手形のような、五つの窪み。
台座が、白熱していた。
部屋全体が、震えていた。天井から、白い粉が、降っていた。灰だった。
「……熱っ」
凛子は、台座に、手を伸ばした。
レイが、凛子の手首を、つかんだ。
「久我さん。この台座に、手を置いたら、あなたの魔素も、神鳴に、吸い込まれます」
「わかってる」
「では、どうやって」
「吸い込まれる、んじゃない」
凛子は、レイの手を、そっと、外した。
「割り込むんだよ」
凛子は、台座の、窪みに、両手を、置いた。
*
灯の頭の中に、凛子の声が、流れ込んできた。
共鳴だった。
塔の中の、百四十二人と。いや、もう、百四十二人では、なかった。声は、半分以下に、減っていた。
その全員に、向かって。
凛子は、言った。
――よう。みんな。待たせたな。
――あたしは、久我凛子。八咫中隊の、元中隊長だ。
――今から、一枚、壁を張る。お前らと、あのでかい光の、間に。
――あたしの壁は、一枚だけだ。継ぎ目も、隙間も、層もない。その代わり、絶対に、割れない。
――だから、もういい。もう、守らなくていい。
――今夜は、あたしが、お前らを、守る。
――休め。
そして、凛子は、展開した。
*
単層絶対壁。
ただ、一枚。
塔の内側の、魔素の流れの、真ん中に。
炉心と、変換炉の、間に。
百四十二人の少女たちと、その少女たちから、すべてを絞り取ろうとしていた、巨大な機械の、間に。
一枚の、壁が、立ち上がった。
青緑色に、燃えるように、光っていた。
*
神鳴が、止まった。
東京湾の上空で、白い光の柱が、ふっと、消えた。
まるで、ろうそくの炎が、吹き消されたように。
*
灯の頭の中で、声が、聞こえていた。
悲鳴では、なかった。
――あ。
――あったかい。
――せなか、あつくない。
――だれ。
――りんこ?
――りんこだ。
それから。
――ふるさとの、やまに、むかいて、いうことなし。
歌声。
かすれた、小さな、でも、確かな、歌声。
――ふるさとの、やまは、ありがたきかな。
佐伯ゆかりの声に、凛子の声が、重なった。
――よう、ゆかり。六キロ、抜いたぞ。
――うそ。
――ほんとだって。灯に、聞いてみろ。
それから、別の声。低く、静かな。
――レイ。レイ、そこに、いるの。
灯は、レイの、息を呑む音を、インカム越しに、聞いた。
――おねえちゃん。
レイの声は、十歳の子供のようだった。
――おねえちゃん。おそくなって、ごめんね。
*
そして、最後に。
小さな、明るい声が、聞こえた。
――たいちょう。
東雲まひるを、呼んでいた。
――たいちょう。わたし、まもれた? だんち、まもれた?
東雲は、ドクターヘリの中で、答えた。
――守れたよ、みのり。全部、守れた。あんたの四十秒が、全部、守った。
――そっか。
――よかった。
その声は、とても、満足そうだった。
――ひばりちゃんに、クッキーのレシピ、おしえてあげて。ぶんりょう、まもれば、ぜったい、しっぱいしないから。
そして、その声は。
静かに、消えた。
*
五月二十一日、午前零時。
籠目の、国会議事堂の、本会議場で。
第二百十七回国会、臨時会が、召集された。
出席議員、衆議院、百二十三名。
議長席に座ったのは、最年長の議員だった。八十一歳の、与党の長老。彼は、籠目の門をくぐる時に、小夜に、こう言った。
「わしは、戦争を、知っとる。子供の頃に。……子供が、大人の尻拭いをする国は、もう、たくさんだ」
議長は、震える手で、木槌を、打った。
「これより、本日の会議を、開きます」
*
灯は、国会議事堂の、中央塔の屋上で、仰向けに、倒れていた。
空が、見えた。
裂け目は、閉じていた。灰の雲が、晴れていった。その向こうに、星が、見えた。
東京湾の真ん中で、天蓋の基幹塔は、もう、光っていなかった。ただの、白い、巨大な、円柱になって、夜の海に、立っていた。
灯の両腕は、肘から先が、白く、灰化していた。指先から、さらさらと、細かい粉が、こぼれていた。
トワが、灯の頭を、膝に乗せていた。
トワは、泣いていた。声を出して。子供のように。
「……トワ」
「あかり」
「何人、残った」
トワは、しゃくり上げながら、指を、折っていった。
それから、スケッチブックを、拾い上げて、震える字で、書いた。
――ひゃくよん。
百四人。
百四十二人のうち、三十八人の声が、消えた。
灯は、目を閉じた。
――数える。
三十八。
その数を、灯は、一生、忘れないだろうと、思った。
――数えられるうちは、まだ、大丈夫。
でも、今は。
今だけは、数えたくなかった。
灯は、トワの膝の上で、声を上げて、泣いた。




