第十章 鏡と格子
刃が、籠を、切り裂いていた。
午後三時三十一分。籠目の南西、溜池山王の上空。
四人の鴉が、空中に浮かぶ小さな防壁の足場の上で、交互に、右手を振り下ろしていた。そのたびに、圧縮された防壁の刃が、空気を裂く、鋭い、笛のような音を立てて、籠目の外壁に叩きつけられる。結晶格子の六角形の網目が、断ち切られる。網目に重なっていた灯の防壁の板が、何十枚も、まとめて、砕け散る。砕けた板の破片が、午後の陽光を受けて、きらきらと、雪のように、溜池の交差点に、降り注いでいた。
交差点の下では、籠目の外側に集まった群衆が、悲鳴を上げて、逃げ惑っていた。
破片は、地面に落ちる前に、消える。防壁は、展開者の意識から離れると、数秒で、霧散する。誰も、怪我はしていない。それでも、頭上から、ガラスの雨が降ってくる光景は、恐ろしかった。
『――切断、十一か所目! 小夜さん、追いつきません!』
しずくの声が、裏返っていた。
『わかってます! 縫ってます!』
小夜の金色の糸が、籠目の外壁の上を、狂ったように、走り回っていた。切られた端から、糸が絡みつき、引き絞り、閉じていく。だが、閉じた傍から、次の刃が、別の場所を切り裂く。
灯は、歩道橋の上で、歯を食いしばっていた。
腕が、焼けていた。籠目の骨組みの、自分の防壁が割れるたびに、神経に、焼けた針を刺されるような痛みが走る。もう、何枚割れたのか、数えていなかった。数えられなかった。
――このままでは、持たない。
ひばりの反射膜なら、刃を、跳ね返せる。
でも、跳ね返された刃は、鴉に、当たる。
――誰も、傷つけない。
「ひばり。反射膜、使っちゃだめ」
『わかってる! わかってるけど、ほな、どうすんの!』
灯は、目を閉じた。
刃が、籠目に当たる感覚を、腕の神経で、感じ取った。
刃は、まっすぐに、来る。籠目の外壁に、垂直に、叩きつけられる。だから、切れる。
――垂直に、当たるから。
灯は、目を開けた。
「しずく。溜池の上の、結晶格子の網目を、少しだけ、開けて」
『開ける?』
「網目の隙間に、私の板を、差し込む。角度を、変える」
灯は、両手の指を、動かした。
溜池の上空の、籠目の外壁。そこに重なっている自分の防壁の板を、一枚一枚、角度を、変えていく。垂直だった板を、斜めに。四十五度。六十度。七十度。
鱗のように。
魚の鱗が、水の流れを、後ろへ、受け流すように。
次の刃が、来た。
刃は、斜めになった板の表面に、当たった。
そして、滑った。
刃は、板の表面を、斜めに滑って、籠目の外壁に沿って、上へ、逸れていった。何も、切らずに。誰にも、当たらずに。空へ、抜けていった。刃は、空中で、展開者の意識から離れて、霧散した。
『……滑った』
しずくが、呆然と、呟いた。
『刃が、滑りました』
「傾斜装甲」
灯は、言った。
「戦車の装甲と、同じ。正面から受け止めるんじゃなくて、角度をつけて、受け流す。……ゆかりさんに、教わったの。臆病な壁は、逃げるのが上手なんだよ、って」
二撃目も、滑った。三撃目も。
四人の鴉が、動きを、止めた。
*
午後三時四十分。
赤坂のビルの屋上から、銀色の髪の少女が、跳んだ。
氷室レイは、足元に、小さな防壁の足場を、次々と出現させながら、空中を、渡ってきた。四人の鴉の、頭上を、越えた。籠目の外壁の、すぐ外側を、滑るように、移動していく。
灯の、真正面に、向かって。
灯は、歩道橋の上で、身構えた。
レイは、歩道橋の、十メートル手前で、止まった。空中に浮かんだ、小さな防壁の足場の上に、立っていた。籠目の外壁を、一枚、挟んで。
灰色の瞳が、灯を見ていた。
その頬に、涙の跡が、乾いていた。
レイは、両手を、胸の前で、合わせた。
祈るように。
灯は、反射的に、身構えた。
鏡の球が、出現した。
*
今度の球は、小さかった。
直径、三メートル。籠目の外壁を、またぐように。外壁の、内側と、外側に、半分ずつ。
灯と、レイだけを、包んでいた。
籠目の外壁は、球の中で、透明な、一枚の、薄い壁になっていた。その壁を挟んで、灯と、レイが、向かい合っていた。
無音。
外の、刃の音も、群衆の声も、ヘリコプターの轟音も、何も、聞こえない。
「……ここなら、誰にも、聞こえません」
レイが、言った。
壁越しに、声が、聞こえた。籠目の外壁は、音を、遮らない。遮るのは、禍だけ。
「篠宮さん。あなたに、言わなければならないことがあります」
「何」
「御厨大臣から、私に、別の命令が、出ています」
レイの声は、淡々としていた。でも、その指先が、震えていた。
「刃壁による籠目の破壊が、困難な場合。私は、首相官邸を、鏡獄で、包むよう、命じられています」
灯は、息を止めた。
「首相官邸を。総理と、閣僚と、官邸の職員、約四百人ごと。完全に、密閉して」
「……密閉したら」
「中の酸素は、約四時間で、なくなります」
レイは、灯の目を、まっすぐに見た。
「そして、御厨大臣は、国民に、こう発表します。『反乱を起こした適性者たちが、総理と閣僚を、防壁によって、窒息死させた』と。籠目の中で起きたことを、外から確かめる方法は、ありません。私の鏡獄は、外からは、鏡にしか、見えませんから」
灯の背中を、冷たいものが、流れた。
「そうなれば、あなたたちは、総理大臣を殺した、反乱軍になります。あなたたちの言うことを、誰も、信じなくなります。台帳も、録音も、白樺園も、全部、反乱軍の、でっち上げということになります。そして、御厨大臣は、総理の死を受けて、臨時の総理大臣代理になります。緊急事態宣言の下で、選挙もなく」
「……あなたは、それを、やるつもりなの」
レイは、答えなかった。
代わりに、制服の胸ポケットから、一枚の紙を、取り出した。
それを、籠目の外壁に、押し当てた。
灯は、壁越しに、その紙を、読んだ。
防衛省、内閣官房特殊防護班、班長、氷室レイ殿。
――貴官の実姉、氷室澪について、白樺園より、急変の報告あり。本日未明、容態悪化。面会は、当分の間、謝絶とする。
――なお、本日の反乱鎮圧任務において、貴官が顕著な功績を挙げた場合、特例として、容態の回復を待って、面会を許可する。
日付は、今日。署名は、御厨恭介。
「急変」
レイは、言った。
「台帳で、見ました。姉の項目に。『来月予定の面会については、急変による面会謝絶として処理予定』。……予定通りに、処理されたんです」
レイの声が、初めて、揺れた。
「三年間。私は、毎月、姉からの手紙を、読んでいました。きれいな字で。標準偏差、〇・二度の字で。姉の言葉だと、信じて。返事を、書いていました。毎月。三年間。三十六通」
レイの灰色の瞳から、涙が、一粒、こぼれた。
「その三十六通は、どこに、行ったんでしょうね。誰が、読んだんでしょうね」
灯は、何も言えなかった。
ただ、籠目の外壁に、手のひらを、当てた。
レイの押し当てている、紙の、ちょうど裏側に。
「氷室さん」
「はい」
「お姉さんは、塔の中にいる。第一層、第一区画。私には、塔の中の声が、聞こえる。お姉さんの声も、たぶん、聞こえる」
レイの肩が、震えた。
「……何て、言っていますか」
灯は、目を閉じた。
籠目の中にいても、遠く、東京湾の方角から、かすかに、声が、流れてくる。百四十二人の声。熱い、痛い、助けて、帰りたい。その中に。
一つだけ、違う声が、あった。
ゆかりの歌声とも、違う。低く、静かで、何かを、繰り返している声。
――レイ。レイ。だいじょうぶ。おねえちゃんが、つつんであげる。
灯は、目を開けた。
「『レイ、大丈夫。お姉ちゃんが、包んであげる』って」
レイは、紙を、取り落とした。
紙は、球の中の、無重力のような空間を、ひらひらと、舞った。
レイは、両手で、顔を覆った。
声を上げずに、泣いていた。
三年分の、涙だった。
*
球の中で、どれくらいの時間が、過ぎたのか。
灯には、わからなかった。外の音が聞こえない世界では、時間の感覚が、曖昧になる。
やがて、レイは、顔を上げた。
目が、赤かった。でも、灰色の瞳は、もう、揺れていなかった。
「篠宮さん。あの時の質問に、答えます」
「……質問?」
「私は、誰に、背中を預けるのか」
レイは、籠目の外壁に、手のひらを、当てた。
灯の手のひらの、ちょうど、反対側に。
壁越しに、二人の手が、重なった。
「姉に。そして、姉と同じ場所で、背中を焼かれている、すべての人に。……それから」
レイは、ほんの少しだけ、口の端を、持ち上げた。
灯が見た、レイの、初めての、微笑みだった。
「あなたに」
*
鏡の球が、消えた。
音が、戻ってきた。刃の風切り音。群衆の声。上空を旋回する、報道ヘリの轟音。
レイは、空中の足場の上で、振り返った。
溜池の上空で、刃壁を構えていた、四人の鴉が、レイを見ていた。
「班長。命令は」
四人のうちの一人が、言った。十六歳くらいの、少女だった。
「刃壁、中止」
レイは、言った。
「全員、展開を、解除しなさい」
「しかし、御厨大臣の命令は」
「私が、班長です」
「……班長。あなたは、反乱軍と、何を話していたんですか」
別の一人が、言った。十八歳くらい。他の三人より、少しだけ、後ろに立っていた。その右手には、まだ、刃壁が、光っていた。
監視役だ、と灯は直感した。
「それは、あなたに、関係ない」
「関係あります。私は、大臣から、班長の行動を、報告するよう、命じられています。班長が、命令に従わない場合は」
その少女は、刃壁を、構え直した。
レイに、向けて。
「班長の代わりに、私が、官邸を、包みます」
レイは、動かなかった。
ただ、両手を、胸の前で、合わせた。
「――鏡獄」
*
四つの、鏡の球が、出現した。
四人の鴉を、一人ずつ、包んでいた。
直径、二メートル。小さな球。
ただし、その球は、これまでの鏡獄とは、違っていた。
球の表面に、細い、無数の、穴が、開いていた。
灯は、目を凝らした。穴から、空気が、流れ込んでいた。光も、差し込んでいた。球の内側の少女たちの顔が、外から、うっすらと、見えた。
「空気は、通します」
レイは、言った。
「音も、少しだけ。でも、防壁は、外に、出せません。刃も、出せません。……あなたたちは、しばらく、そこで、休んでいてください」
監視役の少女が、球の内側から、何かを叫んでいた。かすかに、声が、漏れてきた。
「――裏切り者!」
「そうかもしれません」
レイは、静かに、言った。
「でも、あなたも、いつか、台帳を見てください。あなたのお母さんの、名前が、あるかもしれません。あなたの、妹さんの、名前が、あるかもしれません。……その時、あなたが、誰に背中を預けるのか。それは、あなたが、決めてください」
レイは、四つの球を、空中に浮かべたまま、籠目の外壁に、向き直った。
「篠宮さん。門を、開けてください」
「……入るの」
「はい。籠目の、内側から、守ります。刃壁の使い方は、私が、いちばん、よく知っていますから」
*
午後四時三十分。
灯は、首相官邸の中に、いた。
鷹野隆道内閣総理大臣が、灯との面会を、求めていた。
官邸の五階。総理執務室。
灯は、小夜と、しずくを、伴っていた。籠目の維持は、ひばりとトワと、新たに加わったレイに、任せていた。灯自身も、両手は空いていなかった。籠目の骨組みの防壁は、灯の神経と、繋がったまま。官邸の廊下を歩いている間も、腕の痛みは、止まなかった。
執務室は、思っていたよりも、質素だった。
木目の、大きな机。その背後の窓から、籠目の、虹色の膜越しに、夕暮れの空が見えた。壁には、歴代の総理大臣の写真が、並んでいた。机の上には、書類の山と、冷めた緑茶の湯呑みと、それから、孫らしい子供の写真が、写真立てに入って、置かれていた。
鷹野隆道は、机の向こうの椅子に、深く、沈み込むように、座っていた。
テレビで見るよりも、ずっと、老けて見えた。白髪が、乱れていた。ネクタイを、緩めていた。目の下の隈が、黒く、深かった。
「……君が、篠宮くんか」
鷹野の声は、かすれていた。
「はい」
「座りなさい」
「立ったままで、結構です」
鷹野は、少しだけ、苦笑した。
「そうか。……まあ、そうだろうな」
鷹野は、机の上の、写真立てに、目をやった。
「孫だ。今年、十四になる。先月の、適性検査で、陽性が出た」
灯は、息を呑んだ。
「来月、部隊に、入る予定だった。……どこの部隊かは、もう、わかるだろう」
「天蓋のことを、知っていたんですか」
しずくが、訊いた。声が、硬かった。
「知っていた」
鷹野は、あっさりと、言った。
「天蓋の、動力源が、何なのか。白樺園で、何が行われているのか。知っていた。五年前、天蓋計画が、閣議で決定された時に、御厨くんから、説明を受けた。『失効した適性者の、残存魔素を、有効活用する』と。『本人たちは、眠っているだけで、苦痛はない』と」
「それを、信じたんですか」
「信じたかった」
鷹野は、両手で、顔を覆った。
「三千万人の首都を、恒久的に守れる。毎年、何十人もの少女を、最前線に送り出さなくて済む。そのために、すでに能力を失った少女たちに、眠ったまま、協力してもらう。……合理的だと、思った。いや、合理的だと、思おうとした」
「補助炉のことは」
「知らなかった。……本当だ。ヤシマの件は、今朝、君たちの配信で、初めて知った」
鷹野は、顔を上げた。
「信じてもらえないだろうが」
「信じるかどうかは、私たちが決めることではありません」
しずくが、言った。
「国会と、裁判所と、国民が、決めることです」
鷹野は、しずくを、じっと見た。
「……君は、法律家に、なるべきだな」
「なる予定でした。適性が出なければ」
鷹野は、もう一度、苦笑した。それから、真顔に戻った。
「篠宮くん。私は、総理大臣として、君たちの要求の、いくつかを、呑むことができる。白樺園の炉心化処置の、停止。独立した医師団による、調査。それは、今すぐにでも、命令を出す」
「……臨時会の、召集は」
「籠目の中に、今、何人の衆議院議員がいる」
しずくが、答えた。
「百九人です。あと、八人で、総議員の四分の一に、届きます」
「届いたら、召集を、閣議決定する。籠目の中にいる閣僚は、私を含めて、九人。過半数には、足りないが、閣議は、持ち回りでもできる。……やってみよう」
灯は、鷹野を、見つめた。
「どうして」
「どうして、とは」
「どうして、私たちの要求を、呑むんですか。私たちは、反乱軍です。あなたを、閉じ込めています」
鷹野は、窓の外の、籠目を、見上げた。
夕日が、籠目の虹色の膜を、橙色に、染めていた。
「君たちは、私を、閉じ込めていない」
鷹野は、言った。
「私は、さっき、試しに、正門まで、歩いていった。そこにいた、綾瀬くんのお嬢さんが、私の体に、金色の糸を、這わせた。それから、門を、開けてくれた。『どうぞ、お出になってください、総理』と。私は、外に、出られた。出ようと思えば」
鷹野は、灯に、視線を戻した。
「でも、出なかった。出たら、御厨くんの、ところに、行くことになる。御厨くんは、私を、守ってくれるだろう。そして、私は、また、御厨くんの書いた原稿を、読むことになる」
鷹野は、机の上の、孫の写真を、手に取った。
「私は、六十八年、生きてきて、四十年、政治をやってきた。その間、ずっと、誰かの書いた原稿を、読んできた。党の長老の。官僚の。財界の。そして、御厨くんの。……一度くらい、自分の言葉で、何かを、決めてみたいと思った。孫が、炉心にされる前に」
*
執務室を出たところで、小夜は、足を止めた。
廊下の先に、一人の男が、立っていた。
銀髪を、きれいに撫でつけた、品のいい紳士。仕立てのいい、グレーのスーツ。
綾瀬宗一郎。
「……小夜」
「お父様」
小夜は、微笑んでいた。完璧な、陶器の仮面の微笑み。
灯としずくは、少し離れて、二人を見守った。
「帰ってきなさいと、言ったはずだ」
「ええ。聞きました」
「なぜ、こんなことを」
「お父様が、なさったことを、ちゃんと、見ていただきたかったからです」
綾瀬宗一郎は、娘を、見つめた。
「小夜。全部、お前たちのためだった。天蓋が完成すれば、お前たちは、もう、戦わなくて済む。最前線に立たなくて済む。普通の娘に、戻れる。学校に通って、友達と笑って」
「恋をして」
「……そうだ」
「その代わりに、ゆかりさんや、みのりさんや、澪さんに、永遠に、戦わせるのですか。眠ったまま。背中を焼かれたまま。名前も忘れたまま」
綾瀬は、答えなかった。
「お父様。私は、修復型です。割れたものを、縫うのが、私の仕事です」
小夜は、父親の前に、一歩、近づいた。
「お父様は、この国を、割りました。私は、それを、縫いたい。でも、私の糸では、縫えないものが、一つだけ、あります」
「……何だ」
「お父様の、嘘です」
小夜は、制服の胸ポケットから、封筒を、取り出した。
母への、手紙。
封は、していなかった。
「これを、お母様に。……それから、お父様。一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「ご自分の口で、話してください。ひばりさんの配信で。何を知っていて、何をしたのか。誰と、何を、決めたのか。お父様の、言葉で」
綾瀬宗一郎は、娘の差し出した封筒を、見つめていた。
長い、長い間。
それから、震える手で、封筒を、受け取った。
「……小夜。一つだけ、教えておかなければならないことがある」
「何でしょう」
「恭介は、本気だ」
綾瀬の声が、低くなった。
「天蓋には、もう一つの機能がある。『神鳴』と、呼ばれている。天蓋の膜を、防壁ではなく、一点に、収束させる。百四十二体の炉心の、全出力を、一度に、解放して。……どんな防壁も、貫ける。理論上は」
灯の、背筋が、凍った。
「それを、撃ったら、炉心は」
「全部、焼き切れる。百四十二体、すべて」
綾瀬は、目を閉じた。
「恭介は、今夜、それを、籠目に、撃つつもりだ。……私は、反対した。だから、私は、ここに、置いていかれた」
*
午後七時。
籠目の外側で、群衆が、ろうそくを、灯し始めていた。
誰が始めたのかは、わからない。籠目の周囲六キロにわたって、何万、何十万という、小さな炎が、夜の闇の中に、揺れていた。籠目の虹色の膜が、その炎を映して、まるで、ステンドグラスのように、内側から、光っていた。
午後七時四十二分。
衆議院議員、百十七人目が、籠目の、国会北門を、くぐった。
与党の、若手の議員だった。門の前で、小夜に、こう言った。
「僕は、孫の顔を見せたいんです。自分の子供に。そのために、この国が、残っていてほしい」
午後八時。
臨時会の召集が、閣議決定された。
*
午後十時。
灯は、国会議事堂の、中央塔の屋上で、トワの隣に、座っていた。
夜風が、冷たかった。籠目の膜越しに、東京の夜景が、見えた。ろうそくの炎が、籠目を、取り巻いていた。その外側に、ビルの灯りが、どこまでも、広がっていた。
そして、その向こうに。
東京湾の真ん中で、天蓋の基幹塔が、白く、光っていた。
いつもよりも、ずっと、明るく。
トワが、灯の手を、握った。
トワの手は、震えていた。
「……トワ」
トワは、スケッチブックを、開かなかった。
代わりに、口を、開いた。
「あかり」
トワの声は、かすれていた。
「とうが、ないてる。みんな、ないてる。いちばん、おおきなこえで」
トワは、空を、指さした。
「それから。そらも」
灯は、空を、見上げた。
東京湾の上空。天蓋の基幹塔の、真上。
夜の闇の中に、一本の、白い線が、走っていた。
縦に。
空と海を、貫くように。
裂け目が、開こうとしていた。
灯は、インカムに、手を当てた。
「全員に、告ぐ」
声が、震えないように、腹に、力を込めた。
「籠目、維持。それから」
灯は、東京湾の、白い塔と、白い線を、見つめた。
「迎撃準備」




