第九章 籠目
首相官邸の正門の警備ボックスに詰めていた警視庁警備部の巡査長、井上和也は、その朝のことを、後に、何度も証言することになる。
午前四時五十九分。夜勤の終わりまで、あと一時間。井上は、警備ボックスの小さな窓から、六本木通りを眺めていた。通りには、まだ、一台の車も走っていない。街灯の光が、濡れたアスファルトに、白く反射していた。昨夜の雨の名残で、空気がひんやりと湿っていた。
最初に気づいたのは、音だった。
音、と言っていいのか、わからない。耳鳴りに似ていた。耳の奥で、何か、とても細い弦が、震えているような。
井上は、窓の外を見た。
通りの向こうの、歩道橋の上に、誰かが立っていた。紺色の、詰襟の制服。小柄な、少女。
適性者だ、と井上は思った。何度か、テレビで見たことがある。
少女は、両手を、開いていた。
そして、空気が、光った。
井上は、後に、それを、こう表現した。「空に、ガラスの鱗が、一斉に生えたようだった」と。
少女の両手から、薄い、透明な、板のようなものが、次々と、湧き出していった。一枚、二枚、十枚、百枚。それぞれの板は、手のひらほどの大きさしかなく、紙のように薄い。けれど、それが、何百枚、何千枚と、重なり合い、角度をずらしながら、空に向かって、昇っていく。夜明け前の、群青色の空の中で、その板の一枚一枚が、街灯の光を受けて、かすかに、青く、光っていた。
板は、空中で、弧を描いた。
官邸の上空を、越えていった。国会議事堂の方角へ。霞が関の方角へ。
そして、別の方角からも、光が、昇ってきた。
溜池の方から、六角形の、蜂の巣のような網目が。桜田門の方から、銀色の、鏡のような膜が。虎ノ門の方から、細い、金色の、糸のような光が。
四つの光が、永田町の上空で、出会った。
組み合わさった。
編み合わされた。
井上は、警備ボックスから、外に出ていた。制帽が、頭から落ちたのにも、気づかなかった。
夜明けの空に、巨大な、透明な、籠が、編み上げられていた。
六角形の網目。その網目の一つ一つに、薄い板が、鱗のように、重なっている。網目と網目の継ぎ目を、金色の糸が、縫い合わせている。そして、籠の頂上には、銀色の膜が、王冠のように、かぶせられていた。
東の空から、朝日の、最初の一筋が、差し込んだ。
光が、籠に、当たった。
籠全体が、虹色に、燃え上がった。
井上和也は、その時、自分が泣いていることに、気づかなかった。
何年もあとになって、彼は、孫に、こう語った。
「じいちゃんはね、あの日、生まれて初めて、本当に美しいものを見たんだよ」
*
午前五時十二分。
籠目は、閉じた。
灯は、歩道橋の上で、膝をついていた。両手は、まだ、開いたまま。指先から、腕の神経を伝って、ドームの全体が、感じ取れた。六・二キロの周囲。二・四平方キロメートルの面積。その上空を覆う、何千枚もの、自分の防壁。その一枚一枚に、しずくの結晶格子が、絡み合っている。小夜の糸が、縫い合わせている。ひばりの膜が、頂上を、覆っている。
重かった。
品川で凛子が張った、六キロの壁。あれを、凛子は、一人で、三時間、支えた。灯たちは、五人で、これを、七十二時間、支えなければならない。
――数える。
灯は、息を吸った。
――七十二時間。四千三百二十分。二十五万九千二百秒。
一秒目。
『……閉じました』
インカムから、しずくの声。息が、上がっていた。
『結晶格子、全周、安定。……思ったより、重いですね』
『頂上、反射膜、張れたでー。めっちゃ、見晴らしええわ、ここ』
ひばり。籠目の頂上の、銀色の膜の、さらに上に、ひばりは立っていた。
『縫い目、全周、確認しました。門は、五か所。正門前、桜田門、溜池、虎ノ門、それから、国会の北門。今のところ、どこも、閉じています』
小夜。
そして、トワ。
『なか、ひと、さんぜんにひゃく。そと、いま、ふえてる』
*
午前五時三十分。
長野県、霧ヶ峰高原。白樺園。
『こちら、天鈿女。白樺園、保護完了』
インカムに、東雲まひるの声が、割り込んできた。
『地下七階、全区画を、隔離した。施設の職員、十八名。全員、地上の食堂に、集めた。誰も、怪我はさせていない。兵頭とかいう施設長だけ、ちょっと、暴れた。防壁で、椅子ごと、包んどいた』
「……中隊長は」
灯は、訊いた。声が、震えた。
『久我さんは、無事。処置室で、まだ、眠ってる。結晶は、埋め込まれてない。鎮静剤の点滴は、外した。信州大の先生たちが、今、診てる』
灯は、目を閉じた。
膝から、力が、抜けた。籠目が、一瞬だけ、揺らいだ。
『篠宮さん! 北側、縫い目が!』
小夜の声。
灯は、慌てて、目を開け、両手に、力を込め直した。
「ごめん。……大丈夫」
『……それから』
東雲の声が、少しだけ、低くなった。
『四十二人の、炉心候補。筒から出した。結晶を埋め込まれてない子が、三十一人。そのうち、二十七人が、目を覚ました。……四人は、まだ。先生たちが、診てる』
「残りの、十一人は」
『結晶が、埋め込まれてた。先生たちは、外せないって。外したら、神経が、全部、焼き切れるって。……今は、筒の中に、戻した。もとのまま、眠らせてる』
沈黙。
『篠宮。目を覚ました子の一人がさ』
東雲の声が、かすれた。
『私の顔を見て、言ったんだ。「ここ、どこですか。私、何か、悪いことしましたか」って』
*
午前六時。
ひばりの配信が、始まった。
画面には、籠目の頂上から見下ろした、永田町の全景が、映し出されていた。朝日を受けて、虹色に輝く、巨大な籠。その下に、国会議事堂と、首相官邸と、霞が関の官庁街が、小さく、静かに、収まっている。籠の外側には、早朝の東京の街並みが、どこまでも、広がっていた。
画面の右下に、小さく、文字が、表示されていた。
――ひばりch LIVE
視聴者数の表示が、みるみる、増えていった。
千。一万。十万。
『おはようございます。ひばりです』
画面に、ひばりの顔が、映った。紺色の制服。籠目の頂上に、立っている。背後で、朝日が、昇っていた。
『久しぶりやなあ。三年ぶり? みんな、元気やった? うちは、まあ、元気やで。いろいろ、あったけど』
ひばりは、照れたように、笑った。
『今日はな、うちの話じゃなくて、うちの、友達の話を、聞いてほしいねん。ちょっと、長くなるけど、最後まで、聞いて』
ひばりは、画面の外に、手を伸ばした。
カメラが、切り替わった。
*
灯は、首相官邸の正面の、歩道橋の上に、立っていた。
ひばりが、籠目の頂上から、もう一台の携帯端末を、ドローンで、灯のもとに、届けていた。小型の、配信用のドローン。それが、灯の目の前、一メートルの空中で、静かに、ホバリングしていた。
ドローンのカメラの、小さな、赤いランプが、点灯した。
灯は、しずくの書いた宣言文を、手に持っていた。
手が、震えていた。
――数える。
一。二。三。
灯は、顔を上げた。
「私は、篠宮灯です。十七歳です。陸上自衛隊、第一防壁群、八咫中隊の、中隊長代理です」
声は、思っていたよりも、しっかりしていた。
「これから、私たちが、なぜ、こんなことをしたのかを、お話しします」
*
宣言文は、三十分に及んだ。
灯は、しずくの書いた文章を、一言一句、正確に、読み上げた。
――私たちは、この国の盾です。今も、これからも。
――私たちは、本日午前五時、永田町および霞が関の一帯を、防壁によって包みました。中にいる人を、外に出さないためではありません。中にいる人が、外に出ることは、自由です。武器と、記録媒体を持たなければ、誰でも、いつでも、外に出ることができます。私たちが止めたいのは、人ではありません。時間です。
灯は、そこから、すべてを、話した。
ヤシマ重工の補助炉。三万円の石英と、八百万円のルチル。三十二億八千万円。葛西みのりの死。死亡処理と、炉心化処置。白樺園の地下七階。ガラスの筒の中で、膝を抱えて眠る、四十二人の少女たち。天蓋の基幹塔の中の、百四十二人。佐伯ゆかり。氷室澪。筆跡模写書簡。標準偏差、〇・二度。
しずくが、画面に、台帳のデータを、映し出した。
小夜が、父親の、四分三十二秒の録音を、流した。
――天蓋の本稼働に必要な炉心は、最低二百。現在、百四十二。残り五十八。現役の適性者の中から、灰化率の高い順に、前倒しで回収していくしかない。
トワが、塔の断面図を、画面に、映した。膝を抱えた、小さな人の形。その一つ一つに、名前。
そして、東雲まひるが、白樺園から、映像を送ってきた。地下七階。ガラスの筒。筒から出された少女たちが、毛布にくるまれて、震えている。信州大学の医師たちが、一人ひとりの脈を取っている。そのうちの一人の少女が、カメラに向かって、かすれた声で、言った。
『……お母さんに、会いたい』
*
灯は、宣言文の、最後のページを、めくった。
「私たちは、三つのことを、約束します」
灯は、ドローンのカメラを、まっすぐに見た。
「一つ。私たちは、誰も、殺しません。誰も、傷つけません。何も、壊しません。この防壁は、誰かを攻撃するためのものではありません。もし、私たちの誰かが、この約束を破ったら、私たちは、その場で、すべての防壁を、解除します」
「二つ。私たちは、権力を、取りません。私たちは、政府に、代わりません。誰かを、裁きません。誰かを、罰しません。それは、私たちの仕事ではないからです。それは、国会と、裁判所と、そして、皆さんの仕事です」
「三つ。私たちは、必ず、返します。五月二十三日、午前五時。七十二時間後に、私たちは、この防壁を、解除します。その時に、何が起きていても。どんな結果になっていても」
灯は、息を吸った。
「この七十二時間の間に、私たちが、お願いしたいことは、三つです」
「一つ。白樺園と、天蓋の基幹塔にいる、すべての適性者の、炉心化処置を、ただちに、止めてください。そして、政府とは関係のない、独立した医師たちに、彼女たちを、診てもらってください」
「二つ。私たちが、今、お見せしたものが、本当なのかどうか。皆さん自身の目で、確かめてください。私たちの言うことを、信じなくても、かまいません。でも、政府の言うことも、そのまま、信じないでください。確かめてください」
「三つ」
灯は、宣言文から、目を上げた。
ここから先は、しずくの書いた文章ではなかった。昨夜、格納庫で、五人で、話し合って、決めた言葉だった。
「国会議員の皆さん。この中に、入ってきてください」
灯は、籠目の、正門前の門を、指さした。小夜が、そこに、立っていた。
「国会は、この防壁の中にあります。皆さんの議席は、ここにあります。政府は、緊急事態宣言を出し、選挙を延期し、報道を止めました。それが、正しいのか、間違っているのか。決めるのは、私たちではありません。皆さんです。皆さんは、国民に選ばれた人たちです。国民の代わりに、決めてください」
「憲法第五十三条。いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、臨時会の召集を決定しなければならない」
灯は、しずくに教わった条文を、暗唱した。
「どうか、ここに来て、それを、要求してください。私たちは、皆さんを、守ります。外から、誰にも、邪魔させません」
灯は、深く、頭を下げた。
「私たちは、盾です。剣では、ありません。……どうか、鎖の端を、もう一度、握ってください。正しい人の手で」
*
配信の視聴者数は、午前七時の時点で、二千三百万を超えていた。
政府は、午前六時四十分に、国内の通信事業者に対して、ひばりの配信サイトへのアクセスを遮断するよう、緊急政令に基づく命令を出した。
午前六時四十二分、配信は、別のサーバーに移った。
午前六時五十一分、また、別のサーバーに。
午前七時三分、また、別の。
ひばりの、三年前のファンたちが、世界中で、ミラーサイトを立ち上げ続けていた。台湾から。韓国から。アメリカから。ドイツから。ブラジルから。「#ひばりch」「#籠目」「#私たちは盾です」。ハッシュタグが、世界中のSNSのトレンドの、一位から五位までを、埋め尽くしていた。
*
午前八時。
籠目の外側に、人が、集まり始めていた。
最初は、数十人だった。近所に住む人たち。早朝のジョギング中だった人たち。出勤途中の会社員たち。彼らは、虹色に輝く巨大な籠を、遠巻きに、スマートフォンで撮影していた。
午前九時には、数千人になっていた。
午前十時には、数万人。
灯は、歩道橋の上から、その群衆を、見ていた。
六本木通りを、人が、埋め尽くしていた。歩道にも、車道にも。ビルの窓からも、人が、身を乗り出していた。
群衆は、一様ではなかった。
「出てこい、反乱軍!」
誰かが、叫んでいた。中年の男。顔を真っ赤にして、拳を振り上げていた。
「子供のくせに、国を乗っ取る気か! 恥を知れ!」
「天蓋を止めたら、また禍が来るんだぞ! 俺たちを、殺す気か!」
別の誰かが、叫び返していた。
「黙れ! 子供を燃料にしてる政府のほうが、よっぽど、恥知らずだろうが!」
「うちの娘も、適性者なのよ! 白樺園に、入れられるところだったのよ!」
怒号と、怒号が、ぶつかり合っていた。警視庁の機動隊が、群衆の間に、盾を並べて、割って入ろうとしていた。
灯は、拳を、握りしめた。
――誰も、傷つけない。
――でも、私たちが、ここにいることで、外の人たちが、傷つけ合うかもしれない。
その時、群衆の中から、一つの声が、聞こえた。
「ありがとう!」
灯は、声の方を見た。
群衆の、最前列。籠目の、すぐ外側。一人の、小さな女の子が、両手で、段ボールの切れ端を、掲げていた。マジックで、大きな、拙い字が、書かれていた。
――しながわで まもってくれて ありがとう
女の子の隣に、母親らしい女性が、立っていた。女性は、赤ん坊を、抱いていた。
二日前。京浜運河。凛子の六キロの壁の内側を、走って逃げていった、何千人もの人たち。
その中に、この親子も、いたのだ。
灯は、女の子に、小さく、手を振った。
女の子は、段ボールを、さらに高く、掲げた。
その周りの人たちが、一人、また一人と、何かを、掲げ始めた。スマートフォンの、ライト。ハンカチ。手のひら。
怒号が、少しずつ、静まっていった。
*
午前十時三十分。
籠目の、正門前の門が、初めて、開いた。
小夜が、両手を、門の縫い目に、かざした。金色の糸が、ほどけていく。防壁の板が、一枚、また一枚と、横にずれて、人一人が、通れるだけの隙間ができた。
その隙間の前に、一人の女性が、立っていた。
秋津千景。
白髪交じりの短い髪。地味な紺色のスーツ。化粧気のない顔。手には、何も、持っていなかった。
「入っても、いいかしら」
秋津は、小夜に、言った。
「どうぞ」
小夜は、金色の糸を、秋津の体に、そっと、触れさせた。糸が、秋津のスーツの上を、するすると、滑っていく。
「……何も、お持ちではありませんね」
「家宅捜索で、全部、持っていかれたわ。携帯も、パソコンも、手帳も」
秋津は、苦笑した。
「議員バッジだけは、返してもらった」
秋津は、籠目の中に、一歩、踏み込んだ。
それから、振り返って、籠目の外の、群衆を見た。何万人もの、人々の顔を。
「……衆議院議員、秋津千景。憲法第五十三条に基づき、臨時会の召集を、要求します」
秋津の声は、拡声器も使っていないのに、不思議と、遠くまで、響いた。
「私は、一人目です。衆議院の総議員の四分の一は、百十七人。あと、百十六人」
*
正午までに、四十三人の衆議院議員が、籠目の門を、くぐった。
野党の議員が、三十一人。与党の議員が、十二人。
与党の議員の一人は、門の前で、小夜に、こう言った。
「私は、君たちのやっていることを、支持しない。これは、クーデターだ。だが、白樺園の映像が、本物なら。私は、それを、自分の目で、確かめる義務がある。議員として」
小夜は、微笑んで、門を開けた。
*
正午。
市ヶ谷、防衛省。
防衛大臣・御厨恭介は、籠目の外にいた。
籠目が展開された時、彼は、市ヶ谷の大臣室で、夜を明かしていた。天蓋起動の事後処理と、緊急事態宣言の準備のために。
だから、彼は、包まれなかった。
『国民の皆さん』
テレビの画面に、御厨の顔が、映った。国内の放送局は、まだ、政府の統制下にあった。
『本日未明、一部の適性者が、首都・永田町を、武力によって占拠しました。これは、明白な、反乱行為です。彼女たちは、虚偽の情報を流布し、国民を扇動し、選挙で選ばれた政府を、転覆しようとしています』
御厨の声は、深く、落ち着いていて、そして、怒りに満ちていた。
『総理は、現在、官邸に、事実上、監禁されています。総理の安全を確保し、国家の秩序を回復するため、私は、防衛大臣として、陸上自衛隊に、治安出動を命じました』
灯は、歩道橋の上で、その放送を、ひばりの端末で、見ていた。
『また、内閣官房特殊防護班にも、出動を命じました。特殊防護班は、適性者による反乱を鎮圧するために、特別な訓練を受けた部隊です。反乱を起こした適性者たちに、告げます。ただちに、防壁を解除し、投降しなさい。さもなければ』
御厨は、一瞬、言葉を切った。
『さもなければ、国家は、あなたたちを、もはや、守るべき国民とは、見なしません』
*
午後一時。
陸上自衛隊、第一空挺団の、一個中隊が、籠目の外側の、内堀通りに、展開した。
装甲車が、六台。隊員が、百二十人。小銃と、対戦車ミサイルを、携行していた。
灯は、トワの観測で、その位置を、把握していた。
『あかり。そと、てっぽう。たくさん』
「撃ってくると思う?」
『わからない。でも、あのひとたち、ふるえてる』
空挺団の中隊は、籠目から、二百メートルの距離で、停止した。
それ以上、近づいてこなかった。
一時間が、過ぎた。二時間が、過ぎた。
空挺団は、動かなかった。
『……篠宮さん』
しずくが、インカムで、言った。
『空挺団の、中隊長の名前、わかりました。坂上三等陸佐。……桐生一佐の、防大の後輩です』
灯は、内堀通りの方角を、見た。
装甲車の列の、先頭。一人の自衛官が、装甲車の上に立って、籠目を、見上げていた。双眼鏡も、使わずに。ただ、じっと。
その自衛官は、やがて、装甲車から降りて、無線機に、何かを話していた。
装甲車の列は、それ以上、動かなかった。
*
午後三時二十分。
『くる』
トワの声が、インカムに、響いた。
声が、硬かった。
『くろいの。ごにん。……ひむろれい』
灯は、顔を上げた。
籠目の、南西の方角。赤坂の、高層ビル群の屋上を、黒い影が、跳んでいた。
五つの影。漆黒の、詰襟の制服。
鴉だった。
五つの影は、赤坂のビルの屋上から屋上へ、跳び移りながら、籠目に、近づいてきた。その跳躍は、人間のものとは思えなかった。足元に、小さな防壁を、足場のように出現させて、それを蹴って、空中を、渡ってくる。
先頭の四人が、籠目の外壁の、溜池の上空で、止まった。
しずくの、持ち場。
『……真壁です。鴉、四名、私の正面。何か、構えています』
灯は、目を凝らした。
四人の鴉の、それぞれの右手に、何かが、光っていた。
細長い、薄い、刃のような形の、防壁。
『刃壁』
しずくの声が、震えた。
『防壁を、刃の形に、圧縮している。……攻性展開です。措置法第九条違反。あれは、盾じゃない』
四人の鴉が、一斉に、右手を、振り下ろした。
刃の形の防壁が、籠目の外壁に、叩きつけられた。
しずくの結晶格子が、悲鳴を上げた。
六角形の網目が、四か所、同時に、断ち切られた。
『っ……!』
しずくの、押し殺した声。
灯の腕にも、衝撃が、走った。籠目の骨組みの、自分の防壁が、何十枚も、まとめて、割れた。焼けた鉄を押し当てられるような痛み。
「小夜!」
『縫います!』
虎ノ門の方角から、金色の糸が、走ってきた。断ち切られた網目に、絡みつき、引き絞り、閉じていく。
だが、鴉は、止まらなかった。
二撃目。三撃目。
刃壁が、籠目を、切り裂いていく。小夜の糸が、それを、縫い合わせていく。切る。縫う。切る。縫う。
『……縫う速さより、切る速さの方が、速い』
小夜の声が、かすれていた。
『篠宮さん。このままでは』
灯は、歩道橋の上で、立ち上がった。
両手を、籠目に向けたまま。
そして、溜池の方角を、見た。
四人の鴉の、後ろ。
五人目の、影が、いた。
赤坂のビルの屋上。籠目から、五百メートルほど離れた場所に。
銀色の髪が、午後の陽光を受けて、光っていた。
氷室レイは、動いていなかった。
両手を、体の横に、下ろしたまま。
ただ、籠目を、見ていた。
いや。
籠目の向こうの、灯を、見ていた。
『あかり』
トワの声が、インカムに、響いた。
『ひむろれい、ないてる』




