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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第8話 鳴瀬律


翌日。


鳴瀬律は、昨日と同じ倉庫の前で一度だけ足を止めた。


半分開いたシャッター。


中から扇風機の音がする。


カタ、カタ。


壁にはまだ、あの紙が貼ってあった。


『女子ボクシング同好会』


『あと一人!』


赤い文字も、そのまま。


当然だ。


昨日は体験しただけ。


自分がその一人になるとは、まだ決まっていない。


律はトートバッグの持ち手を握り直した。


駄目なら、それまで。


別を探せばいい。


正式な拳闘部もある。


家へ戻れば、練習する場所にも困らない。


それでも。


律は倉庫へ入った。


「こんにちは」


最初に綾乃が気づいた。


「こんにちは。来てくれてありがとう」


「約束したので」


美波が振り返る。


「ほんとに来た」


「来ますって言いました」


「うん。言ってた」


ひまりが嬉しそうに近づいてくる。


「律ちゃん!」


近い。


昨日より近い。


「こんにちは」


「今日も動きます?」


「そのつもりです」


「よかった!」


なぜ、ひまりがそこまで喜ぶのかは分からない。


でも、嫌ではなかった。


千尋はタブレットを持ったままこちらを見る。


「身長、百五十一センチで合っていますか」


「はい」


「体重は?」


「四十八です」


「昨日聞き忘れました」


「初対面で体重まで聞かれるとは思いませんでした」


「競技に必要なので」


「それは分かります」


話が早い。


倉庫の奥では、只野が昨日と同じように寝転がっていた。


顔に週刊誌を乗せている。


律が入ってきても動かない。


本当に寝ているのかもしれない。


どうでもいい。


昨日。


自分が動いたときだけ、あの男は見ていた。


それも、どうでもいい。


そう思うことにした。


「鳴瀬さん」


綾乃に呼ばれる。


「律でいいです」


「じゃあ律さん。昨日の続き、もう少し見せてもらってもいい?」


「はい」


「そのあとで、ちゃんと決めたい」


律は少しだけ綾乃を見る。


ちゃんと。


あと一人だから、ではないらしい。


「分かりました」


トートバッグを床へ置く。


ボクシングシューズを出した。


紐を締める。


左。


右。


立つ。


昨日と同じ床。


リングはない。


ロープもない。


古いコンクリートの上に、テープで線が引いてあるだけ。


家とは違う。


それでも、構えれば関係ない。


「私でいい?」


美波がパンチングミットをつける。


「お願いします」


「昨日と同じね。左出すから、外入ってボディ」


「はい」


美波が左を伸ばした。


律は見る。


左肩。


グローブ。


その向こう。


頭を右へずらす。


沈む。


右足を外へ。


左足が入る。


近い。


美波の左脇が目の前まで来る。


そこへ左。


ドン。


ミットが上へずれた。


手首から前腕へ、硬い返りが来る。


律はすぐ離れた。


「もう一回お願いします」


「はいよ」


二回目。


左が来る。


見る。


沈む。


入る。


左。


ドン。


まただ。


ミットが少し上へ逃げる。


当たっている。


威力も落ちていない。


でも、昨日からそこだけが気になっていた。


「美波さん」


「ん?」


「今、上に動きましたよね」


美波が右のミットを見る。


「動いたね」


「私が押してます?」


「んー」


美波が自分の脇腹の前へ、もう一度ミットを置く。


「ちょっとそんな感じはする」


律は自分の左拳を見る。


昔から使ってきた入り方だ。


身体が小さい。


外からでは届かない。


正面に残れば、先に触られる。


だったら潜る。


外へ出る。


近づく。


そうやって今の形になった。


誰か一人に習った形ではない。


父から言われたこと。


兄たちから言われたこと。


姉から直されたこと。


全部混ざっている。


でも、最後に使うかどうかを決めてきたのは自分だ。


だから、これは自分のボクシングだと思っていた。


「もう一回」


「いいよ」


三回目。


少し手前で止まる。


左。


届く。


でも、腕が詰まった。


身体が回り切らない。


「違う」


口から出た。


美波が笑う。


「自分で分かるんだ」


「これは分かります」


「じゃあ、さっきのは?」


「分かりません」


「正直だね」


腹が立つ。


美波にではない。


分からないことに。


家なら聞ける。


帰って、


これ、どこがおかしい?


そう言えばいい。


誰かが答える。


祖父。


父。


兄。


姉。


一人が言わなくても、別の誰かが言う。


ずっとそうだった。


答えが多すぎるくらいだった。


だから、ここへ来た。


大学まで、


鳴瀬の家ならこうする。


お父さんなら。


お兄さんなら。


そうやって決められるのが嫌だった。


自分で選びたかった。


なのに、分からなくなった途端、


誰かに聞こうとしている。


律は奥を見た。


週刊誌は、まだ只野の顔に乗っていた。


聞かない。


今日は自分で考える。


「もう一回お願いします」


「まだいく?」


「はい」


美波が左を出す。


律は今度、右足の置く位置を少しだけ外へ変えた。


沈む。


入る。


左。


身体が横へ流れた。


ミットの端に当たる。


「……違う」


「今度は何?」


「流れました」


千尋が後ろから言う。


「さっきより右足が外です」


律が振り返る。


「見てたんですか」


「はい」


「どれくらい?」


「昨日より――」


「千尋」


綾乃が止めた。


「今日は本人にやらせよう」


千尋が少し黙る。


「分かりました」


助かった。


数字まで出されたら、たぶんまた答えを探し始める。


律は構え直す。


美波を見る。


距離。


左。


自分の足。


昨日、綾乃に聞かれた。


怖くない?


その意味が、まだ少し分からない。


拳が来るなら、見る。


見えなくなる方が嫌だ。


避けても、入っても。


相手から目を切れば、その次が分からなくなる。


それだけだ。


美波の左が来る。


律は目を開けたまま、その外へ入る。


近い。


もう半歩。


左。


ドン。


ミットが持ち上がる。


「……惜しい」


声がした。


律の首が動いた。


倉庫の奥。


週刊誌が少しだけ下がっている。


只野の目が見えた。


「何がですか」


「知らね」


「今、惜しいって」


「言った?」


「言いました」


「じゃ言ったんじゃねえの」


「何が惜しいんですか」


「知らねえよ」


「見てたでしょう」


「若い女が汗かいてんだから見るだろ」


視線が一度、律の胸元へ落ちた。


律は右拳を上げた。


「殴りますよ」


「何でだよ」


「今、見るところ違いました」


「さっきまでそこも動いてただろ」


「最低ですね」


「昨日も聞いた」


只野は週刊誌を顔へ戻した。


終わり。


それ以上は何も言わない。


惜しい。


何が。


聞きたい。


でも、聞いても答えない。


それなら。


律は美波へ向き直った。


「もう一回お願いします」


「まだ?」


「もう一回だけ」


「それ、さっきも聞いた」


「今度こそです」


美波が笑いながら構える。


左。


律は潜る。


昨日と同じ深さ。


でも、打つ直前。


自分と美波の距離を見る。


近い。


かなり近い。


左を出す。


ドン。


やっぱりミットが上へ動く。


手応えはある。


でも、腹の真ん中へ力が残った感じが薄い。


「……」


律は拳を戻した。


近すぎるのか。


でも、離れると届かない。


右足か。


腰か。


上体か。


まだ分からない。


分からない。


なのに。


さっきより少し面白かった。


答えがないから、自分で探すしかない。


「律さん」


綾乃に呼ばれた。


律はグローブを下ろす。


「はい」


綾乃は美波たちを一度見た。


三人とも、特に反対する様子はない。


それから律を見る。


「昨日、すぐ決めなかったのは」


「はい」


「私たちが、あと一人欲しかったからです」


律は黙って聞く。


「ずっと探してたから、来てくれたってだけで決めそうになった」


綾乃が壁を見る。


赤い文字。


『あと一人!』


「でも、それは違うと思った」


律も紙を見る。


「人数合わせにはしたくないってことですか」


「うん」


綾乃はすぐ答えた。


「今日もう一回見て、それでも思った」


少し間があった。


「鳴瀬さんに――」


綾乃が言い直す。


「律さんに、入ってほしい」


律は顔を上げた。


美波が笑っている。


ひまりも。


千尋はいつもの顔だったけれど、タブレットには何か入力している。


奥の酔っ払いは週刊誌をかぶったまま。


律は壁を見る。


赤い『あと一人!』。


「お願いします」


それだけ答えた。


ひまりがすぐ声を上げる。


「やった!」


「ひまり、近い」


美波が笑う。


「すみません!」


と言いながら、ひまりはもう律のすぐ横まで来ていた。


「嫌じゃないです」


「ほんと?」


「はい」


美波が壁へ行く。


「じゃあ、これ剥がしていいよね」


「うん」


綾乃が答えた。


テープが剥がれる。


ぱり、と乾いた音。


赤い紙が壁から離れた。


     ◇


入会届は、思っていたより簡単だった。


名前。


学年。


連絡先。


希望階級。


書くところは、それくらいしかない。


律はペンを持った。


名前。


鳴瀬律。


一文字ずつ書く。


そこで、少しだけ待った。


いつもなら、このあとが長い。


どこの鳴瀬?


お父さんは?


兄は?


祖父は?


名前を言った直後なのに、自分ではない誰かの話になる。


別に嫌いではない。


家族には教えてもらった。


今の自分があるのも、そのおかげだ。


ただ。


大学まで、それを続けたくなかった。


綾乃が紙を覗く。


律は少しだけ身構えた。


「四十八でいい?」


「……はい」


「じゃあ、これ預かります」


紙が綾乃の手へ渡る。


終わった。


美波が横から覗き込む。


「字、小さ」


「普通です」


「本人に合わせてる?」


「美波さん」


綾乃の声が低くなる。


「私じゃないって」


美波が奥を指した。


週刊誌の下から声がした。


「俺もまだ何も言ってねえよ」


律はそちらを見る。


「言おうとはしたんですね」


「してねえよ」


「顔に出てます」


「お前ら、それ好きだな」


律は少しだけ笑った。


目の前の入会届を見る。


そこに書いてあるのは、


鳴瀬律。


それだけだった。


祖父の名前も。


父の名前も。


兄も姉も。


どこにも書いていない。


その紙の上では、


自分の名前だけでよかった。

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