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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第9話 同じ競技


白石綾乃。


橘美波。


大熊ひまり。


雨宮千尋。


鳴瀬律。


綾乃は申請書の名簿を、上からもう一度なぞった。


五人。


ちゃんといる。


倉庫を出る前にも見た。


廊下へ出てからも見た。


今ので三回目。


「綾乃」


隣から美波が覗き込んだ。


「名前、逃げないよ」


「分かってる」


「じゃ行こうよ」


「ちょっと待って」


「まだ見るの?」


「最後」


「それ、さっきも聞いた」


綾乃は無視した。


名簿の下。


活動目的。


活動場所。


代表者。


連絡先。


一つずつ確認する。


五人目の欄には、


鳴瀬律。


昨日まで空いていた場所に、ちゃんと名前がある。


あとは出すだけ。


五人いれば申請できる。


そのために探した。


条件は満たした。


「大丈夫」


自分に言うように呟いて、書類を閉じた。


     ◇


学生課の窓口は、思っていたより普通だった。


綾乃はもう少し聞かれるつもりでいた。


なぜ女子だけなのか。


なぜ今まで四人だったのか。


活動は続けられるのか。


答えは考えてきた。


必要なら説明する。


そう思っていた。


けれど、担当の職員は申請書を受け取ると、上から順番に確認していった。


「代表、白石さん」


「はい」


「構成員、五名」


「はい」


指が名簿を下へ滑る。


鳴瀬律。


そこで一度止まった。


ほんの一瞬。


それだけなのに、綾乃の背筋が伸びる。


五人いる。


「競技はボクシング」


「はい」


今度は、その欄で少し止まった。


綾乃は職員の顔を見る。


何か言われるかと思った。


職員は次へ進む。


「活動場所は、現在この倉庫を使用中」


「はい。学生課から許可をもらっています」


「分かりました」


紙が一枚めくられた。


「指導体制については、審査の際に改めて確認します」


「はい」


綾乃は一瞬だけ迷った。


「一応、見てもらっている人はいます」


横から、美波の視線を感じた。


見てもらっている。


自分で言っていて、少し違う気もした。


教えてくれと言えば断る。


先生と呼べば怒る。


倉庫で酒を飲んで寝ている。


でも、見ている。


「大学の方ですか?」


「いえ。学外の人です」


「分かりました。詳細は後ほど」


それ以上は聞かれなかった。


職員が書類をそろえる。


角を机へ軽く当てた。


とん、と紙が揃う。


「では、申請書は受け付けます」


綾乃の肩から、少し力が抜けた。


「ありがとうございます」


頭を下げる。


横でひまりも深く頭を下げた。


「お願いします!」


「ひまり、声」


「すみません!」


また声が大きい。


職員が少し笑った。


     ◇


自動ドアが閉まる。


学生課の外へ出たところで、美波が両手を上げた。


「通った!」


綾乃はすぐに言った。


「受け付けてもらっただけ」


「でも受け付けてもらったじゃん」


「認可はまだ」


「綾乃」


「何」


「今くらい喜んでもよくない?」


綾乃は黙った。


間違ってはいない。


まだ何も決まっていない。


書類を出しただけ。


ここで浮かれるのは早い。


そう思う。


「五人いなかったら、これも出せなかったんですよね」


律が言った。


「うん」


「なら、一つは進みました」


千尋もうなずく。


「申請条件は満たしました」


ひまりが笑った。


「じゃあ、今日はそこだけ喜びましょう!」


そこだけ。


そう言われると、反論しにくい。


「……少しだけね」


「少しなんだ」


美波が笑う。


綾乃も少しだけ笑った。


数日前には出せなかった紙を、今日は出せた。


それは確かだった。


     ◇


「こっち、行ってみません?」


学生課を出て少し歩いたところで、ひまりが足を止めた。


「どこ?」


「拳闘部」


綾乃も止まる。


「何で?」


「見てみたいです」


律が顔を上げた。


「私もちゃんとは見てないです」


「昨日、見たって言ってなかった?」


「入口から少しだけです」


美波も肩をすくめる。


「せっかくだし、行ってみる?」


千尋まで反対しなかった。


五人で体育施設の奥へ回った。


近づく前から、音が聞こえた。


パンッ。


パン、パンッ。


ミットを打つ乾いた音。


その間に、床を擦るシューズの音が混ざる。


入口は開いていた。


綾乃は、その前で足を止めた。


最初に目へ入ったのはリングだった。


四本のロープ。


白いキャンバス。


四隅のコーナー。


常設のリング。


倉庫にはない。


分かっていたはずなのに、実際に見ると目が離れなかった。


リングの奥にはサンドバッグが何本も吊られている。


一人が打っていても、まだ空いている。


鏡。


パンチングボール。


ウエイト器具。


壁のタイマーが電子音を鳴らした。


棚にはグローブと救急用品が並んでいる。


壁の高い位置には、大会の写真と賞状。


「……すご」


美波が小さく言った。


ひまりはサンドバッグを見ている。


「いっぱいあります」


「見れば分かります」


千尋が言う。


「でも、いっぱいです」


「それも分かります」


律だけはリングを見ていた。


「古い」


綾乃が律を見る。


「分かるの?」


「ロープとか、コーナーパッドとか。でも、ちゃんと使ってます」


その声が少しだけ明るい。


古くてもリングはリング。


綾乃はもう一度、中を見る。


今の倉庫が嫌いなわけではない。


自分たちで掃除した。


サンドバッグを吊った。


床にテープを貼った。


壊れた物は直した。


足りない物は買った。


でも。


ここには最初からリングがある。


ロープ際の練習ができる。


コーナーも使える。


サンドバッグの順番を待たなくていい。


救急用品が減るたび、残金を計算しなくてもいい。


正式部になれば――


そこまで考えて、綾乃は止めた。


まだ申請しただけ。


さっき自分で言ったばかりだ。


「見学ですか?」


声をかけられた。


リング脇にいた男子学生だった。


Tシャツの胸に大学名が入っている。


タオルで首を拭きながら近づいてくる。


「すみません。勝手に見てしまって」


綾乃が頭を下げる。


「いや、全然ええですよ」


関西の言葉だった。


男子学生の視線が五人を順番に見る。


律のトートバッグにも一度落ちた。


「ボクシングやってる人らですか?」


「女子ボクシング同好会です」


「女子?」


少しだけ眉が上がった。


それだけ。


嫌な感じはなかった。


「今日、正式部の申請を出してきたんです!」


ひまりが先に言った。


「五人そろったので!」


「ひまり」


「駄目でした?」


「駄目じゃないけど」


男子学生が笑った。


「それは、おめでとうございます」


普通だった。


綾乃は少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとうございます」


「俺、真田です。真田亮介。一年」


「白石綾乃です。三年です」


順番に名乗る。


美波。


ひまり。


千尋。


最後に律。


「鳴瀬律です」


真田の目が少し動いた。


「鳴瀬?」


律の肩が、ほんのわずかに固くなる。


真田もそれに気づいたのか、


「あ、いや」


そこで止めた。


「すんません。珍しい名字やなと思って」


律は真田を見る。


「……そうですか」


「たぶん俺が知らんだけです」


それ以上は聞かなかった。


律の肩が少し戻る。


綾乃は、その変化だけ見ていた。


「正式部になったら、同じ大会とか出ることもあるんですかね」


ひまりが聞く。


真田は少し考えた。


「大会によるとは思いますけど、同じ大学で同じ競技やったら、どっかでは一緒になるんちゃいます?」


「ですよね!」


「まあ、俺も一年なんで詳しくないですけど」


一年。


綾乃はそこで少し安心した。


知らないことを、知っているふうには言わない。


「そのときは、よろしくお願いします」


綾乃が頭を下げる。


「こちらこそ」


真田も軽く頭を下げた。


敵意はない。


自分たちを邪魔する相手にも見えない。


同じ大学で。


同じ競技をしている。


ただ、それだけだった。


「何してんの、お前ら」


後ろから聞き慣れた声がした。


綾乃は振り返る。


只野だった。


片手にコンビニ袋。


「先生」


「先生じゃねえ」


「何でいるの?」


美波が聞く。


「倉庫行ったら誰もいねえんだよ」


「探しに来たんだ」


「違う」


「何が?」


「……酒飲む場所ねえだろ」


「待ってたんじゃん」


「待ってねえよ」


只野は美波を無視して、練習場の中を見る。


リング。


サンドバッグ。


鏡。


タイマー。


棚。


「金かかってんな」


第一声がそれだった。


真田が笑う。


「歴史長いらしいんで」


只野の視線が真田へ移る。


顔。


肩。


腰。


前足。


一度下まで見て、また顔へ戻る。


「お前、やってんな」


真田の眉が少し上がった。


「はい」


「どれくらい」


「高校からです」


「ふうん」


それだけ。


綾乃は只野を見る。


昨日、律を見たときと同じだった。


女を見る目ではない。


ボクシングをしている人間を見る目。


でも、一瞬だけ。


すぐ消えた。


美波が只野の脇腹を肘でつつく。


「男は胸見ないんだ」


「男の胸見てどうすんだよ」


「そういう意味じゃない」


「じゃ何」


「もういい」


真田が口元を押さえている。


綾乃は少し恥ずかしくなった。


「すみません」


「いや」


真田が笑った。


「面白い人ですね」


「面白くはないです」


綾乃はすぐ答えた。


「ひでえな」


只野が言う。


「普段の行いです」


「先生、帰りますよ」


「だから先生じゃ――」


美波がもう歩き出した。


「はいはい」


只野が文句を言いながらついてくる。


五人で来た。


帰りは六人になった。


     ◇


倉庫へ戻る途中も、綾乃の頭にはリングが残っていた。


常設のリング。


四本のロープ。


コーナー。


床を気にせず動ける広さ。


あそこで練習できたら。


自然に考えてしまう。


今までできなかったことができる。


もっとちゃんと練習できる。


正式部になれば。


また、そこまで考えて止めた。


まだだ。


申請しただけ。


倉庫へ戻る。


美波が申請書の控えを机へ置いた。


「これ、額に入れる?」


「まだ早い」


「またそれ」


「認可されてから」


ひまりが手を上げる。


「認可されたら入れましょう!」


千尋が聞く。


「額代は部費ですか」


「そこ?」


美波が笑った。


律も少しだけ笑っている。


只野はもう段ボールへ横になっていた。


「認可されたら、あっちのリングも使えるんですかね」


ひまりが言う。


「分からない」


綾乃は答えた。


「正式部になったとしても、拳闘部と同じ設備を使えるとは限らないし」


言葉にして、自分へ言い聞かせる。


まだ何も決まっていない。


期待するのは早い。


でも。


五人になった。


申請書を出した。


受け付けてもらえた。


昨日までより一つ進んだ。


それくらいは喜んでもいい。


スマートフォンが震えた。


机の上。


画面に学生課の名前が出ている。


「早くない?」


美波が覗き込む。


綾乃は開いた。


最初の一文。


読む。


次。


もう一度、最初へ戻る。


「綾乃?」


返事ができなかった。


画面には、


**既存の大学拳闘部との競技種目の重複について、確認が必要です。**


そう書かれていた。


綾乃は壁を見る。


昨日まで貼ってあった、


『あと一人!』


その紙は、もうない。


五人そろえば申請できる。


そこまでは正しかった。


その先にも条件があるとは、


考えていなかった。


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