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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第10話 二つ目は、作れない


「結論からお話しします」


学生課の職員が、机の中央に置かれた申請書へ手を添えた。


「女子ボクシング同好会を、そのまま独立した正式部へ昇格させることはできません」


綾乃は、すぐには返事ができなかった。


昨日と同じ学生課。


ただし今日は窓口ではなく、奥の小さな会議室だった。


向かいには職員が二人。


こちらは五人。


白石綾乃。


橘美波。


大熊ひまり。


雨宮千尋。


鳴瀬律。


机の上の申請書にも、同じ五人の名前が並んでいる。


昨日、何度も確認した。


ちゃんと五人いた。


「……五人、そろっています」


最初に口から出たのは、それだった。


言ってから分かる。


職員が人数を見落としているわけではない。


それでも、そこを聞かずにはいられなかった。


五人必要だった。


だから五人集めた。


その条件を満たした。


「はい」


職員がうなずく。


「申請に必要な人数は満たしています」


なら。


綾乃が次の言葉を探すより早く、ひまりが身を乗り出した。


「じゃあ、どうしてですか?」


「ひまり」


「だって、五人いたら申請できるって聞いて、私たち五人集めたんですよね?」


責める声ではない。


本当に分からない顔だった。


職員も気を悪くした様子はなかった。


「その点は説明が足りなかったかもしれません」


申請書を少しこちらへ向ける。


「五人というのは、正式な部活動への申請を受け付けるための最低条件です」


ひまりが瞬きをする。


「最低条件?」


「はい。五人いれば自動的に正式部になれる、という意味ではありません」


綾乃は机の上の名前を見る。


五人。


そこまでは正しかった。


でも。


そこから先があった。


「申請後は、活動内容、継続性、指導体制、安全管理、使用施設、予算などを確認します」


職員の指が申請書の競技名へ移った。


「今回は、その前に確認しなければならないことがあります」


ボクシング。


その文字の上で指が止まる。


「すでに本学には、大学拳闘部があります」


昨日見たリングが浮かんだ。


何本も並んだサンドバッグ。


タイマー。


救急用品。


壁の賞状。


綾乃は職員を見る。


「同じ競技だから、ですか」


「そうです」


「でも、向こうは男子ですよね?」


ひまりが聞いた。


職員は首を横に振った。


「今回の判断は、女性だからというものではありません」


綾乃の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


そこは確認したかった。


「男子が別にもう一つボクシング部を作りたい、と申請しても同じですか」


「同じ確認をします」


職員は続ける。


「大学が正式部を認可すると、単に部名を認めるだけでは済みません」


別の資料が机へ置かれた。


「事故が起きた場合、誰が指導責任を持つのか。救急対応をどうするのか。施設をどう管理するのか。大学予算をどう扱うのか」


綾乃は昨日見た練習場を思い出す。


棚に並んだ救急用品。


きちんと張られたリングロープ。


自分たちの倉庫とは違った。


自分たちの救急箱は、減るたび四人――今は五人で金を出している。


正式部になるというのは、リングが使えるようになることだけではない。


何かあったときに、大学が責任を持つということでもある。


「特にボクシングは対人接触を伴います」


職員が言う。


「同じ大学の中で、同じ競技の正式部を二つ設けて、それぞれ別の指導者、別の安全管理、別の責任者で活動させる形は認めにくい、というのが大学の判断です」


綾乃には、すぐ反論できなかった。


嫌だからではない。


女子だからでもない。


人数不足でもない。


理由がある。


しかも、分かる理由だった。


美波が椅子の背へ少し身体を預けた。


「つまりさ」


全員の視線が向く。


「五人集まったら部になれるんじゃなくて」


美波が指を一本立てた。


「五人集まったら、『部にしてください』ってお願いできるようになる」


もう一本。


「で、お願いしたら審査がある」


「はい」


職員がうなずく。


「うちらは、同じ競技の正式部がもうあるところで引っかかった」


「そういうことです」


美波がひまりを見る。


「分かった?」


「分かりました」


ひまりが大きくうなずいた。


少し考える。


そして、また顔を上げた。


「じゃあ」


「はい」


「私たち、ボクシングできなくなるんですか?」


今度は綾乃も職員を見る。


「いいえ」


職員はすぐ答えた。


「そこは別です」


ひまりの肩がわずかに下がる。


「大学拳闘部と相談して、そちらへ加入して競技を続ける方法があります」


綾乃の胸の奥が止まった。


昨日、あの場所を見た。


リング。


バッグ。


設備。


選手。


同じ競技をするなら、あそこへまとめる。


大学から見れば、その方が自然だ。


安全。


指導。


管理。


予算。


全部そろっている。


「五人で、ですか」


律が聞いた。


「それも拳闘部側との相談になります。ただ、大学として女性の加入を禁止しているわけではありません」


律は短く、


「分かりました」


と答えた。


顔は変わらない。


でも、綾乃には第七話で聞いた言葉が浮かんだ。


――向こうだと、たぶん私を見てもらえないので。


律は、向こうを見たうえでこちらへ来た。


「じゃあ、この同好会は?」


ひまりが聞いた。


職員が一度、申請書へ目を落とす。


「現在の任意団体としての活動を、今すぐ禁止するという話ではありません」


そこで切った。


「ただし、独立した正式部としての認可はできません」


五人の名前がある。


それでも駄目。


綾乃は紙を見る。


昨日は、この紙さえ出せれば前へ進めると思っていた。


今は。


五人の名前だけが、やけにはっきり見えた。


     ◇


学生課を出てから、誰もすぐには話さなかった。


昨日と同じ廊下。


昨日はここで、美波が、


「通った!」


と両手を上げた。


自分は、


「受け付けてもらっただけ」


と止めた。


慎重すぎると思っていた。


本当に。


受け付けてもらっただけだった。


「私」


ひまりが歩きながら言った。


「まだ、ちょっと分かってないです」


千尋が振り向く。


「どこがですか」


「ボクシングはしていい。でも部は駄目?」


「はい」


「何で?」


千尋が答えようとする。


美波が先に口を挟んだ。


「千尋、三十秒で」


「なぜですか」


「長くなるから」


「必要な説明です」


「ひまりの顔見て」


千尋がひまりを見る。


ひまりは完全に説明待ちの顔だった。


千尋は一度だけ息を吸った。


「大学は、私たちに競技をやめろとは言っていません」


「はい」


「女子だから駄目とも言っていません」


「はい」


「五人もいます」


「はい」


「でも、大学にはすでに正式なボクシングの組織があります」


「拳闘部」


「はい」


千尋が指を一本立てる。


「同じ競技の正式部を二つ作ると、事故が起きたときの責任、指導者、施設、予算などを二つに分ける必要があります」


二本目。


「大学は、それより既存の拳闘部へまとめたい」


ひまりがしばらく考えた。


「じゃあ……」


顔が明るくなる。


「ボクシングは続けられるんですね」


「はい」


「よかった」


ほっとした声だった。


そのまま三歩。


ひまりの足が止まった。


「……あれ?」


美波も止まる。


「来た」


「何がですか」


「二段目」


「二段目?」


ひまりが千尋を見る。


「私たちの部は?」


「独立した正式部にはなりません」


「……あ」


今度は分かったらしい。


美波が息を吐く。


「殴る場所はもらえるかもしれない」


廊下の先を見る。


「でも、うちらの場所じゃなくなる」


綾乃は何も言えなかった。


その通りだった。


リングは使えるかもしれない。


設備も今よりいい。


大会にも出やすくなるかもしれない。


今まで欲しかったものの多くが、拳闘部にはある。


それでも。


じゃあ、そっちへ行こう。


とは思えなかった。


何のために正式部になりたかったのか。


試合へ出るため。


練習するため。


リングを使うため。


予算をもらうため。


それだけなら、拳闘部へ入ればいい。


でも。


それだけだっただろうか。


「私は嫌です」


律が言った。


全員が律を見る。


声は普段と変わらない。


「拳闘部が嫌いって意味じゃないです」


「うん」


綾乃が答える。


「昨日見た限り、ちゃんとしてました」


律は一度だけ足元を見る。


「でも、私はこっちに入ったので」


それだけ。


綾乃には、それで十分だった。


第八話。


赤い『あと一人!』の紙を剥がした。


あのとき律は、


人数を埋めるためだけに入ったわけではない。


綾乃たちも、人数を埋めるためだけに入れたわけではない。


美波が頬を掻く。


「まあ、私も同じかな」


ひまりがすぐうなずく。


「私もみんなとやりたいです」


千尋は少し間を置いた。


「設備、安全管理、予算、大学からの支援だけで比較すれば、拳闘部へ加入する方が有利です」


ひまりの顔が曇る。


「千尋ちゃんは向こうに行きたいんですか」


「最後まで聞いてください」


「はい」


「有利かどうかと、私がどちらを選ぶかは別です」


美波が笑った。


「相変わらず回りくどい」


「必要です」


「はいはい」


四人。


綾乃は順番に見る。


美波。


ひまり。


千尋。


律。


ずっと五という数字を追っていた。


あと一人。


五人いれば申請できる。


五人になれば前へ行ける。


そう思っていた。


違った。


欲しかったのは五人ではない。


この五人で続けられる場所だった。


「戻ろう」


綾乃が言った。


美波が聞く。


「倉庫?」


「うん」


歩き出す。


「先生にも言う?」


綾乃は少し迷った。


あの男の顔が浮かぶ。


たぶん。


「言わないと」


「絶対さ」


美波が只野の低い声を真似た。


「『向こう入ればいいだろ』って言うよ」


ひまりが困った顔をする。


「言いそうです」


律もうなずく。


「言いそうですね」


千尋だけが真顔だった。


「合理的には正しいです」


美波が肩を落とした。


「味方いないじゃん」


「そういう意味ではありません」


綾乃は少しだけ笑った。


でも。


すぐ笑えなくなった。


学生課は間違っていない。


拳闘部も悪くない。


女子だから駄目と言われたわけでもない。


だからこそ厄介だった。


嫌です。


私たちはここがいいです。


それだけで、大学の管理の仕組みは変わらない。


綾乃は廊下の途中で足を止めた。


四人も止まる。


「確認していい?」


「何?」


美波が聞く。


「本当に、この五人で続けたい?」


最初に答えたのは律だった。


「はい」


次にひまり。


「もちろんです」


美波が少し眉を上げる。


「今さら聞く?」


千尋は一番遅かった。


それでも、


「そのつもりです」


とはっきり答えた。


綾乃はうなずく。


「分かった」


まだ答えはない。


どうすれば残れるのかも分からない。


でも。


何を残したいのかだけは、決まった。


まず只野へ話す。


そのあと。


昨日見た、あのリングの人たちとも話さなければならない。


同じ競技だから駄目なら。


同じ競技をしている相手と、話すしかない。

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