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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第7話 五人目

# 第7話 五人目


四人で倉庫へ戻ると、只野はまだいた。


古いパイプ椅子を二つ並べ、その上に身体を乗せて寝ている。


留守番じゃねえ。


そう言っていたくせに。


綾乃は一度だけそちらを見て、手に残ったチラシを机へ置いた。


壁では、募集紙が扇風機の風に揺れている。


『女子ボクシング同好会』


『経験不問』


『見学歓迎』


その下。


美波が赤いペンで書いた、


『あと一人!』


も、そのままだった。


「殴るの怖いって言われました……」


ひまりが余ったチラシを机へ重ねた。


美波が聞く。


「何て誘ったの?」


「運動とか興味ありますかって」


「うん」


「ちょっとあるって言ってくれたので、ボクシング楽しいですよって」


「そこまではいい」


「それで、一度殴ったら分かりますって」


美波が黙った。


「……そこだね」


「えっ」


「怖いよ、それ」


「殴られるんじゃないですよ?」


「殴るのも怖い人いるから」


「そうなんですか……」


ひまりが本気で落ち込んだ。


綾乃は口元を押さえた。


笑ったら悪い。


自分だって似たようなものだった。


楽しい。


やれば分かる。


初心者でも大丈夫。


一つ断られるたびに言い方を変えた。


それでも今日だけで十二人。


全員、断った。


痛そう。


時間がない。


親に止められそう。


運動はしたいけど、人を殴るのはちょっと。


理由はそれぞれだった。


直すところを探して。


言い方を変えて。


また声をかける。


それでも、四人で戻ってきた。


「対象になる女子学生は、まだ十分います」


千尋がタブレットを見ながら言った。


美波が顔をしかめる。


「また母数で見てる」


「必要なので」


「人なんだけど」


「人だから探しています」


「そういう話じゃないんだよなあ」


千尋が首をかしげた。


綾乃は壁を見る。


あと一人。


数字なら、一から一を引けばゼロになる。


実際は違う。


奥から声がした。


「モテねえな」


綾乃が振り返る。


只野は目を閉じたままだった。


「起きてたんですか」


「寝てる」


美波が言う。


「しゃべってんじゃん」


「寝言」


「便利だね」


綾乃は少し迷った。


「先生」


「違う」


「只野さん」


「何」


「十二人、駄目でした」


「聞こえてた」


「何かないですか」


只野が片目を開ける。


「何が」


「勧誘の仕方です」


「俺が女口説く話?」


「部員です」


「じゃ知らね」


目を閉じる。


美波が丸めたチラシを投げた。


只野の腹に当たった。


「いて」


「絶対痛くないでしょ」


「酔っ払いは繊細なんだよ」


「初めて聞いた」


只野は腹の上の紙を取った。


赤い『あと一人!』を見る。


「大学に女、何人いんの」


千尋が顔を上げた。


「千尋、いいから」


美波が先に止める。


「何だよ。いっぱいいんだろ」


「いますけど」


「じゃ、そのうち来んだろ」


「来ないから困ってるの」


「知らねえよ」


紙が床へ落ちた。


相談相手にしたのが間違いだった。


綾乃は拾う。


「もう一度、講義棟の方へ行こう」


「賛成」


美波が残りをまとめる。


そのときだった。


倉庫の入口で、靴底の音が一つ止まった。


「すみません」


四人がそちらを見る。


小柄な女子学生が立っていた。


黒いTシャツ。


細身のパンツ。


肩にはトートバッグ。


千尋より、さらに少し低い。


短い髪。


綾乃は最初に顔を見た。


次に、手。


爪が短い。


指の関節に薄い擦れ。


トートバッグを提げている右肩は力が抜けている。


それなのに、足は揃えていなかった。


ほんの少しだけ前後している。


すぐ動ける立ち方。


女子学生が壁を見る。


「これ」


赤い文字を指した。


「まだ探してますか」


美波がすぐ立ち上がった。


「探してる!」


「美波」


「だって探してるじゃん」


「そうだけど」


綾乃も立った。


「見学ですか?」


女子学生は首を横に振った。


「入れるか、見てもらいたいです」


綾乃の返事が一瞬遅れた。


入れてほしい、ではない。


見てもらいたい。


「経験は?」


「あります」


「どれくらい?」


「小さい頃から」


「ジムで?」


少し間が空く。


「家です」


「家?」


「家族がボクシングやってるので」


それだけだった。


美波が綾乃を見る。


経験者。


ずっと探していた一人。


条件だけなら、十分すぎる。


だからこそ、綾乃は先に確認した。


「大学拳闘部があるのは知ってますか?」


「はい」


「見に行きました?」


「行きました」


「それなら、どうしてこっちに?」


女子学生の目が、一度だけ壁の紙へ動いた。


それから倉庫を見る。


古い床。


使い込んだミット。


サンドバッグ。


首を振るたびにカタカタ鳴る扇風機。


「向こうだと」


そこで一度止まった。


「たぶん、私を見てもらえないので」


綾乃は眉を寄せた。


「どういう意味?」


「家の方を見られるから」


それ以上は言わなかった。


「あ」


女子学生が少しだけ頭を下げる。


「名前、まだでした」


顔を上げた。


「鳴瀬律。一年です」


「白石綾乃です。三年」


順番に名乗る。


美波。


ひまり。


千尋。


律は一人ずつ顔を見た。


最後に、奥の只野を見る。


「その人は?」


「知らねえおっさん」


美波が即答した。


「おい」


只野の声が飛ぶ。


「だいたい合ってるじゃん」


「合ってねえよ」


ひまりが補足する。


「先生です」


「先生じゃねえ!」


律が只野を見る。


只野も片目を開けた。


初めて見る相手だからか、顔から下へ視線が落ちる。


胸元で一度止まった。


律の目が細くなった。


「最低ですね」


「あァ?」


「今、胸見ましたよね」


「見える位置にあんだろ」


「やっぱり最低ですね」


美波が吹き出した。


「先生、この子いい」


「だから先生じゃねえ」


綾乃は額を押さえた。


話が進まない。


「鳴瀬さん」


「律でいいです」


「じゃあ、律さん。少し動けますか?」


「はい」


返事は早かった。


トートバッグが床へ置かれる。


中から出てきたのは、使い込まれたグローブだった。


新品ではない。


革の表面に細かな皺がある。


ボクシングシューズも入っていた。


本当に、最初から動くつもりで来ている。


律は床へ腰を下ろし、靴を履き替えた。


紐を締める。


迷わない。


左右とも同じ長さ。


立つ。


「何します?」


綾乃は少し考えた。


サンドバッグを打たせれば、経験の有無は分かる。


でも、それだけなら家でやっていたという話の確認にしかならない。


「美波」


「はいよ」


「ミットお願いしていい?」


「いいよ」


美波が二枚のパンチングミットを手にはめた。


左を顔の高さ。


右を自分の脇腹の前へ置く。


「私が左出すから、避けて右のミット」


「左で打っていいですか」


「うん。軽くね」


「分かりました」


律が構えた。


低い。


綾乃はそこに最初の違和感を覚えた。


身長が低いからだけではない。


膝が曲がっている。


頭が前へ出ているわけではない。


でも、最初から相手の胸より下へ潜る準備をしている。


美波が左のミットを真っすぐ出した。


律の頭が右へずれた。


同時に身体が沈む。


美波の左の外側。


そこへ身体ごと入る。


近い。


綾乃の目が、律の左足へ落ちた。


美波の前足のすぐ横。


そこまで入るのか。


右足が追う。


身体が斜めになる。


左。


ドン。


美波の右ミットが下から持ち上がった。


「わっ」


美波が半歩下がる。


律はすぐ拳を引いた。


「すみません」


「大丈夫。思ったより来た」


強い。


でも、綾乃が気になったのはそこではなかった。


近すぎる。


あの距離では、少しずれれば頭からぶつかる。


相手の右も近い。


「もう一回いい?」


美波が言う。


「お願いします」


再び構える。


美波の左。


律が沈む。


今度は、美波のミットの端が律の額へ軽く触れた。


パシッ。


綾乃の肩がわずかに動いた。


律は止まらなかった。


そのまま外へ入る。


左。


ドン。


また右ミットが上へ持ち上がる。


律が離れた。


何事もなかったように構え直す。


綾乃は律の額を見る。


赤くもなっていない。


軽く触れただけだ。


それでも普通なら、一度止める。


少なくとも、今当たった、と確認する。


「今、触れたよね」


「はい」


律は普通に答えた。


「大丈夫?」


「はい」


「怖くない?」


律が少しだけ首を傾げた。


「何がですか?」


綾乃は返事が遅れた。


何が。


ミットが顔へ来ること。


そのまま入っていくこと。


殴られる距離まで、自分から身体を運ぶこと。


綾乃は六年やっている。


怖くなくなったわけではない。


怖さを知った上で動いている。


目の前の一年生は。


聞かれた意味そのものが、分かっていないように見えた。


「……もう一回、お願いできますか」


律が美波を見る。


「いいけど」


美波も少しだけ表情が変わっていた。


三回目。


左。


律が潜る。


近い。


やはり深い。


拳の通る場所へ、自分から入っていく。


なのに。


目を閉じない。


顔も背けない。


相手だけを見たまま距離を潰す。


ドン。


左がミットへ入った。


「……ああ」


奥から声がした。


綾乃が振り返る。


只野が起きていた。


椅子へ肘をつき、律を見ている。


「何ですか」


只野は答えない。


視線は律の足。


そこから頭。


また足へ戻る。


律も気づいた。


「何か変ですか?」


「別に」


「今、何か言いましたよね」


「言ってねえ」


「言いました」


「うるせえな」


只野は缶を取った。


もう見ていないふりをする。


でも、綾乃には分かった。


さっきまで胸を見ていた目ではない。


律がもう一度構えると、只野の目だけが戻る。


「もういいです」


綾乃が言った。


律がこちらを見る。


「終わりですか?」


「今日は」


「入れますか?」


まっすぐだった。


綾乃は壁を見る。


『あと一人!』


欲しかった。


ずっと。


今日も十二人に断られた。


経験者。


自分から来た。


グローブまで持っている。


断る理由を探す方が難しい。


なのに。


すぐに「はい」と言えなかった。


「今日は体験までにさせてください」


ひまりが綾乃を見る。


美波も少し驚いた顔をした。


律だけは表情を変えなかった。


「分かりました」


「明日、もう一回来てもらえますか」


「来ます」


即答だった。


グローブを外す。


靴を履き替える。


トートバッグへ道具を戻す。


動作が早い。


「では、明日」


軽く頭を下げた。


倉庫から出ていく。


足音が遠ざかった。


誰もすぐには話さなかった。


最初に口を開いたのは、ひまりだった。


「経験者でしたよね」


「うん」


「入ってもらったら駄目なんですか?」


責めているわけではない。


本当に分からない顔だった。


千尋がタブレットを見る。


「人数要件は満たします」


美波が壁の紙を見る。


「しかも向こうから来てくれた」


分かっている。


全部、分かっている。


綾乃はさっき律が立っていた場所を見る。


「……分からない」


美波がこちらを見る。


「何が?」


言葉にできない。


上手かったからではない。


強かったからでもない。


近かった。


入りすぎていた。


顔へミットが来ても、そのまま入った。


怖くないのか聞いたら、


何がですか。


そう返した。


倉庫の奥で、缶が鳴った。


只野だった。


「先生」


「先生じゃねえ」


「何か分かりました?」


「知らね」


「さっき見てましたよね」


「見てねえよ」


「見てました」


只野は缶を一口飲んだ。


面倒そうに顔をしかめる。


それから、さっき律がいた場所を見る。


「……あいつ」


綾乃は待った。


只野は少しだけ黙った。


「殴られるとこに自分から入ってんのに、目ぇ切らねえな」


それだけだった。


「それって――」


「知らねえよ」


只野はまた横になった。


終わりらしい。


綾乃は壁を見る。


『あと一人!』


今朝までなら。


一人見つかれば終わると思っていた。


今は違う。


五人目らしい人間は、来た。


でも。


あの子を、本当に五人目にしていいのか。


赤い文字は、まだ剥がせそうもなかった。

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