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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
序章

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第6話 留守番


四十九になった身体は、寝る場所を間違えるとすぐに文句を言う。


只野汚山は寝たまま首を右へ回した。


途中で引っかかった。


「いて」


首の後ろを押さえる。


腰も重い。


そりゃそうだ。


古いマットの上に段ボールを敷いて寝ている。


布団じゃない。


大学の倉庫だ。


分かっている。


分かっているが、起きる気はなかった。


目の前では、朝から四人がうるさい。


「これどう? 『初心者歓迎! 楽しくボクササイズ!』」


美波が画用紙を持ち上げた。


綾乃がすぐ首を振る。


「ボクササイズじゃない」


「じゃあ、『殴って痩せよう』」


「もっと違う」


「えー」


横から千尋が口を挟む。


「活動日は週五日。対人練習あり。申請条件として選手一名を募集。必要事項は全部書くべきです」


ひまりが慌てて手を振った。


「千尋ちゃん、それ絶対怖いです!」


「事実です」


「事実でも!」


四人の真ん中に、画用紙。


マジック。


定規。


書き損じた紙。


昨日、只野が適当に言った。


――その辺から一人拾ってくりゃいいだろ。


まさか本当に拾いに行く準備を始めるとは思わなかった。


「真面目かよ……」


誰にも聞こえないくらいの声で言う。


煙草の箱を出した。


一本抜く。


口へ持っていこうとしたところで、視線を感じた。


千尋だ。


タブレットから目だけを上げている。


何も言わない。


ただ見る。


「……吸わねえよ」


煙草を箱へ戻した。


千尋は何事もなかったようにタブレットへ戻った。


何で俺が気を使ってんだ。


只野は寝返りを打つ。


この倉庫は悪くない。


日陰。


風。


寝る場所。


酒を飲んでも、文句を言われるだけで追い出されない。


それに若い女が四人いる。


たぶん、それが一番でかい。


「赤の方が目立つって」


美波が言う。


「ボクシングで赤って、ちょっと怖くない?」


「グローブ赤ですよ」


ひまりが自分のグローブを持ち上げた。


「それはかわいい」


「何が違うんですか?」


「ひまりが持ってるから?」


「意味が分かりません」


「美波さんの基準は分析不能です」


「千尋、そういう言い方やめて」


また始まった。


たかが一人。


よくここまで騒げる。


只野は週刊誌を顔へ乗せた。


「あの」


声が近くなった。


週刊誌を少し下げる。


白石綾乃が立っていた。


右手の親指に青いマジックがついている。


「何」


「先生」


「先生じゃねえ」


「只野さん」


「何」


「お願いがあります」


「断る」


綾乃の眉が動いた。


「まだ言ってません」


「どうせコーチやれとかだろ」


黙った。


当たりか。


「やらねえぞ」


週刊誌を戻す。


「面倒くせえ」


「……今は、ならなくていいです」


「あ?」


また週刊誌をずらした。


「今は?」


「はい」


「じゃあ帰っていい?」


「それは困ります」


只野は週刊誌を胸の上へ落とした。


「何でだよ」


「ここには来てください」


「は?」


思わず身体を起こした。


何を言ってんだ、こいつ。


「お前さ」


「はい」


「何も教えねえおっさんが、隅で酒飲んで寝てんだぞ」


「はい」


「邪魔だろ」


「でも、見ています」


「見てねえよ」


「見ています」


「胸とか?」


「そっちは見ないでください」


「注文多いな」


少し離れたところで美波が吹き出した。


綾乃は笑わない。


「先生じゃなくても、それでいいです」


「何が」


「見ていて、気づいたことを言ってくれるだけで」


「勝手に口から出てんだよ」


「それでいいです」


「よくねえよ」


「私は助かってます」


只野は眉を寄せた。


こういう奴は嫌いだ。


適当に言ったことまで拾いやがる。


勝手に意味をつける。


知らねえよ。


「だから、来てください」


「嫌だ」


「はい」


「……はい?」


「分かりました」


「分かったの?」


「でも、今日は来てます」


只野は口を閉じた。


美波が耐えきれずに笑った。


「先生、負けてんじゃん」


「先生じゃねえ!」


「そこ?」


「うるせえ!」


只野はタオルを頭からかぶった。


まだ綾乃が立っている。


「酒代出んの?」


「出ません」


「じゃあ、もう来ねえ」


「はい」


また、あっさりだ。


腹が立つ。


「二度と来ねえからな」


「分かりました」


美波がまた笑っている。


何なんだ、こいつら。


只野はタオルを深くかぶった。


     ◇


翌日の昼。


倉庫へ入った瞬間、美波がこちらを見た。


にやっと笑う。


嫌な顔だ。


「来た」


「何が」


「昨日、二度と来ないって言ってなかった?」


「暑いんだよ」


只野はコンビニ袋を床へ置いた。


「外で飲んだら酒ぬるくなるだろ」


「ここも冷房ないけど」


「日陰だろ」


「はいはい」


美波が嬉しそうに笑っている。


腹立つ。


いつもの段ボールの横に、新しい新聞紙が敷いてあった。


「何これ」


ひまりが手を上げる。


「段ボール、ちょっと汚れてたので敷きました!」


「余計なことすんなよ」


言いながら、その上へ座る。


すぐ美波が言った。


「使うんだ」


「うるせえ」


四人は練習着ではなかった。


美波はリュック。


ひまりはチラシの束。


千尋はタブレット。


綾乃も普通のスニーカーだ。


只野は四人を見る。


「何。今日やんねえの?」


口から出てから、しまったと思った。


綾乃がこちらを見る。


「練習ですか?」


「知らねえよ」


「今、聞きましたよね」


「聞いてねえ」


「聞きました」


千尋まで入ってくる。


「うるせえな、お前ら」


美波がチラシをひらひら振った。


「これから五人目探し」


「ああ」


昨日のやつか。


綾乃が束を抱え直す。


「学内で配ってきます」


「勝手にしろ」


只野は缶酎ハイを開けた。


ぷしゅ、と音がする。


「どうせ来ねえよ」


「見つけます」


「無理無理」


「行ってきます」


「話聞けよ」


美波が手を振る。


「じゃ、おじさん。留守番よろしく」


「誰が留守番だ」


ひまりがぺこりと頭を下げた。


「先生、お願いします!」


「先生じゃねえし、留守番もしねえ」


千尋まで軽く頭を下げる。


「お願いします」


「お前まで何で乗ってんだよ」


最後に綾乃が引き戸へ手をかけた。


「只野さん」


「何」


「煙草は外でお願いします」


「留守番引き受けてねえからな」


「分かってます」


「絶対分かってねえだろ」


引き戸が閉まった。


四人の足音が遠ざかる。


倉庫が静かになった。


只野は缶を一口飲んだ。


外の蝉。


扇風機。


遠くのチャイム。


さっきまで四人分あった声が、全部消えた。


「留守番じゃねえからな」


誰もいない倉庫へ言う。


当然、返事はない。


週刊誌を開く。


二ページ読む。


何も頭に入っていない。


一ページ戻る。


さっき読んだはずなのに、やっぱり入ってこない。


缶を飲む。


まだ半分ある。


飲み終わったら帰る。


そうする。


足を伸ばした。


靴先に何か当たる。


ころころと床を転がった。


美波が使っていた赤いマジックだった。


「片づけてけよ」


拾って、近くの机へ投げる。


外れた。


床に落ちた。


「……」


そのままでいい。


なのに、もう一度拾う。


今度は机の上へ置いた。


何やってんだ、俺。


机の上には、書き損じたチラシが何枚もある。


『女子ボクシング同好会 部員募集』


その下。


赤い字で、


『あと一人!』


大きく丸がついていた。


「必死かよ」


紙を裏返す。


視線を上げると、その先にサンドバッグ。


腹の辺りに皺が寄っている。


あのデカい女が打っていた場所。


右足。


腰。


肩。


最後だけ、拳が鈍る。


只野は目を細めた。


「……」


すぐに週刊誌へ戻した。


知らねえ。


俺には関係ない。


そういや。


俺、なんでここにいるんだろうな。


分からねえ。


だったら帰ればいい。


缶を空にした。


帰るか。


そう思った。


立ち上がらなかった。


扇風機の風が腹へ当たる。


涼しい。


せっかく新聞紙まで敷いてある。


今出たら暑い。


それだけだ。


只野は横になった。


目を閉じる。


しばらくして開ける。


壁の時計を見る。


まだ二十分しか経っていない。


また目を閉じる。


五分。


開ける。


「……遅えな」


口から出た。


只野は眉を寄せた。


誰が。


何が。


別に待ってねえ。


あいつらが五人目を見つけようが、見つけまいが関係ない。


正式な部になろうがならなかろうが、もっと関係ない。


ただ。


若い女が一人増えるらしい。


それなら、まあ。


ちょっとくらい待っても損はない。


「……可愛けりゃいいけどな」


入口へ背を向けた。


目を閉じる。


三分もしないうちに、また時計を見た。


「……まだかよ」


言ってから、只野は目を閉じた。


聞かなかったことにした。

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