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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
序章

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第5話 あと1人


頼んでもいないのに、あの男は今日もいた。


しかも、昨日よりひどい。


倉庫の奥。


使っていない古いマットの上に段ボールを敷き、そこへ寝転がって週刊誌を読んでいる。


安全靴は脱いである。


横にはコンビニ袋。


缶酎ハイ。


丸めた作業着。


昨日まで勝手に寝ている人だった。


今日はもう、くつろいでいる人に見える。


「……住む気?」


美波が言った。


週刊誌が少し下がった。


「住まねえよ」


「もう半分住んでるじゃん」


「家賃取んの?」


「そういう問題じゃないでしょ」


ひまりが大型扇風機の向きを変えた。


ぶうん、と低い音を立てて首が回る。


風が倉庫の奥まで届き、男の週刊誌をぱたぱた揺らした。


「お。いいね」


「暑いですよね」


「ひまり、甘やかさなくていいから」


「でも先生、汗すごいですよ」


「先生じゃねえ」


返事だけは早い。


綾乃は四人の声を横で聞きながら、パイプ椅子へ座った。


膝の上にノートを開く。


バンテージの予備。


テーピング。


消毒液。


ミットの補修テープ。


氷。


一つずつ、残りと必要な金額を書いていく。


先週より減りが早い。


横では千尋が電卓を叩いていた。


ピッ。


ピッ。


何度か小さな電子音が鳴る。


止まった。


「千二百円足りません」


美波が部費の封筒から顔を上げた。


「また?」


「今月分です」


「うわあ」


美波が財布を開く。


中を覗いて、口を曲げた。


「今月バイト減らされたんだよね。月末なら出せるけど」


「私が出す」


綾乃はすぐ財布へ手を伸ばした。


千尋の目が、その手へ落ちる。


「駄目です」


「千二百円だよ」


「前もそう言いました」


「でも、ミットは直さないと使えないし」


「四人で割ります」


「それなら三百円ずつだけど」


「だから四人で割ります」


綾乃は財布に触れたまま止まった。


ひまりも近づいてくる。


「私、今出せますよ」


「私も三百円ならある」


美波が小銭入れを探り始めた。


「待って。百円玉が……」


「別に私が出しても同じでしょ」


言ってから、昨日のことが少しだけ頭をよぎった。


悪いところなら直す。


足りないものなら足す。


必要なものがあれば、自分が出す。


千尋が首を横に振った。


「同じではありません」


「何が?」


「前も綾乃先輩でした」


綾乃は黙った。


テーピングが足りなかったとき。


救急セットを買い足したとき。


縄跳びが切れたとき。


たしかに、自分が多く出した。


大した額ではない。


自分なら払える。


だから払った。


それだけのつもりだった。


「……次から気をつける」


「今回もです」


「はい」


美波が吹き出した。


「綾乃、千尋に怒られてんじゃん」


「怒られてない」


「怒っています」


千尋が言った。


美波が千尋を見る。


「怒ってるんだ」


「はい」


綾乃は財布から手を離した。


「分かった。三百円出す」


「最初からそうしてください」


「はい」


昨日から、人に直されてばかりな気がする。


倉庫の奥で、がさりと音がした。


男の顔に乗っていた週刊誌が少しずれる。


「何の話してんの?」


美波が振り返った。


「部費」


「ふーん」


週刊誌が戻る。


興味がなくなったらしい。


綾乃がノートへ金額を書き足していると、しばらくして奥から声がした。


「貧乏くせえな」


四人とも顔を上げた。


美波が先に反応する。


「聞いてんじゃん」


「聞こえんだよ」


男が身体を起こした。


缶酎ハイを取る。


「大学の部活だろ。学校に買わせりゃいいじゃねえか」


千尋が答えた。


「出ません」


「なんで?」


「非公認なので」


缶のプルタブへ掛けた男の指が止まった。


「何が?」


「私たちです」


男が四人を見る。


「部活じゃねえの?」


「同好会」


美波が言った。


「女子ボクシング同好会。予算ゼロ」


「は?」


男が倉庫の中を見回した。


吊ったサンドバッグ。


古いマット。


ミット。


グローブ。


壁際の救急箱。


最後に半分開いたシャッターの向こうを見る。


「あっちにボクシング部あるだろ」


「大学拳闘部です」


千尋が言った。


「同じだろ」


「違います」


即答だった。


男が千尋を見る。


「何が」


「組織が」


美波が口を挟む。


「あっちは正式な体育会。ちゃんとした練習場もあるし、監督もいるし、予算もある」


男が四人を見た。


「じゃ、お前ら何?」


「だから同好会」


「なんで別なんだよ」


「色々あんの」


「雑だな」


「説明しても興味ないでしょ」


男は少し考えた。


「ねえな」


「ほら」


美波が呆れる。


綾乃は膝の上のノートを閉じた。


「ここも正式な部室ではありません」


男が自分の下を見る。


段ボール。


古いマット。


コンクリートの床。


「倉庫じゃん」


「倉庫です」


「知ってるよ」


「学生課にお願いして、空いていた場所を借りています。掃除と管理は自分たちでやる条件で」


「へえ」


興味があるのかないのか分からない。


男が缶を開ける。


ぷしゅ、と音がした。


「じゃ、部になりゃいいだろ」


綾乃は一瞬、黙った。


簡単に言う。


「なれるなら、なってます」


「なんでなれねえの」


「人数です」


「人数?」


「申請するには、選手が五人必要なんです」


男が缶を口へ運びかけたまま止まった。


「何人いんの?」


誰もすぐには答えなかった。


男は初めて人数を確かめるように四人を見る。


綾乃。


美波。


ひまり。


千尋。


また綾乃へ戻る。


もう一回、四人を見る。


「……四人?」


「はい」


「四人しかいねえの?」


千尋の眉がわずかに動いた。


「何日ここにいるんですか」


「知らねえよ」


男は指を向けた。


「一」


綾乃。


「二」


美波。


「三」


ひまり。


「四」


千尋。


「ほんとだ」


美波が目を細める。


「今気づいたの?」


「人数なんか数えてねえよ」


「四人くらい分かるでしょ」


「動いてんだからしょうがねえだろ」


「何がしょうがないの」


男は缶を一口飲んだ。


「胸と尻なら見てたけど」


一瞬、倉庫が静かになった。


最初に飛んだのは、美波が持っていた丸めたテーピングだった。


「最低!」


男の肩へ当たる。


続いて千尋のタオル。


「不要な情報です」


ひまりも手にしていた軍手を投げた。


「先生、それは駄目です!」


「痛えな!」


軍手はほとんど痛くないはずだ。


「先生じゃねえって!」


綾乃は足元の空になったテーピング箱を拾った。


投げる。


男の胸に当たった。


「お前まで投げんの?」


「今のは最低です」


「見てただけだろ」


「口に出さなくていいんです」


「だったら見えるような――」


「続き言ったら帰ってもらいます」


綾乃が言うと、男は口を閉じた。


缶を飲む。


「固てえな」


小さく聞こえた。


無視する。


美波が床に落ちたテーピングを拾った。


「で、そういうこと。あと一人いれば申請できるんだけど、その一人がいないの」


「ふーん」


「新歓でも探したんだけどね」


男が少しだけ顔を向けた。


「来なかった?」


ひまりが苦笑する。


「体験には来てくれたんですけど」


「残らなかったんだよね」


美波が続ける。


綾乃はノートの角を指で押さえた。


新歓では、かなり声をかけた。


ポスターも貼った。


体験会もやった。


初心者でも大丈夫。


運動になる。


技術を覚えると面白い。


試合にも出られる。


説明した。


来てくれた学生もいた。


それでも、残らなかった。


人を殴る競技だ。


殴られる競技でもある。


興味を持つ人はいても、続けたい人は少ない。


だから、今も四人。


男は缶を傾けた。


「じゃ、その辺から一人拾ってくりゃいいだろ」


美波が即座に返す。


「犬猫じゃないんだけど」


「大学生だろ」


「もっと駄目でしょ」


「その辺にいっぱいいんじゃねえの?」


「ボクシングやりたい女子大生が、その辺に落ちてると思ってる?」


「知らねえよ」


「知らないなら言わないで」


男が天井を見る。


考えているようにも見える。


たぶん、何も考えていない。


「大学、何人いんの?」


ひまりが聞き返す。


「学生ですか?」


「女」


美波の顔が露骨に嫌そうになる。


「その聞き方やめて」


「何千人かいるだろ」


「まあ、いるでしょうけど」


「じゃ、いんだろ」


「何が?」


男が缶を床へ置いた。


「一人ぐらい」


綾乃は男を見る。


「どんな人ですか」


男は少し考えた。


「ムカつく奴、殴りてえ女」


数秒、誰も何も言わなかった。


美波が最初に口を開く。


「……それで勧誘する気?」


「俺がすんの?」


「しないで。絶対」


「じゃ勝手にやれよ」


男は再び段ボールへ寝転んだ。


週刊誌を顔へ乗せる。


話は終わったらしい。


ひまりが困ったように笑った。


「でも、本当にあと一人なんですよね」


「うん」


綾乃は答えた。


ノートを開く。


さっきまで備品の金額を書いていたページ。


その下の空白を見る。


五人必要。


今は四人。


足りないのは、一人。


数字だけなら簡単だった。


綾乃はペンを持つ。


空いているところへ書いた。


**あと一人**


文字を囲む。


一人見つければいい。


それだけのはずなのに。


新歓からずっと、その一人が見つからない。


美波がノートを覗き込んだ。


「探す?」


綾乃は囲んだ文字を見る。


自分たちが正式な部になるには必要だ。


だったら、やることは決まっている。


「探そう」


「どこで?」


「学内から」


「今日から?」


綾乃は少し考えた。


「明日、準備しよう」


千尋がタブレットを開く。


「募集条件を整理します」


「固くしすぎないでね」


美波がすぐ釘を刺した。


ひまりも手を上げる。


「私、ポスター作ります!」


四人の声が重なる。


倉庫の奥から、週刊誌越しに男の声がした。


「可愛いのにしろよ」


美波が丸めたテーピングを拾う。


今度は迷わず投げた。

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