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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
序章

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第4話 もっとつまらない


白石綾乃は、朝から一つの言葉が引っかかっていた。


真面目すぎ。


昨日、あの男に言われた。


美波には、避けたあとがない。


ひまりには、当たる直前に力が落ちる。


千尋には、見て、考えて、それから動くから遅い。


三人は分かる。


少なくとも、何を見てそう言ったのかは分かる。


自分だけが違った。


真面目すぎ。


さらに聞けば、


「お前のは邪魔になってる」


そこまでは言った。


何の邪魔なのか聞いたら、


「さあ」


で終わった。


講義中。


綾乃は黒板からノートへ視線を落とした。


先生が書いた式の横。


余白に、昨日から考えていたものを一つずつ書く。


フェイント。


リズム。


入り方。


同じ攻撃を続けない。


書き終えて、四つを見た。


真面目すぎる。


つまり、型通りすぎるということだろうか。


なら、型通りに見えないようにすればいい。


フェイントを増やす。


タイミングをずらす。


入り方を変える。


同じものを続けない。


直せる。


そう思ったところで、少しだけ引っかかった。


でも、何に引っかかったのかまでは分からなかった。


綾乃は四つの言葉を消さず、そのままノートを閉じた。


     ◇


放課後。


倉庫には昼間の熱が残っていた。


半分開けたシャッターから入ってくる風もぬるい。


大型扇風機の羽が回るたび、床に置いたタオルの端が揺れた。


綾乃は縄跳びを終えると、壁際の古い窓ガラスの前に立った。


うっすら自分の姿が映る。


左足を前。


顎を引く。


右拳は頬。


いつもの構え。


まず、ジャブ。


シュッ。


左拳が伸びる。


戻す。


次は左肩だけ動かす。


拳は出さない。


フェイント。


そこから右。


一歩ずれて、また左。


今度はすぐには出さない。


半拍待つ。


朝、ノートへ書いた通り。


フェイント。


リズム。


入り方。


同じものを続けない。


「何してんの?」


後ろから美波の声がした。


綾乃は拳を戻した。


「ちょっと試してる」


「何を?」


「変化」


「急だね」


「そう?」


美波はタオルで首元を拭きながら近づいてきた。


「綾乃がそういうの、わざわざやるの珍しくない?」


口元が笑っている。


嫌な予感がした。


「昨日のおじさん?」


「違う」


「まだ名前も知らない人の一言、めっちゃ気にしてんじゃん」


「気にしてない」


「じゃあ、なんで今日だけフェイント増やしてんの?」


綾乃は答えなかった。


美波の笑みが深くなる。


「図星」


「やる?」


「誤魔化した」


「やるの?」


「はいはい」


二人でグローブをつけた。


向かい合う。


強く当てない。


いつもの軽いマス。


美波が両手を上げた。


「どうぞ」


綾乃も構えた。


     ◇


まず、ジャブ。


美波の頭が右へ外れる。


すぐ右。


届かない。


なら次は打たない。


綾乃は左肩だけを動かした。


美波の頭がわずかに反応する。


今。


右。


けれど、美波は半歩下がった。


拳が届く前に距離が消える。


綾乃は追った。


次はジャブ。


その次は少し待つ。


フェイント。


左へ動く。


また違う入り方。


同じものを見せない。


さっき使ったものは続けない。


美波の目。


前足。


肩。


次は――


「綾乃」


「何?」


「今日、忙しくない?」


綾乃の拳が止まった。


「何が?」


「いや、なんとなく」


美波が肩をすくめる。


「いつもより、やること多いなあって」


「だから、変えてるの」


「うん。それは分かる」


美波はまた構えた。


「でもさ」


「何?」


「次は違うことするんだろうなって、なんか分かる」


綾乃は黙った。


違うことをしているのに。


違うことをする、と読まれている。


それでは意味がない。


「もう一回」


「はいはい」


今度はジャブを二つ続ける。


一発。


二発。


次は右。


その次は一歩入って――


フェイントを。


「……なげえ」


倉庫の奥から声がした。


綾乃の足が止まった。


いた。


古いマットを積んだ壁際。


その下に段ボールを敷いて、あの男が寝転がっている。


作業着の上着を丸めて枕にしていた。


横にはコンビニ袋。


ワンカップ。


いつ来た。


「いつからいたんですか」


「あ?」


男が片目だけ開けた。


「寝てた」


「そうじゃなくて」


「ここ日陰なんだよ」


「大学の倉庫です」


「知ってる」


「勝手に寝ないでください」


「床借りてねえだろ」


「寝てる時点で借りてます」


「細けえな」


向こうから、ひまりが手を振った。


「先生、おはようございます!」


「先生じゃねえ」


そこだけは寝起きでも早かった。


千尋がタブレットから目を上げずに言う。


「十分ほど前からいました」


男が千尋を見る。


「起きてたの?」


美波が聞いた。


「うるせえな」


男が身体を起こした。


そして、美波を見る。


顔。


胸。


腰。


そのまま下まで。


美波の目が細くなった。


「今、どこ見た?」


「別に」


「下まで見たよね?」


「見えるんだからしょうがねえだろ」


「何がしょうがないの?」


男は美波の脚から尻へもう一度視線を戻した。


「いいケツしてんなって」


美波がタオルを投げた。


「最悪!」


男は顔の前で受けた。


「危ねえな」


「避けろ!」


「酒こぼれんだろ」


「そっち!?」


綾乃は息を吐いた。


昨日、三人の動きを正確に見抜いた人間と同じとは思えない。


男は顔に乗ったタオルを取る。


床へ落とす。


拾わない。


ワンカップを取る。


一口飲む。


それから、綾乃を見た。


「で」


「何ですか」


「まだやんの?」


「何をですか」


男が顎を動かした。


さっきまで二人がマスをしていた場所。


「それ」


「練習です」


「ふうん」


男はもう興味をなくしたように目をそらした。


綾乃の眉が寄る。


「さっき、長いって言いましたよね」


「知らね」


「言いました」


「寝言じゃね」


「起きてたでしょう」


「起きていました」


千尋が言った。


男が顔をしかめる。


「お前、そういうのだけ覚えてんの?」


「事実です」


「めんどくせえな」


綾乃は男へ一歩近づいた。


「何が長いんですか」


「知らねえって」


「見てたから言ったんですよね」


「目の前でやってりゃ見えるだろ」


「なら教えてください」


「やだよ」


まただ。


見えている。


口にも出す。


でも、その先は言わない。


綾乃は少し待った。


本当に何も言わない。


「……分かりました」


「おう」


綾乃は美波へ戻った。


「もう一回」


「まだやる?」


「やる」


美波が苦笑する。


「はいはい」


向かい合う。


綾乃は考えた。


長い。


なら、短くする。


やることを減らす。


ジャブ。


右。


そこで一度切る。


次はフェイントから。


美波が反応する。


左へ。


もう一発。


避けられた。


なら次は――


「ああ」


男の声がした。


無視する。


ジャブ。


右。


外へ出る。


入り直す。


「もっとつまんなくなったな」


足が止まった。


「……は?」


自分でも驚くほど低い声が出た。


美波が拳を下ろした。


「おお」


「何」


「いや。綾乃が普通に怒った」


「怒ってない」


「その声で?」


綾乃は男を見た。


男はコンビニ袋から出したイカの足をくわえていた。


「昨日」


「ん?」


「真面目すぎるって言いましたよね」


「知らね」


「言いました」


「じゃあ言ったんじゃねえの」


「だから、変えたんです」


「何を」


「見てたでしょう」


男はイカを噛みながら綾乃を見る。


「フェイントも増やしました。タイミングも変えました。同じ入り方も続けないようにしてます」


「ああ」


「さっき長いって言われたから、今度は減らしました」


「うん」


「なのに、もっとつまらないって」


「うん」


「何でですか」


男はイカを噛んだ。


返事をしない。


「何でですか」


「知らねえよ」


「知らないのに言ったんですか」


「つまんねえから、つまんねえって言っただけだろ」


綾乃の奥歯が少し噛み合った。


「技術の話をしてるんです」


「してねえよ」


「じゃあ、何の話なんですか」


「知らね」


男は酒を飲んだ。


腹が立つ。


人のボクシングを勝手に見て。


勝手に何か言って。


聞けば何も教えない。


「駄目なんですか」


男の目だけが綾乃へ戻った。


「何が」


「今のやり方です」


「駄目とは言ってねえだろ」


綾乃は黙った。


それは予想していなかった。


駄目ではない。


「じゃあ、何を直せばいいんですか」


「知らねえって」


「でも――」


「俺がやんの?」


「え?」


「お前の試合」


綾乃の口が止まった。


男はイカをもう一本取った。


「誰がやんの」


「……私です」


「じゃ、自分でやれよ」


終わり。


男にとっては、本当にそれで終わりらしい。


またイカを噛み始めた。


綾乃は動けなかった。


駄目ではない。


技術がないとも言われていない。


なのに。


もっとつまらない。


悪いところなら直せる。


足りないものなら足せる。


だから朝から考えた。


フェイント。


リズム。


入り方。


同じものを続けない。


さっき長いと言われたから、今度は減らした。


言われたものに合わせて。


一つずつ。


正しく。


「綾乃?」


美波に呼ばれた。


「……何?」


「続ける?」


「うん」


構える。


美波も構えた。


綾乃はジャブを出す。


美波が外す。


次。


右。


いや。


さっき右を出した。


なら、フェイント。


でもフェイントも使った。


タイミングをずらすか。


それとも――


美波の左グローブが、額へ軽く触れた。


「はい、一本」


綾乃は瞬きをした。


「……ごめん」


「今日の綾乃、ほんと変」


美波が笑う。


責めているわけではない。


その方が、余計に引っかかった。


綾乃は自分のグローブを見る。


六年。


高校からずっと、こうやってきた。


悪いところを探す。


直す。


足りなければ足す。


できるまで繰り返す。


それで上手くなった。


だから今日も同じことをした。


真面目すぎると言われたから。


真面目すぎなくなる方法を探した。


綾乃は視線を落とした。


朝、ノートに書いた四つが頭に浮かぶ。


フェイント。


リズム。


入り方。


同じものを続けない。


また、項目にしていた。


「……そういうこと?」


口から出た。


美波が首をかしげる。


「何が?」


「ううん」


分かったわけではない。


ただ。


分からないと言われたものまで、正しい直し方を探している。


そこだけは、少し見えた。


倉庫の奥を見る。


男はもう横になっていた。


「先生」


「先生じゃねえ」


返事だけはすぐ来た。


「一つだけいいですか」


「やだ」


「まだ何も聞いてません」


「聞く顔してんだろ」


綾乃は少し黙った。


それから聞いた。


「……帰るとき、起こした方がいいですか」


男が黙った。


美波が吹き出す。


「そこ?」


「放って帰ったらまずいでしょ」


「さすが綾乃」


「何が」


「そういうとこ」


「どういうとこ?」


美波は笑うだけだった。


倉庫の奥から声がする。


「うるせえ。寝かせろ」


「だったら帰ってください」


「日陰なんだよ、ここ」


「知りません」


綾乃はもう一度、美波の前へ立った。


構える。


今度はすぐに拳を出さなかった。


何を出すか。


正しいものを探しかけて。


やめた。


美波を見る。


足を見る。


距離を見る。


まだ答えは分からない。


分からないままで、次を選ぶ。


今日は、それでいい。


たぶん。

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