第3話 偶然じゃない
雨宮千尋は、偶然をあまり信用しない。
一回なら、たまたま。
二回なら、まだ分からない。
三回続いたら、理由を探す。
昨日、作業着の男は綾乃の鼻先で拳を止めた。
速かった。
けれど、千尋が気になったのは速さではない。
止まった位置だった。
綾乃は、男が近づいたときに半歩下がった。
その位置から、拳は鼻に触れないところで止まった。
近すぎない。
遠すぎない。
数センチ。
偶然でもできる。
一回なら。
だから今日、千尋は確かめることにした。
◇
「なんでまたいるんですか?」
美波が言った。
「知らね」
「いや、いるじゃん」
「見りゃ分かんだろ」
「そういう意味じゃなくて」
倉庫の壁際。
昨日と同じパイプ椅子に、男が座っていた。
作業着。
出た腹。
薄い頭。
そして今日もカップ酒。
脚を広げ、背もたれに身体を預けている。
誰かに呼ばれた様子はない。
綾乃が連れてきたわけでもない。
なのにいる。
理由は不明。
「いいねえ。若い女が汗かいてんの見ながら飲む酒」
「帰ってください」
綾乃が即答した。
「来たばっかだぞ」
「頼んでません」
「固てえなあ、お前」
男はカップ酒を傾けた。
視線が綾乃の顔から下へ落ちる。
胸。
腰。
そこから脚。
綾乃の眉間にしわが寄った。
「どこ見てるんですか」
「見えるとこ」
「最低です」
「知ってる」
そう言って、また酒を飲む。
そのやり取りに意味はない。
少なくとも、今の千尋には。
昨日、綾乃にボクシングを教えてほしいと言われて、男は即答で断った。
それなのに、また来た。
その理由も今は保留でいい。
千尋はタブレットを起こした。
確認したいことがある。
「美波さん。お願いします」
「ん? 私?」
「はい。綾乃さんと軽く」
「了解」
美波が両方のグローブを一度合わせた。
綾乃も構える。
距離は腕一本より少し遠い。
軽いマス。
強く当てる練習ではない。
千尋は壁際から二人を見る。
美波の長所は分かっている。
反応が速い。
綾乃の左肩が動く。
ジャブ。
美波の頭が右へ外れた。
綾乃が前足を詰める。
右。
美波は半歩下がる。
拳だけが前を通った。
ひまりが横で声を上げる。
「美波先輩、今日も速いですね!」
「今日も、ね」
美波が笑った。
二人の距離がいったん開く。
千尋はタブレットへ一つ記録した。
綾乃がまた入る。
左。
美波が外す。
右。
今度は左へ逃がす。
当たらない。
三回。
四回。
五回。
でも、そのあとがない。
綾乃が打つ。
美波が避ける。
距離が開く。
また綾乃が入る。
そこで一組になっている。
美波はほとんど触られていない。
ただ、自分からも触っていない。
「……脚はいいな」
男が言った。
千尋は画面から目を上げた。
男の視線は、美波の脚にあった。
美波も気づいたらしい。
一度距離が切れたところで振り返る。
「どこ見てんの」
「脚」
「そのまんまじゃん」
「よく動くなと思って」
「今のはボクシングの方?」
「半分」
「半分なんだ」
美波が呆れた顔で構え直す。
綾乃の左。
美波が外へずれる。
今度も返さない。
男がカップ酒を口へ運んだ。
「でも、そっから何もねえな」
美波の足が止まった。
綾乃も拳を下ろす。
「え?」
「避けたあと」
「……何もない?」
「俺に聞くなよ」
「今言ったじゃん」
「見てりゃ分かんだろ」
美波が綾乃を見る。
「私、何もない?」
綾乃は少し考えた。
「返すのは少ないかも」
「綾乃まで」
千尋はタブレットへ打ち込んだ。
『回避後の攻撃が少ない』
自分も同じところを見ていた。
避ける技術ではない。
その次。
昨日、男はひまりの右を見た。
あれだけなら、まだ分かりやすい。
ひまりのパンチは重い。
ミットを持てば誰でも分かる。
今は違う。
美波が得意なことではなく、その直後に欠けているものを見た。
千尋が数えていたものと同じだった。
一つ目。
まだ偶然でいい。
◇
次は、ひまりがサンドバッグの前に立った。
足を肩幅より少し広く置く。
左足が前。
右拳を頬の横へ上げる。
「いきます!」
右。
ドンッ。
サンドバッグが大きく奥へ逃げた。
遅れて鎖が鳴る。
ガシャッ。
戻ってくる。
ひまりが前腕で受け止め、また距離を作った。
「もう一発!」
右足で床を押す。
腰が回る。
右肩が前へ出る。
ドンッ。
また大きく揺れた。
重い。
四人の中では明らかに一番。
測定器はない。
数値にはできない。
でも、ミットを持ったときの衝撃と、バッグが逃げる幅を見れば差は分かる。
男がカップを持ったまま、サンドバッグを見ていた。
「ん?」
美波が振り向く。
「何?」
「いや」
「今なんか言った?」
「言ってねえ」
ひまりが戻ってくるバッグを押さえる。
揺れが小さくなるのを待つ。
もう一度構えた。
三発目。
右足。
腰。
肩。
拳。
そこまでは二発目とほとんど同じだった。
でも。
当たる直前。
拳の速度が、少し落ちた。
ほんの少し。
バッグはまた揺れた。
音も大きい。
普通に見れば強打だった。
「……ああ」
男が言った。
千尋は男を見る。
同じところだった。
ひまりが振り向く。
「何ですか?」
「最後、抜いてんのか」
「え?」
「力」
ひまりが自分の右手を見る。
「抜いてます?」
「俺に聞くなよ。お前の身体だろ」
「でも、自分では普通に打ってるつもりです」
男は面倒そうにサンドバッグを顎で示した。
「当たるとこだけ軽くなってんじゃん」
ひまりがバッグを見る。
「ほんとですか?」
「知らね」
「今言いましたよね?」
「見えたまんま言っただけ」
ひまりは右拳を開いて、また握った。
千尋も三発目を思い返す。
途中までは落ちていない。
足も腰も使っている。
最後。
拳がバッグへ触れる直前だけ。
わずかに減速した。
理由は分からない。
男も理由までは言っていない。
そこへ、男の視線がひまりの拳から胸へ移った。
数秒止まる。
「まあ、そっちは十分重そうだけどな」
ひまりが自分の胸元を見てから、顔を真っ赤にした。
「どこ見てるんですか!」
「身体の話だろ」
「絶対違います!」
美波が声を上げて笑う。
綾乃がため息をついた。
千尋は笑わなかった。
今の発言はどうでもいい。
その前。
自分が見落としていた一瞬を、男は見ていた。
二つ目。
偶然という言葉が、少し使いにくくなった。
◇
「次、私がやります」
千尋はタブレットをベンチに置いた。
グローブをはめる。
「千尋?」
綾乃がこちらを見る。
「お願いします」
「私でいいの?」
「はい」
相手は綾乃にした。
条件を増やしたくない。
何度も手を合わせている。
距離も、癖も、ある程度知っている。
比較しやすい。
二人で向かい合う。
綾乃の左足が前へ出る。
千尋も構えた。
「始めるよ」
「はい」
綾乃の左肩が動く。
ジャブ。
千尋は外へずれる。
次。
綾乃の前足が数センチ入る。
左肩。
腰。
右肩。
ジャブか。
右か。
フェイントか。
候補は三つ。
右。
そう判断したときには、綾乃の拳が近かった。
千尋は両手を上げる。
パンッ。
グローブの上から衝撃が来た。
遅れた。
次は取る。
綾乃の目。
肩。
前足。
腰。
どれを見る。
肩。
左。
そう決めて頭を動かそうとした。
先にジャブが額へ触れた。
「遅えな」
後ろから声がした。
千尋は振り向かない。
綾乃がまた来る。
前足。
距離が縮まる。
肩。
腰。
足。
右か。
左か。
フェイントか。
右へ――
パンッ。
また先に左を触られた。
千尋は一歩下がった。
「はい、そこまで」
綾乃が拳を下ろす。
「もういいの?」
「はい」
千尋も構えを解いた。
息はほとんど上がっていない。
三回。
全部、判断が終わるより先に綾乃の拳が来た。
千尋はグローブを外しながら、壁際を見る。
男はこちらを見ていた。
「何が遅いんですか」
「あ?」
「さっき言いました。遅いって」
「ああ」
男はカップ酒を膝の上へ置いた。
「お前、見てから動いてんだな」
「普通では?」
「知らねえけど」
「では、何が悪いんですか」
「見て」
男が指を一本立てた。
「考えて」
二本目。
「それから動く」
三本目は出なかった。
面倒になったらしい。
「その間に殴られてんじゃん」
千尋は黙った。
「さっきも、何来るか考えてただろ」
「はい」
「当たってから答え出してどうすんの」
男はカップ酒を取った。
それだけだった。
千尋は自分の手を見る。
観察する。
情報を分ける。
可能性を比べる。
判断する。
動く。
順番は間違っていない。
今までも、そうやってきた。
ただ。
リングの中では、相手も動いている。
自分が考えている間も。
時間は止まらない。
美波。
避けたあとがない。
ひまり。
当たる直前に力が落ちる。
自分。
見て、考えて、動くまでが遅い。
三つ。
全部、自分でも確認できた。
千尋は男を見る。
一回なら、偶然。
二回なら、まだ疑える。
三回。
「あなた……何者ですか」
男が眉を寄せた。
「日雇いのバイト」
「そういう意味ではありません」
「じゃ何」
「ボクシングです」
「してねえよ」
「今は、ですよね」
男の目が少し細くなった。
「細けえな」
それだけだった。
千尋は返さない。
今の否定の仕方も記憶しておく。
横で綾乃が小さく息を吐いた。
「じゃあ、私は?」
男が綾乃を見る。
まず顔。
次に胸。
腰。
脚。
順番に落ちていく。
綾乃の目つきが変わった。
「……脚かな」
「どこを評価してるんですか」
「聞いたのお前だろ」
「ボクシングの話です」
「ああ、そっち?」
「そっち以外に何があるんですか」
男はカップ酒を傾けた。
今度は綾乃の身体を、さっきとは違う見方で追う。
左足。
腰。
肩。
構えた拳。
「真面目すぎ」
「またそれですか」
「また?」
「昨日も似たこと言いました」
「覚えてねえ」
「私は覚えてます」
「真面目だなあ」
綾乃の眉が寄る。
「それの何が悪いんですか」
「別に悪かねえよ」
「じゃあ」
「でも、お前のは邪魔になってる」
綾乃が黙った。
「何にですか」
「さあ」
「そこまで言っておいて?」
「考えろよ。得意だろ、そういうの」
男はまた酒を飲んだ。
説明する気はないらしい。
その横から、ひまりが手を上げた。
「先生!」
「先生じゃねえ」
「もう一回だけ見てください!」
「何で」
「最後まで力抜かないで打ってみます!」
「勝手にやれよ」
「見ててください!」
「嫌だよ」
「お願いします!」
「しつけえなあ」
ひまりはもうサンドバッグの前に立っている。
「いきます!」
「聞けよ、人の話」
右足が床を押す。
腰。
肩。
拳。
ドンッ。
サンドバッグが大きく揺れた。
鎖が鳴る。
男の口が止まった。
ほんの一瞬。
さっきまでひまりの胸を見ていた目が、拳の当たった場所へ移る。
そこからバッグの揺れ。
ひまりの右肩。
足。
千尋は、その視線を見ていた。
先生ではないと言う。
教える気もないと言う。
聞かれても、だいたい面倒そうに逃げる。
若い女を見ながら酒を飲めると平気で言う。
それでも。
ボクシングを見るときだけ、見落とさない。
千尋はベンチに置いたタブレットを取った。
画面を開く。
一つ。
二つ。
三つ。
三つでは、まだ足りない。
もう少し見る。




