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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
序章

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第2話 再現


翌日の午後、綾乃は駅前のコンビニで、昨日の男を見つけた。


見間違えるはずがなかった。


作業着。


出た腹。


薄い頭。


そして、昼間からカップ酒。


「……いた」


思わず声が出た。


男は店の脇にある低い柵へ寄りかかっていた。片手にカップ酒。もう片方の手には、つぶした煙草の箱。


昨日と同じだった。


強そうには見えない。


むしろ、近づかない方がいい人に見える。


綾乃は歩道の端で立ち止まった。


昨日から、何度も考えた。


見間違いだったのかもしれない。


バッグの中身が、たまたま偏っていたのかもしれない。


あの音も、自分がそう聞いただけかもしれない。


男が帰ったあと、自分でも何度も同じように打った。


同じ音はしなかった。


ひまりの右だって、何度も見ている。


重い。


自分よりずっと重い。


でも、ひまりが打てばバッグは大きく揺れる。


昨日の男の一発は、それとは違った。


綾乃は男を見る。


昨日見たものを確認したい。


それだけだった。


教えてほしいわけじゃない。


そもそも、この人がボクサーなのかどうかも分からない。


ただ、昨日の一発が偶然だったのか。


それだけは知りたかった。


綾乃は男の前まで歩いた。


「すみません」


「あァ?」


男が顔を上げた。


近づいた瞬間、酒と煙草の臭いが来た。


少し後悔した。


「昨日、大学の倉庫にいましたよね」


「大学?」


「倉庫です」


「知らね」


「サンドバッグを殴りました」


男はカップ酒を口へ運んだ。


「覚えてねえな」


「左で、一発だけ」


「だから覚えてねえって」


「でも――」


「声でけえよ」


男が眉をしかめた。


綾乃は口を閉じた。


横を通った二人組の学生が、ちらりとこちらを見る。


昼間から酒を飲んでいる作業着姿の男と、その前に立っている女子大生。


確かに目立つ。


男は舌打ちした。


「場所変えろ」


「はい」


「なんでお前が返事すんだよ」


「え?」


「……もういい」


男は残っていた酒を飲み干した。


     ◇


「……どこだ、こりゃ」


倉庫の前まで来て、男が言った。


綾乃は振り返った。


「昨日、あなたがいた場所です」


「そうだっけか……」


本当に覚えていないらしい。


美波たちは、すでに練習を始めていた。


扉を開けると、ミットを打つ音が続けて響く。


パン、パンッ。


美波が先に気づいた。


「綾乃、その人だれ?」


「昨日ここにいた人です」


「昨日?」


千尋の手が止まる。


ひまりもグローブを下げた。


三人の視線が男へ集まった。


男は気にした様子もなく、倉庫の中を見回した。


「暑いな」


「そこですか?」


美波が言った。


「暑いだろ」


「暑いですけど」


綾乃はサンドバッグを指した。


「昨日、あれを殴りましたよね」


「だから知らねえって」


「もう一度、やってもらえませんか」


「やだよ」


即答だった。


「確認したいんです」


「何を」


「昨日の一発をです」


男が綾乃を見る。


「知らねえ女に、昨日の一発とか言われても怖えよ」


「言い方」


美波が吹き出した。


綾乃には、何が可笑しいのか分からなかった。


「サンドバッグです」


「分かってるよ」


「じゃあ、お願いします」


「なんでだよ」


男は壁際に置いてあったパイプ椅子を開いた。


勝手に大股で座る。


作業着のズボンのチャックが開いていた。


綾乃は見なかったことにした。


「帰らないんですか」


「連れてきたのお前だろ」


それはそうだった。


美波が小さく笑う。


「綾乃、負けてるよ」


「負けてません」


「何の勝負?」


「してません」


男はもう聞いていなかった。


ひまりがミットの前へ戻る。


「続けます?」


「うん」


練習を止める理由もない。


綾乃はミットを持った。


ひまりが構える。


パンッ。


右が重い。


もう一発。


パンッ。


受ける腕まで響く。


「……でけえな」


後ろから声がした。


綾乃が振り返る。


男は椅子に座ったまま、ひまりを見ていた。


正確には、ひまりの胸元を見ていた。


「何がですか?」


ひまりが首をかしげる。


「胸」


「そこですか!?」


美波が吹き出した。


「最低」


綾乃が言うと、男は面倒そうに手を振った。


「あと、右」


「……右?」


「重いな、それ」


ひまりが自分のグローブを見る。


「ほんとですか?」


「知らね。独り言」


「今、普通に答えましたよね」


「酒飲んでるおっさんの独り言を真に受けんなよ」


男は空になったカップを傾けた。


何も出なかった。


綾乃は少しだけ迷ってから、ミットを外した。


「私と一回、やってください」


「やらねえ」


「殴り合いじゃありません」


「もっとやらねえ」


美波が口元を押さえた。


「綾乃、今日ずっと言い方が危ない」


「普通に言ってます」


「普通だから危ないんだって」


綾乃は無視した。


「昨日の一発が、本当にあなたのものなのか確認したいだけです」


男が面倒そうに頭をかいた。


「まだ言ってんのか」


「はい」


「しつけえな」


「よく言われます」


「言われんのかよ」


男の眉が少しだけ動いた。


そこだけ引っかかったらしい。


男は立ち上がった。


「一回だけな」


綾乃の背筋が伸びる。


「はい」


「その返事やめろ。先生みてえで気持ち悪い」


「まだ先生とは言ってません」


「まだって何だよ。まだって……」


男が顔をしかめた。


綾乃はサンドバッグへ向こうとした。


「そっちじゃねえ」


「え?」


「昨日のが俺か知りてえんだろ」


「はい」


「なら、見てろ」


男が綾乃の前に立った。


近い。


綾乃は反射的に半歩引いた。


「何するんですか」


「殴る」


「は?」


「だから動くな」


「無理です」


綾乃が構えかけた。


その瞬間、男の右手が動いた。


速い。


そう思ったときには、拳が目の前にあった。


「――っ」


鼻先に風が触れた。


肩が跳ねる。


当たる。


そう思った。


けれど、拳は止まっていた。


鼻先。


触れていない。


ほんの少し前。


男の拳だけが、そこにある。


綾乃は息を止めた。


踏み込んだようには見えなかった。


大きく肩を回したわけでもない。


出だしは見ていた。


なのに、途中が抜けた。


しかも。


止まっている。


鼻に触れる寸前で。


寸止め自体なら知っている。


マスでもやる。


最初から当てないと決めたパンチなら、速度を抑えることもできる。


でも、今のは違った。


少なくとも綾乃には、途中で速度を殺したようには見えなかった。


速いまま来た。


それが、最後だけ止まった。


「……今の」


「見ただろ」


男は拳を引いた。


何でもないことをしたみたいに。


「もう一回」


「い。や。だ。よ」


「お願いします」


「一回は一回っつったろ」


綾乃は動けなかった。


昨日は、サンドバッグが沈んだ。


今日は、自分の鼻の前で止まった。


強く打てる人なら知っている。


速い人も知っている。


当てないパンチも知っている。


でも、あの速さで鼻先まで来た拳を、何でもないように止める人を、綾乃は知らなかった。


偶然ではない。


昨日の一発も。


今の一発も。


この男は、自分が何をしているのか分かっている。


綾乃は男を見た。


出た腹。


薄い頭。


酒の匂い。


見れば見るほど、分からない。


「……教えてもらえませんか」


男が眉を寄せた。


「何を」


「ボクシングです」


「やだよ」


また、即答だった。


美波が吹き出す。


ひまりまで笑った。


千尋だけは笑っていなかった。


男の右手を見ていた。


綾乃も同じところを見た。


昨日、倉庫で見つけたときは、ただの酔っ払いにしか見えなかった。


今は、もうそうは見えない。


何者なのかは、まだ分からない。


でも、一つだけ分かった。


この人は、ボクシングを知っている。

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