第1話 何者だ
倉庫を出た瞬間、綾乃はようやく息をついた。
九月になっても、夕方の空気はまだぬるい。
首の後ろに張りついた髪を指で浮かせて、ポニーテールを結び直す。練習中は気にならないのに、終わった途端、汗が急に重くなる。
「お疲れー」
少し前を歩いていた美波が振り返って手を振った。
「お疲れさまです」
「明日も同じ時間ね」
「はい」
四人で駅の方へ歩き出した。
大学の敷地を出た先にある古い倉庫は、夕方になると急に静かになる。
講義棟からは離れているし、体育館からも遠い。窓を開ければ虫が入る。雨の日は少し湿る。夏は暑く、冬は寒い。
最初に使っていいと言われたときは、正直、倉庫そのものだと思った。
今は違う。
ミットを置く棚があって、縄跳びを掛ける釘があって、床には何度拭いても消えない靴跡がある。
四人で買ったサンドバッグもある。
リングもシャワーもないけれど、自分たちの場所だった。
そこから十分ほど歩いたところで、綾乃は足を止めた。
「あ」
スポーツバッグを開く。
タオル。水筒。財布。
バンテージがない。
棚の上だ。
自分で置いたところまで思い出せた。
「ごめん、先に行ってて」
綾乃が足を止めると、美波が振り返った。
「忘れ物?」
「バンテージ。棚の上」
「りょーかい。明日ね」
ひまりが手を振り、千尋も軽く会釈した。
三人が先へ歩いていく。
綾乃は小さく息を吐いて、来た道を戻った。
明日も使う。買い直すようなものでもない。
倉庫が見えてきたところで、足が止まった。
中から音がした。
ガタン。
金属が床に当たったような音。
綾乃は眉を寄せた。
全員帰ったはずだ。
照明も消した。
もう一度。
「……邪魔だな」
男の声だった。
綾乃はバッグからスマートフォンを出した。
酔っているような声。
大学の施設とはいえ、ここまで来れば人通りはほとんどない。
警備室に連絡した方がいい。
そう思いながら扉へ近づく。
「こんなとこに吊るしてあっからだろ……」
何の話をしているんだろう。
綾乃は取っ手に手を掛けた。
いきなり開けるのはやめた。
ほんの少しだけ。
隙間から中を見る。
最初に目に入ったのは、腹だった。
作業着の上からでも分かるくらい出ている。
その上に、汗で濡れたシャツ。
薄くなった頭。
赤い顔。
片手には小さなカップ酒。
綾乃は扉を少し戻した。
――酔っ払いだ。
どう見ても、警備を呼ぶ方の人だった。
男はサンドバッグに片手をついていた。
足元には倒れたパイプ椅子。
どうやらつまずいて、サンドバッグにぶつかったらしい。
「お前が悪い」
サンドバッグに言っている。
綾乃はスマートフォンの画面を開いた。
そのとき。
「邪魔だっつってんだろ」
男が左手を上げた。
綾乃の目が、そこで止まった。
構えない。
顎も引かない。
肩も入らない。
膝もほとんど沈まない。
拳を作る気配すらない。
体重を移す準備もない。
ただの酔っ払いが、手近なものに八つ当たりで腕を振った。
ボクシングを六年やってきた綾乃の目には、そうとしか見えなかった。
拳がサンドバッグに触れる。
ドッ。
綾乃の指が止まった。
音が違った。
自分たちがいつも聞いている、バン、という音ではない。
もっと低い。
短い。
奥で鳴ったような音。
サンドバッグは、大きく揺れなかった。
そこがおかしい。
強く打てば、普通はバッグごと逃げる。
ひまりが打ったときも、自分が右を打ったときもそうだった。
なのに、今の一発は違った。
バッグ全体が動くより先に、男の拳が当たった場所だけが、深く沈んだ。
一瞬だけ、革の胴が折れた。
くの字に。
逃げるより先に、中へ押し込まれたみたいに。
遅れて、梁が鳴った。
ギィッ。
「……え」
声が漏れた。
綾乃は慌てて口を押さえた。
男は振り返らない。
聞こえていないらしい。
自分の拳を見て、手をぶらぶら振る。
「固てえな、これ」
綾乃は思わずサンドバッグを見た。
固いのは、そっちじゃない。
あのバッグは重い。
届いた日に、四人で運んだ。
ひまりが笑いながら「これ、本当に吊るせます?」と言ったのを覚えている。
梁に金具を通すのにも苦労した。
それを。
構えもしない。
踏み込みもしない。
酒に酔った、腹の出た男が。
ほんの少しの距離から打った。
綾乃はもう、スマートフォンの画面を見ていなかった。
男はまた酒を飲んだ。
「帰るか」
誰に言うでもなくつぶやいて、裏口へ向かう。
途中で棚に肩をぶつけた。
「いて」
綾乃は目を瞬いた。
ますます分からない。
さっきの一発と、今の男が同じ人間に見えない。
裏口が閉まった。
少し待ってから、綾乃は倉庫へ入った。
古い革の匂い。
汗。
そこに、知らない酒の匂いが混ざっている。
「……最悪」
そう言いながら、倒れた椅子を起こした。
それからサンドバッグの前へ立つ。
男が打った場所を指で押す。
もう元に戻っていた。
破れていない。
中身も偏っていない。
綾乃は一歩下がった。
構えを作る。
いつもの距離。
ジャブ。
バン。
バッグが揺れる。
戻ってくる。
今度は右。
床を押す。
腰を回す。
肩まで繋げる。
バンッ。
さっきより大きく揺れた。
でも違う。
「……違う」
威力じゃない。
そんな気がした。
もう一度、今度は男の真似をする。
大きく引かない。
踏み込まない。
短く。
ポン。
情けない音がした。
サンドバッグが、わずかに向こうへ逃げる。
拳の表面が少し痛んだ。
次の瞬間、バッグが戻ってきた。
「わっ」
とっさに腕を出す。
受け止めるつもりだった。
けれど、重さに押されて足がほどけた。
身体ごと後ろへ弾かれる。
たたらを踏んで、二歩、三歩。
どうにか転ばずに止まった。
綾乃はサンドバッグを見た。
さっきの男が打ったときは、こんなふうに戻ってこなかった。
低い「ドッ」という音とも、似ても似つかない。
あれは、表面を叩いた音じゃなかった。
綾乃は眉を寄せた。
「なんで?」
自分より強い選手は、いくらでも見てきた。
速い人もいる。
重い人もいる。
距離が上手い人もいる。
それなら分かる。
これは、分からない。
綾乃はもう一度、拳を作った。
さっきの男は肩を引いていなかった。
腰も、ほとんど回していない。
力んでもいなかった。
なのに、バッグの中だけが沈んだ。
見間違いだったのか。
酔っ払いが偶然、変なところへ当てただけなのか。
綾乃はそう考えてから、すぐ首を振った。
偶然で、あんな音になるだろうか。
棚の上に白いバンテージが見えた。
「あ」
本来の目的を思い出す。
手に取って、バッグへしまう。
照明を消した。
扉を閉める前に、一度だけ振り返った。
いつものサンドバッグが、暗がりにぶら下がっている。
毎日見ている。
毎日打っている。
なのに今は、さっきまでと同じものには見えなかった。
作業着。
出た腹。
薄い頭。
カップ酒。
どう見ても、強いボクサーには見えない。
それでも、あの一発だけが頭から離れなかった。
自分が知っている強いパンチとは、何かが違った。
綾乃は扉を閉めた。
帰り道。
信号を渡っても。
駅前まで来ても。
考えていたのは、一つだけだった。
――あの男。
何者だ。
あくまでも、フィクションです(*'ω'*)




