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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
第4章

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第41話「名前の横の数字」

対戦相手の名前より先に、数字を見てしまった。


 六戦五勝。


 雨宮千尋は、ノートパソコンの画面に顔を近づけた。


 大学の図書館。授業が終わってから立ち寄った閲覧席で、大会の組み合わせ表を開いたところだった。


 自分の名前は、女子51kg級の一回戦にあった。その向かいに、知らない大学の選手がいる。


 名前を検索すると、過去の大会結果がいくつか出てきた。


 六戦五勝。一度だけ負けている。


 地区大会での入賞歴もある。


 千尋は検索結果を別のタブで開き、ノートに書き写した。


 五勝という数字は悪くない。むしろ、大学の大会に出てくる選手としては警戒すべき実績だ。


 その少し下には、シード選手の名前もある。勝ち上がれば、どこかで当たる可能性があった。


 そこまで確認して、千尋は自分の名前に目を戻した。


 同じ表に並んでいるのに、相手の方がずっと立派に見える。


 そんなはずはない。


 実際に戦ったわけでもないのだから。


 千尋はペンの先をノートに押し当てた。


 分かっている。


 戦績は、今の強さをそのまま示すものではない。相手にした選手も、試合の内容も違う。過去に勝った回数だけでは、次の試合の結果は決まらない。


 それなのに、画面を閉じようとすると、もう一度その数字を見てしまう。


 六戦五勝。


 気づけば、ノートに二重線を引いていた。


◇


「千尋、組み合わせ出たんだって?」


 練習場へ入ってきた美波が、開いたままのノートを覗き込んだ。


「はい。綾乃先輩には共有しました」


「私のも?」


「あります。ただ、過去の対戦記録を確認できた選手と、そうでない選手がいます」


「じゃあ、私の相手は?」


「あとで一緒に確認しましょう。今は自分の試合について調べています」


「はいはい。真面目だねえ」


 美波は笑いながら、リングの方へ歩いていった。


 千尋はノートを閉じかけて、やめた。


 相手の公開映像はまだ見つかっていない。


 過去に出場した大会の結果は確認できても、どんな距離で戦う選手なのか分からなかった。


 映像がないなら、現時点で判断できるのはここまでだ。


 そう思う一方で、手は別の検索語を入力している。


 対戦相手の大学名。


 大会名。


 階級。


 何度も検索結果を見直した。


「千尋先輩」


 声をかけられて振り向くと、律がグローブを持って立っていた。


「今日、少し相手をしてもらえますか」


「構いません。何を確認したいんですか?」


「近づくときの距離です。相手が下がったあと、もう一回入り直したくて」


「分かりました。監督に確認してからやりましょう」


 千尋はノートを閉じ、グローブを取りに立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦った。


 その音が、思ったより大きく聞こえた。


◇


 リングでは、監督の見ている前で軽い接触の練習をすることになった。


 律と向かい合った千尋は、普段より少し遠い位置に立っていた。


 律は小柄だが、踏み込む速さがある。


 正面から打ち合うより、ジャブで位置を確かめながら入らせない方がいい。


 千尋は左を伸ばして、律の前進を止めようとした。


 律は一度下がった。


 そこまでは予定どおりだった。


 次に律が前足を動かす。


 千尋は反射的に後ろへ下がった。


 しかし、律はまだ拳を出していない。


 下がったところへ、今度こそ律が踏み込んでくる。


 千尋の左は届かなかった。律のグローブが、軽くガードへ触れる。


「……すみません。もう一度」


 位置を戻した。


 律は不思議そうな顔をしていたが、何も言わずに構え直した。


 次は落ち着いて見よう。


 千尋は律の前足へ目を向けた。


 律が少し肩を動かす。


 また、千尋の後ろ足が先に動いた。


 距離が開く。


 左を出しても届かない。


 そのまま律に入り直され、もう一度グローブを触られた。


「千尋先輩」


「何ですか?」


「私、まだ何もしてないですよ」


 千尋は返事をしなかった。


 律は両手を顔の前に置いたまま続けた。


「さっきから、私が近づく前に下がってません?」


「……そうですね」


「これだと、私、追いかけやすいです」


 千尋は足元を見た。


 リングの中央から、いつの間にかロープに近づいている。


 律が押してきたわけではない。


 自分で下がったのだ。


「一度止めよう」


 監督の声がした。


 千尋は頷き、グローブを下ろした。


 息は上がっていない。


 律の打撃も強くなかった。


 それなのに、胸の辺りが妙に落ち着かなかった。


◇


「お前、何で逃げてんの?」


 リングの外から声がした。


 只野がパイプ椅子に座り、脚を投げ出している。


 千尋はロープ際へ近づいた。


「逃げたつもりはありません」


「じゃあ、何してたんだよ」


「距離を保とうとしていました」


「保ててねえじゃん」


 間違っていない。


 だからこそ腹が立った。


「律が踏み込んでくると思ったので」


「踏み込んできた?」


「……一度目は、きませんでした」


「二度目も、最初は来てなかったな」


「はい」


 只野は欠伸をした。


「見る前に結論出すなよ」


 千尋は口を閉じた。


 ついさっき、図書館で自分に言い聞かせたことと同じだった。


 相手の戦績だけで、強さを決めつけてはいけない。


 分かっていた。


 なのに、律が構えた瞬間から、何もしていない相手に先回りしていた。


「先生は、どうして私が下がると分かったんですか?」


「下がってたから」


「そういう意味ではありません」


「何だよ、面倒くせえな」


 只野は千尋の手元へ視線を落とした。


 ノートがリングの外の椅子に置いてある。


「それ、何?」


「大会の資料です」


「へえ。女子の写真も載ってんの?」


「載っていません」


「つまんねえの」


「最低です」


「男の裸の写真なら俺はいらねえぞ」


「誰もそんなもの見せていません」


 只野は笑い、もう一度リングを見た。


「まあ、知らねえ相手にびびるのは勝手だけどよ」


 千尋は顔を上げた。


「びびってはいません」


「じゃあ、何で律のパンチも見ねえで下がるんだ?」


 言い返しかけて、やめた。


 自分が何を見ていたか、思い出したからだ。


 律の前足は見た。


 肩も見た。


 でも、その動きを確かめる前に、後ろへ下がることを選んでいた。


 相手の攻撃に反応したのではなく、攻撃されると決めていた。


 只野は、それ以上説明しなかった。


「続きやるなら、監督に言えよ」


 缶コーヒーを持ち上げ、また椅子へ深く座り直す。


 千尋はしばらく、その顔を見ていた。


 本人はもう、こちらを見ていない。


◇


 練習が終わったあと、千尋はもう一度ノートを開いた。


 相手の戦績を書いたページだ。


 六戦五勝。


 入賞歴あり。


 その横に、練習前の自分は「序盤は慎重に」と書いていた。


 間違いではない。


 強い相手かもしれないのだから、警戒する必要はある。


 しかし、慎重にするとは、何もしないで下がることなのだろうか。


 千尋はペンを持った。


 書き足そうとして、手が止まる。


 今度は何を書く?


 相手のジャブが速いと仮定する?


 右のカウンターが得意だと仮定する?


 どちらも、まだ確かめていない。


 確かめていないことを増やしても、ノートが埋まるだけだった。


「千尋先輩?」


 律が隣へ座った。


「さっきの練習、ありがとうございました」


「こちらこそ。あまり役に立てませんでしたね」


「そんなことないです」


 律は靴紐をほどきながら言った。


「途中から、千尋先輩がどこへ下がるか分かりやすくなりました」


「……そうでしょうね」


「だから、私も途中から楽になりました」


 千尋は顔を上げた。


「どの辺りからですか?」


「二回目に下がったところからです。こっちが動こうとすると、先輩が先に離れるから」


「なるほど」


 その言葉は、想像以上に痛かった。


 千尋は、律の攻撃を読もうとしていた。


 しかし実際には、自分の動きを読ませていた。


「律。もう一つ聞いていいですか?」


「はい」


「最初のとき、踏み込まなかったのはなぜですか?」


「先輩の左が届きそうだったからです。下がってくれたので、次は入りやすかったです」


 千尋はノートを見た。


 自分が最初に打った左は、律を止める働きをしていた。


 その直後、自分で距離を空けてしまった。


 もし、あそこで足を置いたまま相手を見ていたら。


 その先は、まだ分からない。


 ただ、選べることは増えたはずだった。


「ありがとうございました」


「え? 私、何かいいこと言いました?」


「はい」


「ならよかったです」


 律は笑い、靴を持って立ち上がった。


 千尋はノートに目を戻した。


 数字は消さなかった。


 相手の戦績も、過去の大会結果も、調べておいて損はない。


 けれど、その下に書いていた「序盤は慎重に」という一文には線を引いた。


 代わりに、短く書く。


 最初の一歩を確認する。


◇


 帰り支度をしていると、綾乃が声をかけてきた。


「千尋、組み合わせ表を送ってくれてありがとう」


「いえ。過去の戦績も、確認できた範囲でまとめてあります」


「助かる。でも、無理して全部調べなくてもいいからね」


「分かっています」


 千尋はパソコンを閉じかけて、少し考えた。


「綾乃先輩」


「うん?」


「私、さっきまで、相手の六勝目を先に考えていました」


「六勝目?」


「私に勝てば、相手は六勝になります」


 綾乃が黙った。


 千尋は自分でも、おかしなことを言っていると思った。


 まだ試合は始まっていない。


 なのに、相手が勝ったあとの数字を考えていた。


「千尋は、勝ちたくないの?」


「勝ちたいです」


 答えはすぐに出た。


 自分がどれだけ考えてきたか。


 練習中に何を見て、試合中にどこまで判断できるようになったか。


 それを、公式戦で確かめたい。


 相手の数字を増やすために、リングへ上がるわけではない。


「だったら、千尋も自分の試合をしてきなよ」


 綾乃が言った。


 千尋は頷いた。


「はい」


 いつもなら、もう少し条件を整理しただろう。


 どういう相手なのか。


 どう戦えば勝てるのか。


 どの程度の可能性があるのか。


 でも、今日の自分に足りなかったのは、新しい数字ではなかった。


◇


 練習場の照明が一つずつ消えていく。


 千尋は最後にノートパソコンを開き、組み合わせ表を表示した。


 自分の名前を探す。


 すぐに見つかった。


 雨宮千尋。


 その向かいには、初めて見る相手の名前。


 そして、調べてきた六戦五勝という数字。


 怖くないと言えば嘘になる。


 相手には勝ってきた経験がある。自分より多く、公式のリングに立っているかもしれない。


 それは消せない事実だ。


 だからといって、まだ何も起きていない試合を、負けたことにはできない。


 千尋は戦績のメモを保存し、ノートパソコンを閉じた。


「千尋、帰るよー!」


 美波の声が入り口から聞こえる。


「今行きます」


 鞄を肩にかけ、立ち上がった。


 明日は、もう一度律に練習を頼んでみよう。


 今度は相手が動くまで、自分の足を勝手に下げない。


 そこから何が見えるのか、確かめたい。


 廊下へ出ると、真田がスマートフォンを見ながら立っていた。


「あ、千尋さん。組み合わせ出たんですね」


「はい。男子の分も公開されています」


「ありがとうございます。まだ見てなかったんです」


 真田は画面を操作し、男子の組み合わせ表を開いた。


 千尋はその肩越しに、上段の一角が見えた。


 真田の名前。


 その脇には、ほかの選手とは違う印が付いている。


 シード。


 意味は知っている。


 高校時代の実績を考えれば、不思議ではなかった。


「……ああ」


 真田が小さく呟いた。


 千尋は何も言わなかった。


 画面を見つめる真田の指が、止まっていた。


 さっきの自分なら、その印を見た瞬間に、決勝までの勝ち上がりを計算し始めただろう。


 でも、真田はまだ一回戦も戦っていない。


 千尋は先に歩き始めた美波たちを追いかけた。


 明日、真田があの表をどう思い、どう受け取ったのか、聞いてみようと思った。


予約ミスってた(´・ω・`)

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