第40話「記録に残る」
出場者一覧の一番上に、自分の名前があった。
白石綾乃。
その下には、美波、ひまり、千尋、律。
綾乃は印刷した用紙を机に置き、もう一度メールの画面を確認した。
大会への出場登録が受理された。
見間違いではない。
監督にも確認してもらったし、必要な手続きも終わっている。あとは組み合わせの発表を待ち、大会当日に向けて準備するだけだ。
ずっと望んでいたことだった。
それなのに、綾乃はすぐに立ち上がれなかった。
「白石、どうした?」
向かいの席で書類を整理していた監督が顔を上げた。
「いえ。ようやく決まったんだなと思って」
「そうだな。みんな、よく頑張った」
監督は頷き、机の上の大会案内に目を落とした。
「ただ、前の対抗戦とは違う。今度は公式大会だからな。出場すれば結果が正式な戦績として残る」
「はい」
「全員に伝えてくれ。体調に不安があれば早めに相談すること。無理をして出場するものじゃないからな」
「分かりました」
綾乃は用紙をファイルへしまった。
正式なボクシング部になってから、こうして大学の名前で大会へ申し込めるようになった。
以前なら、まず参加できるのかどうかを確かめるところから始めなければならなかった。
今は違う。
練習場所もある。監督もいる。女子五人の出場登録も受理された。
欲しかったものが、ちゃんと揃っている。
それでも、ファイルを持つ指には少し力が入っていた。
◇
練習場の扉を開けると、サンドバッグを打つ音が聞こえた。
ひまりが右を打ち込み、拳を戻してから左を軽く当てている。
以前なら、二発目も思い切り振っていたはずだ。今は自分で力を加減していた。
その向こうでは、美波がリングの上を動いている。相手はいない。前へ踏み込んでジャブを伸ばし、すぐに足を置き直す。
昨日見た試合映像で、何か思うところがあったのだろう。
「綾乃先輩!」
ひまりが手を止めた。
「大会、どうなりました!?」
「今、みんなに話すから。美波も少し休んで」
「はーい!」
美波がロープをくぐってリングを降りた。
千尋と律も近づいてくる。真田は男子部員と練習中だったが、こちらの様子に気づいて監督の方を見た。
綾乃はファイルを開いた。
「大会への出場登録が受理されました。女子五人とも、出場が決まったよ」
「やったぁ!」
ひまりが両腕を上げた。
「本当ですか! 五人ともですか!」
「うん。みんな出られるよ」
「よかったぁ!」
ひまりは嬉しそうに律の肩を叩いた。律が少しよろけて、迷惑そうな顔をする。
「ひまり先輩、痛いです」
「あっ、ごめん!」
「別にいいですけど」
律も笑っていた。
「組み合わせは?」
千尋が尋ねた。
「まだ発表されてない。対戦相手が分かるのはもう少し先だね」
「分かりました。確認できるようにしておきます」
千尋はスマートフォンを取り出しかけたが、美波に手首を押さえられた。
「ちょっと、千尋。今くらい喜ぼうよ」
「喜んでいます」
「顔が変わってない!」
「表情に出していないだけです」
「便利な言い方だなあ」
美波が笑い、千尋も少しだけ口元を緩めた。
みんな、嬉しそうだった。
綾乃も嬉しい。
もちろん嬉しいはずなのに、頭の中ではもう大会までの日数を数えている。
練習時間は足りるだろうか。
美波の右を読まれたときの対応は、まだ十分ではない。ひまりは力を使い分けられるようになったけれど、相手が逃げ続けたらどうするのか。律も、千尋も。
そこまで考えて、綾乃は自分の名前を忘れていることに気づいた。
「綾乃?」
美波に呼ばれた。
「何?」
「大丈夫? せっかく決まったのに、もう難しい顔してる」
「そんな顔してた?」
「してた。学生課に出す書類でも見つかった?」
「違うよ」
綾乃は笑ってごまかした。
ただ、ファイルを閉じる手は少し急いでいた。
◇
休憩中、綾乃は練習予定表を机に広げた。
大会までに、できれば全員でもう少し練習時間を取りたい。
平日の空いている時間を探し、普段の練習が終わったあとの枠に印をつける。
ここなら一時間。
こっちは授業の終わりが早いから、もう少し取れるかもしれない。
「何してるの?」
美波が後ろから覗き込んできた。
「大会までの予定を考えてる」
「もう? 早いね」
「時間があるうちに決めておきたいから」
綾乃が印をつけた場所を、美波が指でなぞった。
「これ、追加練習?」
「うん。できれば全員で……」
「私、その日はバイト」
「あ、そうだったね」
「あと、ひまりも授業終わるの遅くなかった?」
「そうだね。確認する」
綾乃はペンを持ち直した。
空いているところを、もう少し探そう。
すると、美波が予定表の端を軽く押さえた。
「綾乃、自分の練習は?」
「もちろんするよ」
「いつ?」
「みんなと一緒に……」
「またミット持つつもりでしょ」
図星だった。
綾乃が顔を上げると、美波は呆れたように笑っていた。
「部長なのは分かるけど、綾乃だって試合出るんだよ?」
「分かってる」
「ほんとに?」
「……うん」
綾乃は予定表へ目を戻した。
自分の練習が足りないのが怖いわけではない。
いや、それも少しある。
ただ、ほかの四人が大会で困るところを想像すると、落ち着かなくなる。
先に準備しておけば防げるかもしれない。
練習時間を増やせば、何か一つくらい間に合うかもしれない。
そうやって考えるうちに、予定表は自分の文字で埋まりかけていた。
「美波」
「ん?」
「今、一番練習したいことって何?」
美波が少し驚いた顔をした。
「私?」
「うん」
「そりゃ、自分から打ちにいく練習かな。相手の左を待つんじゃなくて」
美波は両手を軽く握り、構えを作った。
「この前、先に右を返すことばっかり考えてたから。今度は、こっちから試合を動かしたい」
「そっか」
「だから、千尋と映像を見ながら考えてる。必要になったら練習付き合ってよ」
「もちろん」
「じゃ、綾乃も自分のやってきな」
美波が予定表を指した。
「私たちのこと、全部決めなくていいんだから」
綾乃はすぐには答えられなかった。
少し前までなら、こんなふうに言われても、心配だからと練習時間を増やしていただろう。
けれど、美波はもう自分で課題を見つけていた。
昨日負けたことを、誰より悔しがっていたのも美波自身だ。
「……分かった」
綾乃は追加練習の印を消した。
「まず、みんなの予定と希望を聞くね」
「そうそう。で、綾乃は?」
「私も練習する」
「よろしい」
「美波、私のこと何だと思ってるの?」
「部長兼お母さん」
「お母さんじゃない!」
思わず声が大きくなり、美波が笑い出した。
◇
練習場の隅では、只野がパイプ椅子に座っていた。
いつ来たのか、片手に缶コーヒーを持っている。
「おい、綾乃」
「何ですか?」
「大会、決まったんだって?」
「はい。五人とも出られます」
「ふうん」
只野は缶を傾けた。
「今度は負けても、練習だったって言えねえぞ」
綾乃は少し眉を寄せた。
「前の対抗戦だって、練習のつもりではありませんでした」
「知ってるよ」
「じゃあ……」
「でも、今度は紙に残るだろ」
只野は面倒くさそうに言った。
「勝ったら勝ち。負けたら負け。言い訳しても記録は変わんねえ」
分かっている。
それくらい、綾乃だって知っている。
なのに、改めて言われると返す言葉が見つからなかった。
「まあ、俺には関係ねえけどな」
「……関係ないんですか?」
「俺の名前、出場者にねえだろ」
「ありません」
「だったら気楽なもんだ。若い女の試合も見られるし」
「先生、見るところは試合だけにしてください」
「試合も見るって言ってんだろ」
「『も』は余計です」
只野は鼻で笑った。
腹が立つほど、いつもどおりだ。
綾乃はファイルを抱え直した。
「先生は、私たちが負けると思っていますか?」
「知らねえよ。相手もまだ決まってねえんだろ」
「はい」
「じゃ、分かるわけねえじゃん」
それだけだった。
もっと厳しいことを言われると思っていたのに、拍子抜けするくらい雑な答えだ。
けれど、間違ってはいない。
綾乃はファイルに目を落とした。
相手が決まっていないのに、勝てるとも負けるとも言えない。
自分が今できるのは、出場するための準備と、自分の練習だ。
ほかの選手の試合を、代わりに戦うことはできない。
「……練習してきます」
「おう」
只野は缶を口へ運んだ。
「あと、お前、左はいいんだから余計なことすんなよ」
綾乃は足を止めた。
「左、ですか?」
「昨日の試合も、あれで相手が嫌がってただろ」
「はい」
「だったら、ちゃんと使えよ」
只野はそれ以上、何も言わなかった。
◇
「美波、少し付き合ってもらえる?」
「いいよ。何する?」
「動くミットを打ちたい」
「了解!」
リングに上がり、美波がミットを構えた。
綾乃はグローブを合わせてから、いつもの距離に立つ。
目の前にあるミットを叩くだけなら簡単だ。
けれど、相手は動く。
美波は足が速い。向こうが距離を変えれば、綾乃の左も届かなくなる。
「いくよ」
「うん」
美波が左のミットを顔の高さへ出した。
綾乃はジャブを伸ばす。
軽い音がした。
美波がすぐに半歩下がる。
次の左を打とうとしたが、少し遠い。腕だけ伸ばしても届かない距離だった。
綾乃は追いかけず、足を置き直した。
美波が今度は横へ動いた。
そのまま逃げられると、また届かなくなる。
綾乃は相手の進む側へ小さく踏み込み、左を伸ばした。
ミットに触れる。
「おっ、嫌だね、それ!」
美波が笑った。
「近づこうとすると先に触られるし、離れようとしても追ってくる!」
「まだ追い方が少し遅い」
「そこは練習でしょ。もう一回いくよ!」
美波が構え直した。
綾乃は呼吸を整え、相手の足を見た。
自分のジャブは、強いパンチではない。
ひまりのように、一発で相手の動きを止められるわけでもない。
それでも、相手が何か始めようとしたところへ先に拳を届かせれば、向こうはそのたびに考え直さなければならなくなる。
昨日の相手も、途中から簡単には踏み込めなくなっていた。
あれを、もっと続けたい。
綾乃は前足を運び、美波が動き始めるところへ左を伸ばした。
今度は届かなかった。
美波が素早く下がったからだ。
「逃げられた!」
「逃げるのは得意だもん」
美波が笑う。
綾乃もつられて笑った。
「じゃあ、もう一回」
「何回でもどうぞ!」
ミットの音が続いた。
打つたびに足を置き直し、相手が動けば距離を測り直す。
いつの間にか、予定表のことを考えなくなっていた。
書類を出したのも、監督へ報告したのも自分だ。
でも、今リングに立っているのは、部長としてではない。
相手へ先に左を届けたい、白石綾乃という一人の選手だった。
◇
練習を終え、綾乃は机の上に置いたファイルを取り上げた。
出場者一覧をもう一度開く。
白石綾乃。
橘美波。
大熊ひまり。
雨宮千尋。
鳴瀬律。
五人分の名前が並んでいた。
以前、正式な部を作るための書類に「ボクシング部」と書いたときは、自分たちの居場所ができたことが嬉しかった。
今度は違う。
同じ大学名の下に並んでいても、試合をするのは一人ずつだ。
勝つ選手もいれば、負ける選手もいるだろう。
その結果を、綾乃が代わりに引き受けることはできない。
「綾乃先輩!」
ひまりが駆け寄ってきた。
「次の練習、私も動くミットやりたいです!」
「いいよ。美波にも聞いてみようか」
「はい!」
「でも、ひまりも何を練習したいか考えておいてね」
「分かりました!」
ひまりは元気よく頷き、千尋の方へ走っていった。
その後ろ姿を見送ってから、綾乃は用紙をファイルへ戻した。
五人とも、自分の拳で戦う。
それでいい。
大会が終われば、この五人の名前にはそれぞれ結果がつく。
昨日までの練習を、どこまで試合で出せるか。
その答えを出すのは、もう書類ではなかった。
綾乃がファイルを閉じようとしたとき、千尋が声をかけてきた。
「綾乃先輩。組み合わせの発表予定も確認しておきました」
「ありがとう。分かったら教えて」
「はい。対戦表が公開されれば、相手の大会実績も確認できます」
綾乃は頷いた。
まだ、誰と戦うのかは分からない。
けれど、出場者一覧には、もう自分たちの名前がある。
次に届くのは対戦表だ。
そこにはきっと、まだ知らない誰かの名前が並んでいる。
綾乃はファイルを鞄へしまい、練習場の明かりを見上げた。
その相手に会う日まで、自分の左を磨いておこう。




