第39話 次は、公式戦
「先生、今の右、どうですか!」
ひまりがミットを叩くと、乾いた音が練習場に響いた。
受けていた綾乃先輩が、少しだけ右手を引いた。
「うん。さっきよりいいよ。でも、ひまり、また肩に力が入ってる」
「えっ、そうですか?」
「次の左まで強く打とうとしてるでしょ」
「あっ……」
ひまりは慌てて腕を下ろした。
遠征から戻って、最初の練習だった。
昨日まで別の大学にいたのが、なんだか不思議だ。いつものリング、いつものサンドバッグ。床に残ったシューズの跡まで、見慣れたものばかりだった。
でも、今日は少し違って見える。
あの大学にも、こういう練習場があった。
自分と同じ階級の選手がいて、同じように汗をかいて、試合が終われば悔しがったり笑ったりしていた。
それを思い出すと、つい身体を動かしたくなる。
「もう一回お願いします!」
「いいよ。今度は左からね」
「はい!」
ひまりは構え直した。
綾乃先輩が左のミットを前に出す。
そこへ軽くジャブを当て、右を打つ。腕を戻して、次の左は少しだけ力を抜いた。
パシッ、バンッ、パシッ。
「そう、それ!」
「できました!?」
「今はね」
「今は!?」
綾乃先輩が笑った。
「試合でもできるようにしないと」
「ですよねぇ……」
分かっている。
昨日の試合だって、最初は何でも強く打とうとしてしまった。
後半になってようやく、強く打つ拳と、そうでない拳を選べた。
次は最初からできるようになりたい。
ひまりはグローブを合わせ、もう一度ミットへ向き直った。
◇
「みんな、ちょっと集まって」
練習が一段落したところで、綾乃先輩が声をかけた。
ひまりはタオルで顔を拭きながら振り返った。
リングの向こうでは、美波先輩が律ちゃんと話している。千尋ちゃんはタブレットを片づけ、真田くんも男子の練習を終えて近づいてきた。
壁際のパイプ椅子には、いつものように只野先生が座っている。
今日は最初から来ていた。
しかも、さっきまで美波先輩の試合映像を見ていたのだ。
あれだけ嫌がっていたのに。
「先生も、こっちへ来てください」
「やだ」
「またそれですか」
「話なら聞こえるだろ」
只野先生は脚を伸ばしたまま動かなかった。
綾乃先輩は小さくため息をついたが、無理に呼ぼうとはしなかった。
「この前の対抗戦、大学にも報告しました。女子は四勝一敗。男子の試合も含めて、先方からはまた合同練習をやりたいという話をいただいています」
「また行けるんですか!」
ひまりが聞くと、綾乃先輩は頷いた。
「日程が合えばね。でも、今日の話はそれだけじゃないの」
綾乃先輩は一枚の紙を広げた。
「次の公式大会について、部の方に案内が届いています」
「公式大会?」
「そう。今度は大学同士の練習を兼ねた対抗戦じゃなくて、正式な競技大会の話」
ひまりは紙を覗き込んだ。
大会の案内らしいけれど、文字が多い。日程や申込手続き、出場資格についても書かれている。
知っている言葉はたくさんあるのに、何が一番大事なのか、すぐには分からなかった。
「それって、昨日みたいに試合するんですよね?」
「試合自体はそうだよ。ただ、扱いが違うの」
綾乃先輩が答えると、千尋ちゃんも隣へ来た。
「昨日の対抗戦は、双方の大学が合意して組んだ交流試合です。次に案内されているのは、所定の出場資格や手続きを満たして参加する大会です。勝敗は公式の競技結果として残ります」
「昨日の勝ちは、残らないんですか?」
「記録には残せます。ただ、公式大会の戦績と同じ扱いにはなりません」
「……えっ」
ひまりは、昨日の試合を思い出した。
あんなに頑張ったのに。
ちゃんと勝ったのに。
「昨日の勝ちが、なかったことになるんですか?」
「ならないよ」
綾乃先輩がすぐに答えた。
「ひまりが勝ったのは本当。それは変わらない。ただ、次は別の大会に出るかもしれないって話」
「そうなんですね……」
少し安心した。
昨日、相手の右脇腹へ左を当てたときのことも覚えている。強い右を警戒して、相手が顔を守ったところへ打った拳だ。
あれは、ちゃんと自分で選んで打った。
誰かが記録してくれなくても、なくなったりしない。
「じゃあ、次も勝てばいいんですね!」
「まあ、そうなんだけど」
美波先輩が笑った。
「ひまり、切り替え早すぎ!」
「だって、次も試合できるんですよね?」
「まだ出場が決まったわけじゃないよ」
綾乃先輩が紙を指した。
「資格の確認も、申し込みもこれから。監督と相談して、出場できるか決めていくところ」
「なるほど!」
ひまりは大きく頷いた。
その横で、美波先輩が紙に顔を近づけていた。
「……公式戦かあ」
さっきまで笑っていたのに、声が少し静かだった。
◇
「美波先輩、どうしたんですか?」
ひまりが尋ねると、美波先輩は顔を上げた。
「ん? いや、今度は負けたくないなあって」
「次は勝ちましょう!」
「うん。そうしたい」
美波先輩は笑った。
でも、いつもの笑い方より少し小さい。
ひまりはタオルを握り直した。
昨日、高瀬さんに負けたあと、美波先輩はずっと悔しそうだった。
それでも、ひまりの試合が始まる前には笑ってくれた。
肩の力が入りすぎていると教えてくれたのも、美波先輩だ。
今度は自分が何か言ってあげたい。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
「……美波先輩」
「何?」
「また一緒に練習しましょうね!」
美波先輩が目を丸くした。
少ししてから、ふっと笑った。
「うん。よろしく、ひまり」
「はいっ!」
よかった。
今の返事は、いつもの美波先輩だった。
近くでは律ちゃんが大会案内を読んでいた。
「出場できるなら、私も出たいです」
「そうだね。律はどう?」
「出たいです。でも、どんな相手がいるのかは気になります」
「調べられる範囲なら調べよう」
千尋ちゃんが答えた。
もう二人とも真剣な顔になっている。
ひまりは少し感心した。
自分は、次も試合ができるかもしれないというだけで嬉しい。
でも、律ちゃんも千尋ちゃんも、その先のことまで考えている。
「千尋ちゃん、全国大会って、やっぱりすごく強い人がいるんですか?」
「全国につながる大会なら、当然、強い選手も集まります。ただ、今案内されている大会の出場枠や勝ち上がり条件は、まだ確認が必要です」
「じゃあ、全国大会に出られるって決まったわけじゃないんですね」
「はい」
「そっかあ……」
少し残念だった。
でも、全国大会。
そう聞くだけで、なんだか胸が騒ぐ。
昨日戦った相手より、もっと強い人がいるのだろうか。
あの右を受けても下がらない人とか。
自分の左を簡単に避けてしまう人とか。
もしかしたら、もっと強く打つ人もいるのかもしれない。
……ちょっと怖い。
それでも、戦ってみたい気持ちの方が大きかった。
◇
「先生!」
ひまりは壁際へ走った。
「何だよ。今度は」
「全国大会って、どれくらい強い人がいるんですか!」
只野先生は缶コーヒーを傾けた。
「強えやつがいるんじゃねえの」
「どれくらいですか!」
「知らねえよ」
「先生なら知ってると思ったのに!」
「俺が全国の女子大生を全員知ってると思ってんのか」
「それは……知ってそうです!」
「何でだよ!」
先生が声を上げた。
ひまりは首を傾げた。
だって、先生はいつも、自分たちが気づかないところを見ている。
昨日の試合でも、どこを見ていたのか分からないのに、ちゃんとおかしなところを指摘していた。
だから、強い人のことも知っている気がした。
「じゃあ、先生は、私たちが全国で勝てると思いますか?」
「知らねえって」
「もう!」
ひまりは頬を膨らませた。
先生は少し考えるように缶を持ち直し、リングの方を見た。
「お前、昨日勝ったんだろ」
「はい!」
「じゃあ、次も同じように打つのか?」
「……え?」
「昨日みたいに右を振って、相手が顔を守ったら左打って。それ、次もやんの?」
ひまりは黙った。
昨日は、それで勝てた。
でも。
今度の相手が、最初から自分の右を知っていたら?
ひまりが強く打とうとした瞬間、さっさと離れてしまったら?
左を打つ前に、身体へ拳が飛んできたら?
「……うまくいかないかもしれません」
「そうかもな」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「自分で考えろよ」
「またそれですかぁ!」
先生は笑った。
腹が立つ。
でも、少し分かった気もした。
昨日勝ったことと、次も勝てることは別なのだ。
ひまりは自分のグローブを見下ろした。
今日も、最初は強く打ちすぎていた。
試合が終わって、まだそんなに経っていないのに。
昨日できたことを、もう少しで忘れるところだった。
「……先生」
「まだ何かあんのか」
「私、もう一回ミット打ってきます!」
「勝手にしろ」
「はい!」
ひまりは元気よく返事をした。
◇
「綾乃先輩、もう一回お願いします!」
リングへ戻ると、綾乃先輩がミットを持ち直した。
「いいよ。でも、さっきと同じでいいの?」
ひまりは少し考えた。
同じ。
さっきは軽い左から、強い右。
そのあと、また軽い左。
ちゃんと打てた。
けれど、それだけを繰り返していたら、相手も覚えてしまう。
「……最初の左、ちょっと変えてもいいですか?」
「もちろん」
「今度は、もっと近いところから打ってみたいです」
綾乃先輩が頷いた。
「じゃあ、私も動くね」
「はい!」
ひまりは構えた。
綾乃先輩がミットを出しながら、半歩だけ横へ動く。
さっきまでなら、その場から腕を伸ばしていた。
でも、今は足を動かさないと届かない。
ひまりは前足を運び、軽く左を当てた。
次の右を打とうとすると、綾乃先輩がミットを引いて距離を取った。
「あっ!」
拳が届かない。
無理に追いかければ、また身体が前へ流れる。
ひまりは右を出さず、足を置き直した。
「今、どうして止めたの?」
綾乃先輩が聞いた。
「届かないと思ったので!」
「うん。じゃあ、次は?」
ひまりは少し笑った。
「近づきます!」
「そうだね。でも、近づくときに打たれないようにね」
「はいっ!」
綾乃先輩がミットを構え直す。
ひまりは、今度は相手の足元を見た。
どこへ動くのか。
どこで自分の拳が届くのか。
さっきまで、そんなことを考える余裕はなかった。
ただ強く打てれば嬉しかった。
でも、今は違う。
強く打つためにも、先にやることがある。
ひまりがもう一度左を伸ばすと、綾乃先輩が小さくミットを動かした。
ひまりも足を運び直す。
今度は届いた。
「いいよ、ひまり!」
「はい!」
嬉しくなって、つい右も強く打ちたくなった。
けれど、その前に綾乃先輩の足が動いた。
ひまりは拳を出さず、もう一度構え直した。
綾乃先輩が笑った。
「今の、よかったね」
「えへへ!」
強く打ったわけでもないのに、褒められた。
それが少し不思議で、嬉しかった。
◇
練習が終わる頃には、外が暗くなり始めていた。
グローブを外したひまりは、ベンチに腰かけて水を飲んだ。
隣では美波先輩が千尋ちゃんと試合映像を見ている。
律ちゃんは真田くんと足の位置を確かめ合っていた。
綾乃先輩は、監督と大会の案内について話している。
みんな、もう次のことを考えている。
ひまりは水のボトルを膝に置いた。
少し前まで、自分たちは倉庫で練習していた。
大学の正式な部にもなれなくて、試合に出られるのかどうかも分からなかった。
それが今は、他大学へ遠征して試合をした。
四人も勝った。
そして、次の大会の話をしている。
不思議だ。
あの頃は、そんなことまで考えていなかった。
「ひまり」
綾乃先輩が戻ってきた。
「大会のこと、どう思う?」
「出たいです!」
「即答だね」
「はい!」
ひまりは立ち上がった。
「だって、もっと強い人と試合してみたいです!」
綾乃先輩は少し驚いたように目を開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「そうだね。私も出たい」
「はい!」
ひまりは頷いた。
昨日は勝った。
次も勝てるかどうかは分からない。
でも、次の試合があるなら、そこへ行きたい。
もっと強い相手と戦ってみたい。
そう思えるようになった自分が、少し嬉しかった。
そのとき、監督が綾乃先輩を呼んだ。
「白石、出場資格の確認が取れたら、申込書を準備しよう。明日、もう一度話そうか」
「はい。お願いします」
綾乃先輩が答えた。
ひまりは、まだ机の上に置かれたままの大会案内を見た。
昨日の進行表とは違って、そこに自分の名前はない。
けれど、出られるなら。
今度は、その紙にも名前が載るのだ。
大熊ひまり。
60kg級。
ひまりはタオルを肩にかけ、もう一度リングへ目を向けた。
さっきまで綾乃先輩が立っていた場所には、もう誰もいない。
それでも、少しだけ拳を握りたくなった。
次は、どんな人と戦えるんだろう。




