第38話 勝ったのに
「四勝一敗です!」
駅のホームに、ひまりの声が響いた。
只野は自動販売機から取り出した缶コーヒーを持ち、少し離れたベンチに座っていた。朝からよくそんな大声が出るもんだ。昨日は三ラウンドも試合をして、夜も元気だったくせに。
「女子の試合、四勝一敗ですよ! すごくないですか!」
「聞こえてるよ。うるせえな」
「先生も嬉しいですよね!」
「別に」
「ええっ!?」
ひまりが本気で驚いた顔をした。
隣で美波が笑っている。
「ひまり、先生に喜んでもらおうってのが間違いだよ。昨日だって、勝った子にろくなこと言ってないんだから」
「先生、もっと喜びましょうよ!」
「お前らが勝ったんだろ。勝手に喜んでろよ」
「もう喜んでます!」
「じゃあいいじゃねえか」
ひまりは納得したような、していないような顔で首を傾げた。
面倒くせえ。
只野は缶を開けた。口に入ってきたコーヒーは、思ったより苦かった。
四勝一敗。
悪い数字じゃない。知らない大学へ乗り込んで、女子五人のうち四人が勝った。男子の真田も、自分の試合を勝って終えた。
少し前まで倉庫で練習していた連中にしては、上出来だろう。
だが、昨日の試合を思い返すと、勝敗とは別のものが引っかかる。
真田の右肩。
相手の左を受けたあと、考えるより先に前へ出た肩だ。
あいつ、またやってやがった。
勝ったからいい、で済ませるのなら簡単だ。実際、昨日の相手にはそれで通じた。
だが、黒瀬にも同じ右を出すつもりなのか。
「……ったく」
只野は缶を口へ運んだ。
昨日の試合が終わってから、何度このことを考えているのか。
自分でも嫌になる。
◇
「先生、そこ、空いてる?」
電車に乗って座席へ身体を沈めると、美波が通路から顔を覗かせた。
「空いてねえ」
「誰も座ってないじゃん」
「俺の荷物があるだろ」
「膝に乗るでしょ、それくらい」
美波は只野の小さな鞄を持ち上げ、そのまま隣へ腰を下ろした。
「おい、勝手に触んな」
「はいはい。ありがと」
「礼を言う前に聞けよ」
窓の向こうで駅のホームがゆっくり後ろへ流れ始めた。
美波は座席に背中を預けた。昨日の試合で疲れたのか、いつもより少し動作が鈍い。
ただ、顔つきは悪くなかった。
昨夜はずいぶん沈んでいた。
只野自身、何を考えてあんなことを言ったのか分からない。
次があるだろ。
口に出してしまってから、少しだけ後悔した。
そんなものが必ずあるとは限らないことを、誰より知っているくせに。
「ねえ、先生」
「あ?」
「私、昨日負けたじゃん」
「見てたよ」
「負けた人に、もうちょっと優しくできない?」
「慰めてほしいのか?」
「それはそれで腹立つなあ」
「面倒な女だな」
「先生にだけは言われたくない!」
美波は笑ったあと、膝の上で両手を組んだ。
しばらく窓の外を眺めていたが、やがて口を開いた。
「昨日さ、高瀬さんの左ばっかり気にしてたんだよね」
「おう」
「打つふりされると、右を出しちゃう。出さないようにすると、今度は本当に打ってくるし」
只野は返事をしなかった。
「それで考えたんだけどさ」
美波がこちらを向いた。
「私、相手が打ってくるのを待ちすぎてたのかな」
只野は缶を持ったまま、美波の顔を見た。
「……何でそう思った?」
「だって、避けてから右を返そうって決めてたから。向こうが打ってこないと、私、何もできないじゃん」
「ふうん」
「こっちから先に打ってもいいんだよね。最後のラウンドで少しやったけど、もっと早く試せばよかった」
美波は組んでいた指をほどき、右手を軽く握った。
「この右、当たると気持ちいいんだけどなあ」
「そりゃそうだろ」
「でも、当てたいからって、ずっと待ってたら駄目なんだよね」
「俺に聞くなよ」
「聞いてないって。今、考えてるの」
美波は少しむっとした顔になった。
只野は笑いそうになって、コーヒーでごまかした。
昨日の敗戦を、こいつなりに持ち帰ろうとしている。
最初に右が当たったときの嬉しそうな顔を覚えている。あれをもう一度やりたくなったのも分かる。
だが、高瀬は二度目から変えてきた。
美波は変えられなかった。
昨日は、それで負けた。
「じゃ、次は私から仕掛けてみる」
美波が言った。
「そうかよ」
「そこで『頑張れ』とか言えない?」
「言ってほしいのか?」
「……いい。先生から言われても気持ち悪いし」
「てめえ」
美波は声を出して笑った。
只野は窓へ顔を向けた。
こいつ、昨日負けたばかりだぞ。
なのに、もう次にやることを考えてやがる。
◇
少し離れた座席から、ひまりの声が聞こえてきた。
「千尋ちゃん、これ見てください!」
「今、確認しています」
「ここです! 私、ちゃんと弱い左も打ってます!」
「弱いというより、力を抑えていますね」
「そうです、それです!」
千尋のタブレットを、ひまりと律が覗き込んでいる。
昨日の試合映像だろう。
千尋は何度か画面を止め、指で位置を示していた。ひまりは一生懸命頷いているが、すぐに別のことを質問している。
只野は二人の声を聞き流しながら、缶コーヒーを傾けた。
「先生」
今度は前方から声がした。
真田だった。
通路に立った真田は、片手で座席の背を掴んでいる。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「やだ」
「まだ何も言うてませんやん」
「男からの相談なんか聞いても楽しくねえんだよ」
「……それ、女子にしか言うこと聞かへんって意味ですか」
「今さら気づいたのかよ」
美波が隣で吹き出した。
「先生、最低!」
「うっせっ」
真田は呆れたように息を吐いた。
それでも引き下がらない。
「昨日の試合のことです」
「だから何だよ」
「俺、また右を返してました」
只野は缶を下ろした。
真田の顔から、ふざけた色が消えていた。
「分かってんならいいじゃねえか」
「でも、止められへんかったんです」
「おう」
「何回かは我慢できました。相手が左を打ってきても、すぐ右を出さずに足を動かして。でも、打ち合いになったら、やっぱり出てまうんです」
只野は真田を見上げた。
昨日の相手は、真田の右を十分に止められなかった。
速いし、強い。
それだけのものを持っている。
だが、相手の左を受けたあとの右を、黒瀬は知っている。
高校時代から、何度も見ている。
「それで?」
「……次は、もっと意識して止めようと思ってます」
「好きにしろ」
「そこ、何か言うところちゃいます?」
「勝手に直すって言ってんだろ。何で俺の許可がいるんだよ」
真田は言葉に詰まった。
只野は鼻を鳴らした。
右を打つなと言っているわけじゃない。
その拳で勝ってきたことも、昨日また勝ったことも事実だ。
ただ、右を出すかどうかを相手に決められてしまうのが気に入らない。
もっとも、そんなことは前にも言った。
同じ説教を繰り返す趣味はない。
「……分かりました。自分で試します」
「そうしろ」
真田は少し頭を下げ、向こうの座席へ戻っていった。
その背中を見ながら、只野はため息をついた。
何だよ。
勝ったやつまで、負けたみたいな顔しやがって。
◇
「先生ってさ」
美波が小声で言った。
「何だよ」
「勝った人にも厳しいよね」
「負けたお前にも厳しいだろ」
「そういうことじゃなくて」
美波は通路の向こうを見た。
真田が席に戻り、何かを考え込んでいる。
「あれだけ強い真田くんが勝ったのに、まだ駄目なところあるんだ」
「あるだろ」
「先生から見たら、全員あるんじゃない?」
「そりゃあるよ」
「……即答するなあ」
只野はコーヒーを飲んだ。
「勝っただけじゃねぇか」
口に出してから、少し強く言いすぎたと思った。
美波がこちらを向く。
「だけ、って」
「あ?」
「私たち、ずっと練習してきたんだよ。四人も勝てたんだから、すごいじゃん」
「誰がすごくねえって言ったよ」
「だって、勝っただけって」
「勝ったのは勝った。それでいいだろ」
美波は眉を寄せた。
「じゃあ、何が言いたいの?」
「昨日の試合、もう一回やったら全員同じように勝てんのか?」
美波の口が止まった。
只野は窓の外へ目を移した。
同じ相手でも、次は違う。
律の左を食らった選手は、今度は距離を詰めさせまいとするだろう。ひまりの強打を見た相手は、最初からあの右を警戒する。
千尋の相手も、綾乃の相手も、昨日のままではない。
こっちが何かを覚えたように、向こうだって覚えて帰る。
昨日通じたものが、次もそのまま通じるとは限らない。
別に珍しい話じゃない。
ボクシングなんて、昔からそういうもんだ。
「……そっか」
美波が呟いた。
「高瀬さんも、次は私のこと知ってるもんね」
「おう」
「でも、私も高瀬さんのこと知ってるよ」
只野は顔を向けた。
美波は笑っていた。
「だったら、次はもっと面白くなるかも」
只野は思わず口元を緩めた。
何だ、その考え方。
昨日負けたやつの言うことかよ。
けれど、嫌いじゃなかった。
◇
電車が大きな駅に近づく頃、綾乃が通路を歩いてきた。
手には折り畳んだ紙を持っている。
「先生、少しいいですか」
「よくねえよ」
「昨日の結果をまとめました。大学に報告するので、確認しておきたくて」
「監督に見せろよ」
「もちろん見てもらっています。ただ、先生にも何か気になるところがあればと思って」
綾乃は紙を差し出した。
只野は受け取らなかった。
「俺、正式なコーチじゃねえぞ」
「知ってます」
「じゃあ、何で聞くんだよ」
「先生が、昨日の試合を全部見ていたからです」
綾乃は淡々と言った。
只野は返事に困った。
全部見た。
確かに見た。
朝から夕方まで、ほとんどリングから目を離さなかった。途中で眠くなったし、腰も痛くなった。帰ろうと思ったことも一度や二度じゃない。
それでも最後までいた。
何でだよ。
「気になるところは、たくさんあります」
綾乃が続けた。
「でも、今日は勝ったこともちゃんと喜びたいです」
只野は顔を上げた。
「誰も止めてねえだろ」
「はい。だから喜びます」
綾乃は少し笑った。
「そのうえで、帰ったらまた練習します」
「……勝手にしろ」
「そうします」
まっすぐな返事だった。
綾乃は紙を折り直し、前の席へ戻っていった。
只野はその背中を見送った。
こいつも変わった。
前なら、試合が終われば自分たちの足りないところを探して、一人で背負い込んでいただろう。
今は違う。
勝ったことは勝ったこと。
直すことは直すこと。
どちらも自分で引き受けようとしている。
……生意気になりやがって。
それも、悪くない。
◇
車内が少し静かになった。
ひまりは眠っているらしい。千尋もタブレットを閉じ、律は窓際で目を閉じていた。
美波は隣でスマートフォンを触っている。
只野は空になった缶を鞄の脇へ置き、座席に身体を沈めた。
疲れた。
何もしてねえのに。
いや、何もしてねえから疲れるのか。
昨日、リングに上がったのは自分じゃない。
拳を出したのも、殴られたのも、勝ったのも負けたのも、あいつらだ。
自分は見ていただけ。
たまに余計な口を挟んだだけだ。
それなのに、真田の右肩が気になって仕方ない。
美波が次はどう仕掛けるのかも気になる。
律が同じように潜れるのか。
ひまりは、今度も力を選べるのか。
千尋は相手が変わったとき、もう一度判断を変えられるのか。
綾乃の左を、最初から警戒してくる相手ならどうなる。
……何を考えてんだ、俺は。
只野は目を閉じた。
少し前まで、女どもが練習しているのを眺めていればよかった。
若い女が五人もいるのに、どうして朝から晩まで足やら肩やら拳やら、そんなものばかり見ているのか。
我ながら損な話だ。
しかも、男の真田まで加わった。
あいつの試合なんか、見たところで何の得にもならねえ。
それでも、見てしまった。
あいつが左を受けた瞬間、反射的に右肩を出したのを。
勝ったあと、浮かない顔をしていたのも。
あれが気になったから、余計なことまで言った。
別に、教えてやる義理はない。
そもそも、頼まれた覚えもない。
只野は目を開けた。
窓ガラスに、腹の出た中年男が映っている。
くたびれた作業着。
薄くなった頭。
どう見ても、大学のボクシング部に混ざって遠征するような人間じゃない。
……俺、何やってんだろうな。
ガラスに映った男も、答えない。
◇
「先生」
美波の声がした。
「今度は何だ!」
「帰ったらさ、試合の映像、一緒に見てくれない?」
「やだね」
「早っ!」
「面倒くせえ」
「先生、昨日ずっと見てたじゃん」
「昨日は昨日だろ」
「でも、次はどうすればいいか考えたいし」
「自分で考えろよ」
「考えるってば。そのうえで聞きたいの!」
美波は引き下がらなかった。
只野は舌打ちした。
昨日負けたことを、もう言い訳にするつもりはないらしい。
なら、勝手に見ればいい。
勝手に考えて、勝手に練習すればいい。
俺がいなくても。
そう思ったところで、美波がまた口を開いた。
「先生はさ、昨日の私の試合、もう一回見たいと思わない?」
「……」
只野は答えなかった。
正直、見たい。
あの高瀬の左。
最初に美波の右をもらったあと、どうやって距離を変えてきたのか。
美波は何を見て、どこで動き始めていたのか。
実際、もう一度確かめたい部分がいくつもあった。
だが、それを口にすれば、また面倒なことになる。
「……千尋に言っとけ」
「え?」
「映像、消すなって」
美波が目を丸くした。
「先生、見るの?」
「消すなって言ってんだよ」
「それ、見るってことじゃん!」
「うるせえな!」
美波は笑いながら、前の席へ身体を乗り出した。
「千尋ー! 先生が試合の映像見たいって!」
「言ってねえだろ!」
「千尋、先生が一緒に見てくれるって!」
「話を盛るな!」
千尋が顔を上げた。
「映像は保存してあります。確認したい場面があれば、再生位置をまとめておきます」
「お前も勝手に話進めんな!」
美波の笑い声に、眠っていたひまりまで顔を上げた。
「先生! 私の試合も見てくれるんですか!」
「寝てろ!」
「もう起きました!」
車内で笑い声が広がる。
只野は頭を抱えた。
駄目だ。
こいつら、一度その気になると止まらねえ。
窓の外では、見慣れた町並みが近づいていた。
もうすぐ帰れる。
今日は帰って酒でも飲んで寝るつもりだった。
明日は日雇いの仕事を探さなきゃならない。そんな暇があるわけでもない。
なのに、いつの間にか帰ってからの練習のことを考えている。
美波の右。
真田の右。
次に同じ場面が来たら、あいつらはどうする。
只野は膝の上に置いた鞄を持ち直した。
まったく、面倒くせえ。
昨日は勝った。
それは間違いない。
でも、こいつらはもう、昨日の勝ち負けだけを見ていない。
……俺まで付き合う必要、あんのかよ。
隣で美波がスマートフォンを差し出した。
「先生、これ。最初の右が当たったところ!」
「まだ見ねえよ」
「一瞬だけ!」
「帰ってからにしろ!」
言ってしまった。
美波が、にやりと笑った。
「……帰ったら見るんだ?」
只野は顔をしかめた。
「お前、性格悪くなったな」
「先生に鍛えられたからね!」
「ふざけんな」
電車が駅へ近づき、速度を落とし始めた。
只野は窓へ顔を向けたまま、もう一度小さく舌打ちした。
帰ったら。
自分の口から出たその言葉が、どうにも気に入らなかった。




