↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/46

第38話 勝ったのに

「四勝一敗です!」


 駅のホームに、ひまりの声が響いた。


 只野は自動販売機から取り出した缶コーヒーを持ち、少し離れたベンチに座っていた。朝からよくそんな大声が出るもんだ。昨日は三ラウンドも試合をして、夜も元気だったくせに。


「女子の試合、四勝一敗ですよ! すごくないですか!」


「聞こえてるよ。うるせえな」


「先生も嬉しいですよね!」


「別に」


「ええっ!?」


 ひまりが本気で驚いた顔をした。


 隣で美波が笑っている。


「ひまり、先生に喜んでもらおうってのが間違いだよ。昨日だって、勝った子にろくなこと言ってないんだから」


「先生、もっと喜びましょうよ!」


「お前らが勝ったんだろ。勝手に喜んでろよ」


「もう喜んでます!」


「じゃあいいじゃねえか」


 ひまりは納得したような、していないような顔で首を傾げた。


 面倒くせえ。


 只野は缶を開けた。口に入ってきたコーヒーは、思ったより苦かった。


 四勝一敗。


 悪い数字じゃない。知らない大学へ乗り込んで、女子五人のうち四人が勝った。男子の真田も、自分の試合を勝って終えた。


 少し前まで倉庫で練習していた連中にしては、上出来だろう。


 だが、昨日の試合を思い返すと、勝敗とは別のものが引っかかる。


 真田の右肩。


 相手の左を受けたあと、考えるより先に前へ出た肩だ。


 あいつ、またやってやがった。


 勝ったからいい、で済ませるのなら簡単だ。実際、昨日の相手にはそれで通じた。


 だが、黒瀬にも同じ右を出すつもりなのか。


「……ったく」


 只野は缶を口へ運んだ。


 昨日の試合が終わってから、何度このことを考えているのか。


 自分でも嫌になる。


◇


「先生、そこ、空いてる?」


 電車に乗って座席へ身体を沈めると、美波が通路から顔を覗かせた。


「空いてねえ」


「誰も座ってないじゃん」


「俺の荷物があるだろ」


「膝に乗るでしょ、それくらい」


 美波は只野の小さな鞄を持ち上げ、そのまま隣へ腰を下ろした。


「おい、勝手に触んな」


「はいはい。ありがと」


「礼を言う前に聞けよ」


 窓の向こうで駅のホームがゆっくり後ろへ流れ始めた。


 美波は座席に背中を預けた。昨日の試合で疲れたのか、いつもより少し動作が鈍い。


 ただ、顔つきは悪くなかった。


 昨夜はずいぶん沈んでいた。


 只野自身、何を考えてあんなことを言ったのか分からない。


 次があるだろ。


 口に出してしまってから、少しだけ後悔した。


 そんなものが必ずあるとは限らないことを、誰より知っているくせに。


「ねえ、先生」


「あ?」


「私、昨日負けたじゃん」


「見てたよ」


「負けた人に、もうちょっと優しくできない?」


「慰めてほしいのか?」


「それはそれで腹立つなあ」


「面倒な女だな」


「先生にだけは言われたくない!」


 美波は笑ったあと、膝の上で両手を組んだ。


 しばらく窓の外を眺めていたが、やがて口を開いた。


「昨日さ、高瀬さんの左ばっかり気にしてたんだよね」


「おう」


「打つふりされると、右を出しちゃう。出さないようにすると、今度は本当に打ってくるし」


 只野は返事をしなかった。


「それで考えたんだけどさ」


 美波がこちらを向いた。


「私、相手が打ってくるのを待ちすぎてたのかな」


 只野は缶を持ったまま、美波の顔を見た。


「……何でそう思った?」


「だって、避けてから右を返そうって決めてたから。向こうが打ってこないと、私、何もできないじゃん」


「ふうん」


「こっちから先に打ってもいいんだよね。最後のラウンドで少しやったけど、もっと早く試せばよかった」


 美波は組んでいた指をほどき、右手を軽く握った。


「この右、当たると気持ちいいんだけどなあ」


「そりゃそうだろ」


「でも、当てたいからって、ずっと待ってたら駄目なんだよね」


「俺に聞くなよ」


「聞いてないって。今、考えてるの」


 美波は少しむっとした顔になった。


 只野は笑いそうになって、コーヒーでごまかした。


 昨日の敗戦を、こいつなりに持ち帰ろうとしている。


 最初に右が当たったときの嬉しそうな顔を覚えている。あれをもう一度やりたくなったのも分かる。


 だが、高瀬は二度目から変えてきた。


 美波は変えられなかった。


 昨日は、それで負けた。


「じゃ、次は私から仕掛けてみる」


 美波が言った。


「そうかよ」


「そこで『頑張れ』とか言えない?」


「言ってほしいのか?」


「……いい。先生から言われても気持ち悪いし」


「てめえ」


 美波は声を出して笑った。


 只野は窓へ顔を向けた。


 こいつ、昨日負けたばかりだぞ。


 なのに、もう次にやることを考えてやがる。


◇


 少し離れた座席から、ひまりの声が聞こえてきた。


「千尋ちゃん、これ見てください!」


「今、確認しています」


「ここです! 私、ちゃんと弱い左も打ってます!」


「弱いというより、力を抑えていますね」


「そうです、それです!」


 千尋のタブレットを、ひまりと律が覗き込んでいる。


 昨日の試合映像だろう。


 千尋は何度か画面を止め、指で位置を示していた。ひまりは一生懸命頷いているが、すぐに別のことを質問している。


 只野は二人の声を聞き流しながら、缶コーヒーを傾けた。


「先生」


 今度は前方から声がした。


 真田だった。


 通路に立った真田は、片手で座席の背を掴んでいる。


「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


「やだ」


「まだ何も言うてませんやん」


「男からの相談なんか聞いても楽しくねえんだよ」


「……それ、女子にしか言うこと聞かへんって意味ですか」


「今さら気づいたのかよ」


 美波が隣で吹き出した。


「先生、最低!」


「うっせっ」


 真田は呆れたように息を吐いた。


 それでも引き下がらない。


「昨日の試合のことです」


「だから何だよ」


「俺、また右を返してました」


 只野は缶を下ろした。


 真田の顔から、ふざけた色が消えていた。


「分かってんならいいじゃねえか」


「でも、止められへんかったんです」


「おう」


「何回かは我慢できました。相手が左を打ってきても、すぐ右を出さずに足を動かして。でも、打ち合いになったら、やっぱり出てまうんです」


 只野は真田を見上げた。


 昨日の相手は、真田の右を十分に止められなかった。


 速いし、強い。


 それだけのものを持っている。


 だが、相手の左を受けたあとの右を、黒瀬は知っている。


 高校時代から、何度も見ている。


「それで?」


「……次は、もっと意識して止めようと思ってます」


「好きにしろ」


「そこ、何か言うところちゃいます?」


「勝手に直すって言ってんだろ。何で俺の許可がいるんだよ」


 真田は言葉に詰まった。


 只野は鼻を鳴らした。


 右を打つなと言っているわけじゃない。


 その拳で勝ってきたことも、昨日また勝ったことも事実だ。


 ただ、右を出すかどうかを相手に決められてしまうのが気に入らない。


 もっとも、そんなことは前にも言った。


 同じ説教を繰り返す趣味はない。


「……分かりました。自分で試します」


「そうしろ」


 真田は少し頭を下げ、向こうの座席へ戻っていった。


 その背中を見ながら、只野はため息をついた。


 何だよ。


 勝ったやつまで、負けたみたいな顔しやがって。


◇


「先生ってさ」


 美波が小声で言った。


「何だよ」


「勝った人にも厳しいよね」


「負けたお前にも厳しいだろ」


「そういうことじゃなくて」


 美波は通路の向こうを見た。


 真田が席に戻り、何かを考え込んでいる。


「あれだけ強い真田くんが勝ったのに、まだ駄目なところあるんだ」


「あるだろ」


「先生から見たら、全員あるんじゃない?」


「そりゃあるよ」


「……即答するなあ」


 只野はコーヒーを飲んだ。


「勝っただけじゃねぇか」


 口に出してから、少し強く言いすぎたと思った。


 美波がこちらを向く。


「だけ、って」


「あ?」


「私たち、ずっと練習してきたんだよ。四人も勝てたんだから、すごいじゃん」


「誰がすごくねえって言ったよ」


「だって、勝っただけって」


「勝ったのは勝った。それでいいだろ」


 美波は眉を寄せた。


「じゃあ、何が言いたいの?」


「昨日の試合、もう一回やったら全員同じように勝てんのか?」


 美波の口が止まった。


 只野は窓の外へ目を移した。


 同じ相手でも、次は違う。


 律の左を食らった選手は、今度は距離を詰めさせまいとするだろう。ひまりの強打を見た相手は、最初からあの右を警戒する。


 千尋の相手も、綾乃の相手も、昨日のままではない。


 こっちが何かを覚えたように、向こうだって覚えて帰る。


 昨日通じたものが、次もそのまま通じるとは限らない。


 別に珍しい話じゃない。


 ボクシングなんて、昔からそういうもんだ。


「……そっか」


 美波が呟いた。


「高瀬さんも、次は私のこと知ってるもんね」


「おう」


「でも、私も高瀬さんのこと知ってるよ」


 只野は顔を向けた。


 美波は笑っていた。


「だったら、次はもっと面白くなるかも」


 只野は思わず口元を緩めた。


 何だ、その考え方。


 昨日負けたやつの言うことかよ。


 けれど、嫌いじゃなかった。


◇


 電車が大きな駅に近づく頃、綾乃が通路を歩いてきた。


 手には折り畳んだ紙を持っている。


「先生、少しいいですか」


「よくねえよ」


「昨日の結果をまとめました。大学に報告するので、確認しておきたくて」


「監督に見せろよ」


「もちろん見てもらっています。ただ、先生にも何か気になるところがあればと思って」


 綾乃は紙を差し出した。


 只野は受け取らなかった。


「俺、正式なコーチじゃねえぞ」


「知ってます」


「じゃあ、何で聞くんだよ」


「先生が、昨日の試合を全部見ていたからです」


 綾乃は淡々と言った。


 只野は返事に困った。


 全部見た。


 確かに見た。


 朝から夕方まで、ほとんどリングから目を離さなかった。途中で眠くなったし、腰も痛くなった。帰ろうと思ったことも一度や二度じゃない。


 それでも最後までいた。


 何でだよ。


「気になるところは、たくさんあります」


 綾乃が続けた。


「でも、今日は勝ったこともちゃんと喜びたいです」


 只野は顔を上げた。


「誰も止めてねえだろ」


「はい。だから喜びます」


 綾乃は少し笑った。


「そのうえで、帰ったらまた練習します」


「……勝手にしろ」


「そうします」


 まっすぐな返事だった。


 綾乃は紙を折り直し、前の席へ戻っていった。


 只野はその背中を見送った。


 こいつも変わった。


 前なら、試合が終われば自分たちの足りないところを探して、一人で背負い込んでいただろう。


 今は違う。


 勝ったことは勝ったこと。


 直すことは直すこと。


 どちらも自分で引き受けようとしている。


 ……生意気になりやがって。


 それも、悪くない。


◇


 車内が少し静かになった。


 ひまりは眠っているらしい。千尋もタブレットを閉じ、律は窓際で目を閉じていた。


 美波は隣でスマートフォンを触っている。


 只野は空になった缶を鞄の脇へ置き、座席に身体を沈めた。


 疲れた。


 何もしてねえのに。


 いや、何もしてねえから疲れるのか。


 昨日、リングに上がったのは自分じゃない。


 拳を出したのも、殴られたのも、勝ったのも負けたのも、あいつらだ。


 自分は見ていただけ。


 たまに余計な口を挟んだだけだ。


 それなのに、真田の右肩が気になって仕方ない。


 美波が次はどう仕掛けるのかも気になる。


 律が同じように潜れるのか。


 ひまりは、今度も力を選べるのか。


 千尋は相手が変わったとき、もう一度判断を変えられるのか。


 綾乃の左を、最初から警戒してくる相手ならどうなる。


 ……何を考えてんだ、俺は。


 只野は目を閉じた。


 少し前まで、女どもが練習しているのを眺めていればよかった。


 若い女が五人もいるのに、どうして朝から晩まで足やら肩やら拳やら、そんなものばかり見ているのか。


 我ながら損な話だ。


 しかも、男の真田まで加わった。


 あいつの試合なんか、見たところで何の得にもならねえ。


 それでも、見てしまった。


 あいつが左を受けた瞬間、反射的に右肩を出したのを。


 勝ったあと、浮かない顔をしていたのも。


 あれが気になったから、余計なことまで言った。


 別に、教えてやる義理はない。


 そもそも、頼まれた覚えもない。


 只野は目を開けた。


 窓ガラスに、腹の出た中年男が映っている。


 くたびれた作業着。


 薄くなった頭。


 どう見ても、大学のボクシング部に混ざって遠征するような人間じゃない。


 ……俺、何やってんだろうな。


 ガラスに映った男も、答えない。


◇


「先生」


 美波の声がした。


「今度は何だ!」


「帰ったらさ、試合の映像、一緒に見てくれない?」


「やだね」


「早っ!」


「面倒くせえ」


「先生、昨日ずっと見てたじゃん」


「昨日は昨日だろ」


「でも、次はどうすればいいか考えたいし」


「自分で考えろよ」


「考えるってば。そのうえで聞きたいの!」


 美波は引き下がらなかった。


 只野は舌打ちした。


 昨日負けたことを、もう言い訳にするつもりはないらしい。


 なら、勝手に見ればいい。


 勝手に考えて、勝手に練習すればいい。


 俺がいなくても。


 そう思ったところで、美波がまた口を開いた。


「先生はさ、昨日の私の試合、もう一回見たいと思わない?」


「……」


 只野は答えなかった。


 正直、見たい。


 あの高瀬の左。


 最初に美波の右をもらったあと、どうやって距離を変えてきたのか。


 美波は何を見て、どこで動き始めていたのか。


 実際、もう一度確かめたい部分がいくつもあった。


 だが、それを口にすれば、また面倒なことになる。


「……千尋に言っとけ」


「え?」


「映像、消すなって」


 美波が目を丸くした。


「先生、見るの?」


「消すなって言ってんだよ」


「それ、見るってことじゃん!」


「うるせえな!」


 美波は笑いながら、前の席へ身体を乗り出した。


「千尋ー! 先生が試合の映像見たいって!」


「言ってねえだろ!」


「千尋、先生が一緒に見てくれるって!」


「話を盛るな!」


 千尋が顔を上げた。


「映像は保存してあります。確認したい場面があれば、再生位置をまとめておきます」


「お前も勝手に話進めんな!」


 美波の笑い声に、眠っていたひまりまで顔を上げた。


「先生! 私の試合も見てくれるんですか!」


「寝てろ!」


「もう起きました!」


 車内で笑い声が広がる。


 只野は頭を抱えた。


 駄目だ。


 こいつら、一度その気になると止まらねえ。


 窓の外では、見慣れた町並みが近づいていた。


 もうすぐ帰れる。


 今日は帰って酒でも飲んで寝るつもりだった。


 明日は日雇いの仕事を探さなきゃならない。そんな暇があるわけでもない。


 なのに、いつの間にか帰ってからの練習のことを考えている。


 美波の右。


 真田の右。


 次に同じ場面が来たら、あいつらはどうする。


 只野は膝の上に置いた鞄を持ち直した。


 まったく、面倒くせえ。


 昨日は勝った。


 それは間違いない。


 でも、こいつらはもう、昨日の勝ち負けだけを見ていない。


 ……俺まで付き合う必要、あんのかよ。


 隣で美波がスマートフォンを差し出した。


「先生、これ。最初の右が当たったところ!」


「まだ見ねえよ」


「一瞬だけ!」


「帰ってからにしろ!」


 言ってしまった。


 美波が、にやりと笑った。


「……帰ったら見るんだ?」


 只野は顔をしかめた。


「お前、性格悪くなったな」


「先生に鍛えられたからね!」


「ふざけんな」


 電車が駅へ近づき、速度を落とし始めた。


 只野は窓へ顔を向けたまま、もう一度小さく舌打ちした。


 帰ったら。


 自分の口から出たその言葉が、どうにも気に入らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。