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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

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第37.5話 遠征の夜

「美波先輩! もうちょっとこっちです!」


 ひまりに手招きされ、美波は駅の改札前で足を止めた。


「え、何? 写真?」


「はい! みんなで撮りましょう!」


 ひまりがスマホを構えている。綾乃と千尋はすでに並んでいて、律も少し離れたところから呼ばれていた。


「いいね! せっかくの初遠征だもんね」


 美波は笑って駆け寄った。


 女子5人の対戦成績は4勝1敗。真田も勝ったので、ボクシング部としては上々の結果だった。


 その1敗が、自分だった。


「美波先輩、もっと真ん中へ!」


「はいはい、分かったって!」


 ひまりに肩を引かれ、綾乃の隣へ押し込まれる。


「みんな、準備いい?」


「いいよ」


「律ちゃん、笑って!」


「笑ってます」


「それ真顔!」


 いつものやり取りに、みんなが笑った。


 美波も口を開けて笑う。


 ひまりのスマホが小さく音を立てた。


「撮れました!」


「見せて見せて!」


 画面の中には、汗を流して着替えたばかりの5人が並んでいた。ひまりは満面の笑み。律は少し困った顔。千尋も、口元だけは柔らかくなっている。


 綾乃はいつもどおりの笑顔だ。


 自分も、ちゃんと笑っていた。


「いいじゃん! あとで送ってね!」


「はいっ!」


 スマホがしまわれると、綾乃が時計を確認した。


「そろそろホームへ行こう。帰りの電車、乗り遅れないようにね」


「はーい!」


 美波は返事をして、床に置いていたスポーツバッグを持ち上げた。


 中でグローブがぶつかり、鈍い音がした。


 ……負けたんだよなあ。


 写真を撮っている間は忘れられたのに、バッグを持った途端、また思い出してしまった。


◇


 駅の売店に寄ると、ひまりが真っ先におにぎりの棚へ向かった。


「美波先輩! これ、おいしそうです!」


「ひまり、さっきも食べてなかった?」


「食べました! でも試合で動いたから、お腹すいちゃって!」


「便利な身体してるねえ」


 美波が笑うと、ひまりは真剣に頷いた。


「いっぱい動いたら、いっぱい食べないと!」


「はいはい。じゃあ私も何か買おっかな」


 おにぎりを一つ取ろうとして、手が止まった。


 食欲がないわけではない。


 昼からまともに食べていないし、試合も終わった。お腹はすいているはずなのに、棚の前で何を食べたいのか決められなかった。


 ひまりは迷いなく二つ選んでいる。


「美波先輩、これもおいしそうですよ!」


「……うん」


「どうしました?」


「いや、ひまりってさ。勝ったあとも、いつもどおりだなって」


「え?」


「ほら。もっと試合のこと考えたりしないの?」


 ひまりは少し考えた。


「考えてますよ!」


「ほんと?」


「はい。第1ラウンド、打ちすぎちゃったなって。あと、途中で左が当たったのは嬉しかったです!」


 そこでぱっと笑う。


「でも、今はお腹すいたので!」


「あはは! そっか!」


 美波も笑った。


 そうだよね。勝っても負けても、お腹はすく。


 自分だって、いつもならそうだ。


 ひまりが会計へ向かったあと、美波は結局、小さなサンドイッチを一つ買った。


◇


 ホームには夕方の熱がまだ残っていた。


 頭上の照明はもう点いている。線路の向こうは暗くなり始め、通り過ぎる電車の窓だけが明るく流れていった。


 みんなは少し離れたベンチに集まっている。


 綾乃と真田が監督を交えて今日の試合の話をしていた。千尋は進行表の余白に何かを書いている。律はその画面を覗き込み、ひまりは買ったおにぎりを両手で大切そうに持っていた。


 美波は柱のそばに立った。


 話に混ざりたくないわけじゃない。


 むしろ、混ざりたい。


 みんなが勝ったのは嬉しいし、ひまりが最後に力を抜いて打っていたのも、千尋が相手の変化に対応したのも、綾乃の左がずっと相手の邪魔をしていたのも、ちゃんと見ていた。


 それなのに、話を聞いていると、どうしても自分の試合へ戻ってしまう。


 高瀬由衣。


 いい子だった。


 挨拶もしてくれたし、負けたあとには「最初の右、速かったです」とまで言ってくれた。


 あの言葉は嬉しかった。


 けれど、思い出すたび、そのあとに続くものまで蘇ってくる。


 高瀬の左肩が動く。


 右を出す。


 届かない。


 今度は待ってみる。


 すると本当に左が飛んできて、避けるのが遅れる。


 試合中、何度も同じことを繰り返した。


 相手が打つのを待っていたはずなのに、最後は相手が打ってくれることを願っていた。


 ……あれ、嫌だったなあ。


 美波はバッグの持ち手を握り直した。


 高瀬が嫌だったわけではない。


 自分の右を当てたくて、何もできなくなっていたのが嫌だった。


「おい」


 突然、横から声がした。


 只野だった。


「何、先生。びっくりさせないでよ」


「こっちの台詞だよ。お前が静かだと気持ち悪いんだよ」


「ひっど!」


 美波は顔をしかめた。


 只野の手には缶コーヒーがある。さっき売店で買ったらしい。


「負けた女の子に、もうちょっと優しくできないわけ?」


「じゃ、肩でも抱いてやろうか」


「やだ。汗臭そう」


「お前も今日ずっと汗かいてただろ」


「シャワー浴びたもん!」


「じゃ、お互い様じゃねえの」


「なってないから!」


 思わず声が大きくなった。


 向こうのベンチで、ひまりがこちらを見た。


「美波先輩?」


「何でもなーい!」


 手を振ると、ひまりは安心したようにおにぎりへ戻った。


 只野が鼻を鳴らす。


「元気じゃん」


「先生が余計なこと言うからでしょ」


「じゃ、いいじゃねえか」


 何がいいんだか。


 美波は呆れて顔を背けた。


 只野はそれ以上何も言わず、隣の柱にもたれた。缶コーヒーを飲みながら、ホームの向こうを見ている。


 しばらくして、美波は口を開いた。


「……ねえ、先生」


「あ?」


「私だけ負けちゃった」


「知ってる」


「みんな勝ったのに」


「おう」


「もうちょっと何かないの?」


「何が」


「慰めとかさ」


 只野は缶を口から離した。


「お前、辞めんの?」


「……は?」


「負けたから、もうボクシング辞めんの?」


「辞めないよ!」


 即答だった。


 只野がこちらを見る。


「じゃっ、次があるだろ」


 そう言って、またコーヒーを飲んだ。


 美波は返事をしなかった。


 次。


 まだ試合の予定も決まっていない。


 今日の高瀬ともう一度戦えるかも分からない。


 なのに、只野は何でもないことのように言った。


「……次、勝てるかな」


「知らねぇよ」


「そこは『勝てる』って言ってよ!」


「言ったら勝てんのかい?」


「うっ」


「なら練習しろ」


「分かってるってば」


 美波は口を尖らせた。


 でも、さっきより少しだけ息がしやすかった。


「先生ってさ」


「何だよ」


「負けた子にも、ほんと容赦ないよね」


「負けてなくても容赦してねえだろ」


「それ、自慢にならないからね?」


 只野は笑わなかった。


 ただ、空になった缶を軽く振り、ゴミ箱の方へ歩いていった。


 いつもどおりだった。


 慰めてくれたのかどうかも、よく分からない。


 けれど、美波はその背中を少し長く見送った。


◇


 帰りの電車では、綾乃の隣が空いていた。


「美波、こっち座る?」


「うん!」


 バッグを網棚へ上げ、座席へ腰を下ろす。


 電車が動き始めると、窓の外の明かりが後ろへ流れていった。


「疲れた?」


 綾乃が聞いてきた。


「そりゃ疲れたよ。試合したんだもん」


「そうだよね」


「綾乃は? 最後まで左ばっか打ってたじゃん」


「腕、重い」


「あはは! でしょ!」


 綾乃は左手を軽く開いたり閉じたりした。


 試合中、あの左が何度も相手の前進を止めていた。相手が嫌がっていたのは、美波から見ても分かった。


 ……嫌な左だったなあ。


 美波はふと、自分の右手を見た。


 高瀬の左を待ち続けてしまったこと。


 避ける方向を読まれたこと。


 右を当てようとして、先に動かされてしまったこと。


 その全部を、今すぐ直せるとは思わない。


 でも、練習なら試せる。


「ねえ、綾乃」


「何?」


「次の練習、ちょっと付き合ってくれない?」


「いいよ。何する?」


「ジャブ出してほしい」


「うん」


「あと、出すふりも」


 綾乃がこちらを見る。


「フェイント?」


「そう。それ!」


 美波は思わず身を乗り出した。


「私、今日さ。相手の左を避けて右を返すことばっかり考えてたの。最初は当たったんだけど、そのあと全然駄目で」


「うん」


「打ってこないときにも右を出しちゃうし、本当に打ってきたら今度は遅れるし。もう、どっちなのって!」


 綾乃が小さく笑った。


「美波、試合中にも言ってたよね」


「えっ、聞こえてた!?」


「うん。ちょっとだけ」


「最悪! 忘れて!」


「無理かな」


「ひどい!」


 美波は座席の背にもたれ、両手で顔を覆った。


 恥ずかしい。


 けれど、話し始めたら止まらなくなった。


「だからさ。次はジャブを待つんじゃなくて、私からも動いてみたいの」


「いいと思う」


「でも、右は捨てたくないんだよね」


「捨てなくていいでしょ」


 綾乃があっさり言った。


 美波は顔を上げた。


「……だよね!」


「うん。今日だって最初は当たったんだから」


 その言葉で、胸の奥に残っていたものが少し緩んだ。


 そうだ。


 最初の一発は、ちゃんと当たった。


 負けたからといって、練習してきた右までなくなるわけじゃない。


「じゃあ、次は綾乃の左と勝負だね」


「手加減しないよ」


「えー! 負けた子に優しくしてよ!」


「練習なんだから」


「綾乃までそれ言う!?」


 二人で笑っていると、前の座席から律が振り返った。


「美波先輩、うるさいです」


「律ちゃんまで!?」


「寝ようと思ってたのに」


「ごめんごめん!」


 美波は慌てて声を落とした。


 律が再び前を向くと、綾乃と顔を見合わせて笑う。


 電車は夜の街を走っていた。


 向かいの席では、ひまりが千尋の肩へ寄りかかって眠っている。千尋は動けずに困った顔をしていたが、起こそうとはしていなかった。


 美波は窓に映る自分を見た。


 さっき駅で撮った写真と同じ顔だ。


 でも、今度は無理に笑おうとしなくても、自然に口元が緩んだ。


 もう一度、高瀬と戦ってみたい。


 そう思った。


 勝てるかどうかは分からない。


 次に会うまでに、あの子だってもっと上手くなるだろう。


 それでも、もう一度やってみたい。


 美波はバッグの中のグローブを思い浮かべた。


 帰ったら、ちゃんと手入れをしよう。


 次の練習でも使うのだから。

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