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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

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第37話 だから?

綾乃がリングを降りてきたとき、真田は自分の右手を握り直していた。


 バンテージの上からグローブを着けてもらい、最後に手首を締めてもらう。いつもの重さだった。握って開くと、拳の形がしっくりくる。


「真田君、お待たせしました」


 綾乃が声をかけてきた。首にはタオルが掛かっている。試合直後で息が少し荒いのに、もう次の選手を気にしているらしい。


「お疲れさまでした。ええ試合でしたね」


「ありがとうございます。次は真田君ですね」


「はい」


「頑張ってください」


「ありがとうございます」


 綾乃は笑って仲間のところへ戻っていった。


 真田は、その背中を見ながらさっきの試合を思い返した。


 左ジャブ。


 あれだけで、相手がずいぶんやりにくそうにしていた。もちろん右も打っていたし、足も使っていた。ただ、何をするにしても、先に左が相手の邪魔をしていた。


 綾乃が上手いのは知っていた。


 それでも、今日の左は練習場で見ていたものと少し違った。


「おい、真田」


 振り返ると、部の先輩がグローブの紐を確かめていた。


「もうすぐやぞ。何ぼうっとしとんねん」


「綾乃さんの試合、思い出してました」


「ああ。あのジャブな。嫌らしかったわ」


「ですよね」


「お前もあれくらい嫌らしい左、覚えたらどうや」


「俺の左、そんなにあかんですか」


「悪いとは言うてへん。けど、お前の場合は右が怖すぎるからな」


 先輩が笑いながら背中を叩いてきた。


「まあ、いつもどおりやれ。お前の右が当たる相手なら、そう簡単には負けへんやろ」


「……はい」


 励ましてくれているのは分かる。


 ただ、その言葉には少し引っかかるものがあった。


 右が当たる相手なら。


 それは、間違いない。


 高校時代から、何度もその右で勝ってきた。


 黒瀬蓮を除けば。


「真田、行くぞ」


 監督に呼ばれ、真田は顔を上げた。


「はい」


 今日は黒瀬と戦うわけではない。


 まずは目の前の試合だ。


◇


 リングへ上がると、相手は中央で軽く足を動かしていた。


 体格は大きく違わない。構えも普通の右利きで、前に置いた左手を小さく動かしながら距離を確かめている。


 真田は向かい合った瞬間、相手の左肩へ目を向けた。


 ここからジャブが来る。


 そのあと、どのくらい身体が残るのか。


 自分の右が届くかどうかは、そこを見れば分かる。


 レフェリーの説明を聞き、グローブを合わせて離れる。


 ゴングが鳴った。


 相手はすぐに左ジャブを伸ばしてきた。


 真田は右グローブで受け、左足を少し前へ運んだ。相手が拳を戻すより早く左を突き返すと、相手は右グローブを上げて受け止める。


 そこへ右を伸ばした。


 相手が頭を引いたため、拳は顔に届かずガードの端を叩いた。


 もう一歩。


 そう思ったところで、相手が横へ動いた。真田は無理に追わず、足を運んで正面を取り直す。


 悪くない。


 相手の動きは見えているし、距離も合っている。


 もう一度、相手がジャブを出した。


 今度は少し深い。


 真田が右グローブで受けると、相手の前足はその場に残った。


 その瞬間には、もう右肩が動いていた。


 右ストレートが相手の顔へ届く。


 乾いた音がして、相手が後ろへ下がった。


 真田は拳を戻し、すぐに左を伸ばす。相手がガードを上げたところで距離を取った。


 ……入ったな。


 いい感触だった。


 相手もこちらを見ている。何度か左を出しかけたが、簡単には踏み込んでこなくなった。


 右を警戒している。


 真田は左ジャブで距離を測りながら、相手が出てくるのを待った。


 今度はジャブが浅かった。


 真田が右を返しても届かない位置で、相手は拳を引いてしまう。


 仕方なく左を伸ばしたが、相手はもう下がっている。


 ……さっきの右、見られたか。


 試合なら当然のことだ。


 真田は足を動かし、左を続けて出した。相手が受けながら下がるので、少し距離を詰める。そこで右を見せると、相手は顔を守るために両手を上げた。


 空いたところへ左を返す。


 グローブが顔へ触れた。


 今度は右を出さず、横へ離れた。


 相手が構え直したところで、また左ジャブが伸びてきた。


 真田は頭を外して右を返そうとしたが、相手はすでに下がっていた。拳が空を切り、伸ばしすぎた右肩に少し力が入る。


 そこへ相手の左が返ってくる。


 真田は慌てず右グローブを戻して受け、足を引いた。


 ……今のは、いらんかったな。


 そう思っているうちに、第1ラウンドが終わった。


◇


「ええ感じや」


 コーナーで監督がマウスピースを受け取った。


「右、ちゃんと当たっとる。左も使えてるから、そのまま落ち着いていこう」


「はい」


 真田は水で口をすすいだ。


 腕にも脚にも、まだ余裕がある。


 相手の動きも分かってきた。ジャブを打ったあとに下がることが多い。右を警戒して、以前より距離を取るようになっている。


 ただ、少し気になる。


 最後の右。


 あれは相手が下がるのを見てから打ったわけではなかった。


 ジャブが来た。


 だから右を返した。


 それだけだ。


「真田?」


 監督に呼ばれ、顔を上げた。


「はい」


「何考えとる?」


「……ちょっと、右の距離を」


「当たる距離を作れてるんやから、慌てんでええぞ」


「はい」


 真田は頷いた。


 わざわざ言うことでもない。


 右が当たっているのは事実だ。


 考えすぎて動けなくなる方が、よほど悪い。


◇


 第2ラウンド、相手は左ジャブを短く使うようになった。


 真田が近づくと左を出し、すぐに下がる。拳を引くのと足を引くのがほとんど同時なので、右を打ち返しても届きにくい。


 真田は左を使って距離を詰め、相手をロープに近い位置まで下がらせた。


 そこで相手が、少し深くジャブを出してきた。


 反射的に右が出る。


 ところが、相手は左を出した瞬間から後ろへ身体を引いていた。


 真田の拳が目の前を通り過ぎる。


 その戻りを狙って、相手の右ストレートが飛んできた。


 真田は左グローブを上げたが、完全には間に合わなかった。拳が顔の横へ触れ、少しだけ首が振られる。


「……っ」


 すぐに足を運んで距離を取った。


 相手は追ってこない。右を当てたあと、また同じように構えている。


 ……今の。


 胸の奥に嫌なものが残った。


 どこかで経験した感覚だった。


 左を打たれる。


 右を返す。


 その右が届くはずの場所から、相手が消えている。


 黒瀬。


 名前が浮かんだところで、真田は奥歯を噛んだ。


 今は関係ない。


 目の前の選手を見る。


 相手はもう一度、短いジャブを出した。真田は右を返しかけたが、途中で止め、左足を動かして正面から少し外れる。


 拳は出さなかった。


 相手は下がった。


 ……そうやろ。


 その距離では右が届かない。


 ならば、そこへ打つ必要はない。


 真田は左を伸ばしながら距離を詰めた。相手がガードを上げる。今度は右ではなく、もう一度左を出した。


 相手の顔へ届く。


 すぐに足を動かして離れた。


 これでええ。


 右を打たなくても、攻撃はできる。


 ところが、次のジャブが来た瞬間、また右肩が前へ動いていた。


 今度は相手が下がりきれず、右グローブの上から拳が当たった。


 相手の構えが少し崩れる。


 真田は追いかけ、左を続けて出した。相手が顔を守ったので、身体を近づけすぎない位置から右を打ち込む。


 拳がガードの内側へ入った。


 相手は一歩下がり、さらに横へ逃げた。


 真田は足を止めた。


 当たった。


 今度は右が通った。


 ……けど。


 自分がいつ右を打つのか。


 それは、相手が左を出すたびに決まってしまっていないか。


 そんな考えが頭をよぎったが、相手はもう向かってきている。


 試合中だ。


 真田は考えるのをやめ、構えを上げた。


◇


 第2ラウンドが終わったあと、監督は右の使い方を褒めた。


「ええぞ。最後、相手のガードを崩せたな」


「ありがとうございます」


「ただ、追いすぎんようにな。あの選手、距離を外すの上手いから」


「はい」


 真田は返事をしながら、向こうのコーナーを見た。


 相手の選手は水を飲んでいる。指導者の話を聞き、何度か頷いていた。


 さっきの右が効いていないわけではない。


 相手は明らかに警戒している。


 右を出せば守る。


 当たれば下がる。


 それなら、試合はこのままでも勝てるはずだ。


 なのに、どうして引っかかるんだろう。


「真田、聞いてるか?」


「はい。追いすぎないこと、ですよね」


「そうや。最後まで落ち着いていこう」


「分かりました」


 真田はマウスピースをくわえ直し、立ち上がった。


◇


 第3ラウンド、相手は最初から距離を取ってきた。


 真田が左を出すと下がり、右を打つふりをするとガードを上げる。こちらの拳を警戒しているのは分かるが、なかなか自分から前へ出てこない。


 真田は焦らず左を使った。


 相手が遠くへ逃げるなら、無理に右を当てにいく必要はない。


 左で距離を詰める。


 相手が下がれば足を運ぶ。


 正面が空いたときだけ、もう一度左を出す。


 何度か顔へ届いた。


 相手も反撃してくる。短いジャブを受けたあと、真田は右を返そうとしたが、相手が下がるのを見て拳を止めた。


 ……そこやない。


 右を打つなら、相手が残る距離で。


 そのつもりでいた。


 けれど、次に相手が深く踏み込んできたときには、身体が先に動いた。


 ジャブを受ける。


 右肩が前へ出る。


 真田の右が、相手の顔に届いた。


 相手は頭を引いて衝撃を逃がしながら、少しだけ後ろへ下がった。


 今のは当たった。


 別に悪くない。


 相手が深く入ってきたのだから、右を返して正解だった。


 そう自分に言い聞かせると、真田はすぐに左を続けた。


 相手はガードを固め、横へ逃げようとする。


 真田は足を運び、逃げた先へ左を置いた。相手のグローブが上がったところで、今度は自分から右を伸ばす。


 ――パシッ。


 拳が顔の前へ当たった。


 相手の足が一瞬止まり、真田はそれ以上追わなかった。


 この右は、自分で打つと決めた。


 さっきのとは違う。


 その違いを確かめようとしているうちに、相手がもう一度ジャブを出してきた。


 今度は浅い。


 真田は足を動かして距離を詰めた。右を打とうとしたところで、相手が横へ回る。


 真田も身体の向きを変え、左で先に触った。


 相手の右が返ってくる。


 ガードで受け、もう一度左を出す。


 相手は後ろへ下がった。


 真田は追わない。


 無理に打ち合う必要はなかった。


 残り時間が少なくなるにつれ、相手の前進も減っていく。


 真田は左で距離を管理しながら、相手が踏み込んできた場面でだけ右を返した。


 最後の右はガードに当たった。


 そのままゴングが鳴る。


 真田は息を吐き、グローブを下ろした。


 いつもの試合だった。


 相手に合わせて距離を取り、左を使い、右を当てた。


 派手な一発はない。


 それでも、十分に戦えた手応えがあった。


◇


 判定を待つ間、真田は相手の方を見た。


 向こうも息を切らしている。


 軽く頭を下げると、相手も礼を返してくれた。


 互いにコーナーへ戻り、グローブを外してもらう。汗を拭き、マウスピースを外してから中央へ呼ばれた。


 レフェリーが両者の手首を取る。


 判定が読み上げられる。


 勝者は、真田亮介。


 自分の腕が上がった。


 真田は相手へ向き直り、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 相手も礼を返してくれた。


 リングを降りると、先輩が笑いながら肩を叩いてきた。


「さすがやな。安定しとるわ」


「ありがとうございます」


「右、何発かええの入ってたやん」


「はい」


「やっぱり、お前の右は武器やな」


 真田は少しだけ笑った。


 嬉しくないわけではない。


 実際、今日も右を使って勝てた。


 自分のボクシングが通用したことは、素直に喜んでいいはずだ。


 綾乃たちも近くへ来ていた。


「真田君、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「最後、落ち着いてましたね」


「そう見えました?」


「はい。無理に追わなかったので」


 綾乃が笑った。


 真田は礼を返しながら、右手を開いた。


 グローブを外しても、まだ拳の感触が残っている。


 当てた右。


 空振りした右。


 どちらも同じ右だった。


「おい、兄ちゃん」


 横から声がした。


 壁際の椅子に座っていた只野だった。


「……何ですか?」


「また右返してたぞ」


 真田は一瞬、返事に迷った。


 さっきまで勝利を褒められていたところだ。


 なのに、この人はそんなことを気にしている。


「でも、勝ちました」


 只野が顔を上げた。


「だから?」


「……はい?」


「勝ったら、今のが全部正解になんの?」


 真田は口を閉じた。


 只野はもう、それ以上言わなかった。空になった缶コーヒーを指先で回し、退屈そうに椅子へ背中を預けている。


 真田は握っていたタオルを見下ろした。


 勝った。


 それは事実だ。


 右も当たった。


 相手は何度か避けたが、そのたびにこちらが打ち負けたわけではない。


 今日の相手には、最後まで自分のボクシングが通用した。


「……右を返すのは、悪いことなんですか?」


 只野は面倒くさそうに目を上げた。


「誰がそんなこと言ったよ」


「でも、さっき」


「返したくなったときに返すのと、勝手に出ちまうのは違うだろ」


 真田は黙った。


 只野はそれきり、缶を片づけるために立ち上がった。


「もう終わりですか」


「何が」


「話です」


「俺、お前の反省会に付き合うって言った?」


「……言うてません」


「だろ」


 そう言って歩き出す。


 真田は、その背中を追わなかった。


◇


 試合が終わった選手たちは、それぞれ片づけを始めていた。


 真田はベンチに座り、グローブを外した右手を見つめた。


 黒瀬との試合を思い出す。


 左が来る。


 受ける。


 右を返す。


 黒瀬は、その右が届かないところへ下がっていた。


 今日の相手も、何度か同じことをしてきた。


 それでも、今日は勝てた。


 相手が下がりきれず、右が届く場面もあったからだ。


 ……黒瀬やったら?


 同じ距離に、あいつは残るだろうか。


 真田は答えを出せなかった。


 ただ、右を打とうとした瞬間、相手がいなくなっていた感覚だけは覚えている。


 それが今日の試合でも、一度あった。


「真田」


 部の先輩が声をかけてきた。


「片づけ終わったら、飯でも行くか?」


「……すんません。ちょっとだけ、あとで行きます」


「何や、また反省か」


「まあ、そんなとこです」


「勝った日くらい休めよ」


「分かってます」


 先輩が笑いながら離れていく。


 真田は立ち上がり、空いている場所で軽く構えた。


 左ジャブが飛んでくる場面を思い浮かべる。


 右グローブで受ける。


 その瞬間、右肩が勝手に前へ動こうとした。


 まだ相手もいない。


 拳だって飛んできていない。


 それなのに、身体はもう右を返す準備をしている。


 真田は右手を下ろした。


 今日も勝てた。


 でも、黒瀬に勝つために直したかった課題は、まだ残っている。


 もう一度構えた。


 今度は、すぐに右を出さなかった。


 右肩が動きたがるのを感じながらも、真田はしばらくそのまま立っていた。

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