第36話 嫌な左
「綾乃先輩、次ですね」
千尋がタオルで額を押さえながら、隣へ来た。試合に勝ったばかりなのに、もう落ち着いた顔をしている。
「お疲れさま。いい試合だったよ」
「ありがとうございます。ただ、第2ラウンドは相手の変更に対応が遅れました」
「勝ったんだから、少しくらい喜べばいいのに」
「喜んでいます」
千尋は真顔で答えた。
綾乃は思わず笑った。そういえば、この子は嬉しいときも悔しいときも、最初に反省することを探してしまう。
自分も人のことは言えないけれど。
リング脇では監督が次の試合の準備を進めていた。綾乃は自分のグローブを確かめ、ヘッドガードを手に取る。
女子の対戦は、ここまで3勝1敗。
律も、ひまりも、千尋も勝った。美波は負けたけれど、練習してきた右を序盤に通している。
みんな、自分の武器を持ってリングに上がった。
綾乃は左手を握り直した。
高校1年から続けてきたボクシング。ジャブも、右ストレートも、足の運び方も、誰より練習してきたつもりだ。
なのに、自分の武器は何かと聞かれると、まだ少し迷う。
『全部七十点なんだよ』
只野の声が頭に残っていた。
下手だと言われたわけではない。それが余計に悔しかった。
綾乃はヘッドガードを着け、留め具を確かめてもらうと、リングへ向かった。
◇
相手は、綾乃が左を伸ばすとすぐに右グローブを上げた。
まだゴングは鳴っていない。中央で向かい合い、距離を確かめるように構えただけだ。
それでも、相手の視線は綾乃の左手を追っている。
……見ているんだ。
当然だ。自分だって相手の拳を見ている。
レフェリーに促され、グローブを合わせる。向こうの選手は短く挨拶し、後ろへ下がった。
綾乃もコーナーへ戻り、開始を待つ。
監督から最後に声がかかった。
「いつもどおり、落ち着いて」
「はい」
その返事だけは、迷わずできた。
ゴングが鳴った。
相手は左足を前に置き、ジャブの届く距離まで出てくる。綾乃が左を伸ばすと、相手は右グローブで受け、そのまま左を返してきた。
綾乃は頭を右へずらして避けたが、続けて飛んできた右ストレートはガードの上で受けるしかなかった。
速い。
それ以上に、拳を出す順番が決まっているようだった。こちらのジャブを受けてから、迷わず左、右とつないでくる。
綾乃は横へ回り、もう一度左を出した。
今度は額に届く。相手が少し頭を引いたので、そこへ右を伸ばしたが、距離が遠い。拳はグローブの端に触れただけだった。
相手が左へ回り、正面を取り直してくる。
その足についていきながら、綾乃は次の機会を探した。
ジャブで距離を測る。相手が下がれば詰める。前へ来れば受けて返す。
いつものボクシングだった。
大きな失敗はない。相手の拳も、ほとんどはガードで受けられている。
けれど、こちらの左を払うたびに、相手は気持ちよく次の攻撃へ入ってくる。
綾乃がジャブを出す。相手が右で払う。続けて左が飛んでくる。
今度は綾乃も左を返した。互いのグローブが顔の前でぶつかり、足が止まる。相手が先に距離を外した。
……ちゃんと戦えてる。
そう思った直後、自分でも嫌になった。
ちゃんと、というのは何だろう。
ジャブを当てた。右も出した。無理に打ち合わず、守るところは守れた。
悪くない。
けれど、相手も悪くない顔をしている。
そのとき、向こうが前足を大きく出した。綾乃は左を伸ばしたが、相手はその外へ頭を逃がし、右を返してきた。
綾乃の左グローブが戻りきる前に、拳が頬へ触れる。
「っ」
顔が少し横を向いた。すぐに足を動かして離れたが、相手は落ち着いて構え直している。
やられた。
相手は自分のジャブを怖がっていない。
そう感じたところで、第1ラウンドのゴングが鳴った。
◇
「どう?」
コーナーに戻ると、監督がマウスピースを受け取った。
「相手の右が速いです。左を払ったあと、すぐ打ってきます」
「うん。右が出る距離に長くいない方がいいね」
「はい」
綾乃は水を口に含み、バケツへ吐き出した。
試合内容そのものは悪くなかったと思う。距離は取れていたし、こちらのジャブも当たっている。
でも、それで相手が何かを諦めただろうか。
相手はジャブを受けても、打ち返してくる。
右を打っても、また前へ出てくる。
いつもの練習と同じように動けているのに、相手のやりたいことはほとんど変わっていない。
「綾乃」
監督に呼ばれ、顔を上げた。
「右を打ちにいく前に、もう少し左で距離を作ってみよう」
「はい」
綾乃は頷いてから、相手のコーナーを見た。
向こうの選手は指導者の話を聞きながら、右グローブを小さく動かしている。
あの右で、また私の左を払うつもりだろうか。
それなら、払わせてもいいのかもしれない。
そう思ったところで、次のラウンドを知らせる音が鳴った。
◇
第2ラウンド、綾乃は最初のジャブを少し早く出した。
相手が踏み込んでくるのを待たず、前足が動き始めたところへ左を伸ばす。相手は右グローブで受けたが、そのまま前へ来ようとして足を止めた。
綾乃は拳を引き、無理に追わなかった。
もう一度、相手が距離を詰めようとする。
今度も左を出す。
相手は右で払った。すぐに反撃してくると思い、綾乃は頭を外して足を動かした。
ところが、相手の右は出てこなかった。
右グローブでこちらの左を処理したあと、もう一度構え直していたのだ。
……今、打てなかった?
綾乃は左を出すふりをして、相手の右手を見た。
グローブが少し上がる。
それだけで、相手の踏み込みが止まった。
今度は本当にジャブを伸ばした。相手は頭を引いて避ける。綾乃は深追いせず、前足を一歩だけ進めた。
相手が戻ってこようとしたところへ、もう一度左。
拳の正面がヘッドガードの額へ当たった。
綾乃はすぐに戻し、相手の右を警戒する。
返ってこない。
相手は右グローブを顔の前に置いたまま、足の位置を変えている。
自分の左が相手へ当たったことより、その反応の方が気になった。
さっきまでなら、ジャブを払われたあとは相手が攻めてくると思っていた。
でも今は違う。
相手が打ちたいところへ、こちらの左が先に届いている。
綾乃はもう一度、前へ出た。
相手も左ジャブを伸ばしてくる。綾乃は右グローブで受けながら、左足を小さく進めた。相手が続けて右を出そうと肩を動かしたところへ、短いジャブを返す。
――パシッ。
額へ触れた。
相手の右は途中で止まり、両手が顔の前へ戻った。
綾乃はそこで離れる。
無理に右を打つ必要はない。相手が右を出す前に、こちらの左が届いた。
それだけで、次の攻撃を止められた。
もちろん、毎回うまくいくわけではなかった。
相手も距離を変えてくる。綾乃の左が届かないところからジャブを出し、こちらが追えば右を合わせようとする。
綾乃は一度、その右をガードの上に受けた。
下がって距離を作り直すと、相手は今度、前へ出てこなかった。
……さっきまで来てたのに。
綾乃は左を軽く見せた。
相手が右グローブを上げる。
その間に前足を少し進め、今度は本物のジャブを顔へ伸ばした。相手が後ろへ下がるので、それ以上は追わない。
相手は、自分から近づいて右を打つ形を作りにくくなっている。
綾乃はその変化を見ながら、また左を出した。
第2ラウンドが終わったとき、相手はすぐにコーナーへ戻らず、一度だけ綾乃の左手を見た。
◇
「今の、よかったよ」
監督が水を差し出した。
「相手の右が減ってきたね」
「はい」
綾乃も感じていた。
相手の右は速い。そこは変わっていない。
ただ、こちらの左を払ったあと、簡単には次の拳を出してこなくなった。
綾乃はグローブを見た。
いつもと同じ左だ。
速さを急に上げたわけでも、特別な打ち方を覚えたわけでもない。
それなのに、相手の動きが変わっている。
「綾乃、聞いてる?」
「……はい。すみません」
監督が苦笑した。
「左ばかりになりすぎないようにね。相手もそろそろ別の入り方をしてくる」
「分かりました」
ロープの向こうで美波が手を振っている。
「綾乃ー! いい感じ!」
ひまりも隣で頷いていた。
綾乃は手を上げて応えた。
今度は、相手がどう変えてくるか。
それを見たいと思った。
◇
第3ラウンド、相手は簡単にジャブを受けなくなった。
綾乃が左を伸ばすと、少し頭を動かして外す。こちらがもう一度出そうとすると、今度は横へ足を運び、正面から外れてくる。
最初の左が空を切った。
そのまま右を返そうとしたところへ、相手の左フックが来る。
綾乃は右グローブで受けたが、勢いに押されて一歩下がった。
……やっぱり、変えてきた。
相手はもう、ジャブを右で払ってから打ち返すつもりではないらしい。
先に身体を動かし、左を避けてから反撃しようとしている。
綾乃は構え直した。
相手が正面へ戻るのを待つ。
いや、待っていたら同じだ。
相手が動いた先に、自分がいる必要がある。
綾乃は少し距離を詰め、左を伸ばした。相手が横へ外れたので、すぐには追わず、後ろ足を運んで身体の向きを変える。
相手が正面を取り直したとき、そこにはもう綾乃の左があった。
拳がグローブに当たる。
相手は一度、その場でガードを上げた。
今のは顔に当たっていない。けれど、相手は左を避けたあと、自由に反撃できなかった。
次も同じように動くかもしれない。
綾乃は相手の前足を見た。
横へ行くつもりなら、もっと早く足の向きが変わるはずだ。
相手の左肩が動いた。
ジャブが来る。
綾乃は右グローブで受け、相手が踏み込むより少し早く左を返した。
今度は顔へ届いた。
相手の頭が小さく後ろへ動く。
すぐに離れようとしたところへ、相手が右ストレートを打ってきた。綾乃は完全には避けられず、左肩とグローブで受ける。
腕が重い。
第2ラウンドからずっと左を使っている。前腕が張り、戻すたびに肩が少し疲れる。
それでも、足はまだ動く。
綾乃は距離を取り直した。
相手がまた前へ出ようとしている。
ここで左を見せれば、相手はガードを上げるだろう。
綾乃は拳を少し前へ動かした。
予想どおり、相手の右グローブが上がる。
そのまま左を出すと思われたのか、相手は頭を横へずらした。
綾乃はジャブを途中まで伸ばして引き、相手の頭が戻るのを待たずに右足で床を押した。
右ストレート。
相手の右グローブはまだ左を警戒していた。綾乃の右が、中央に残った隙間へ届く。
――パシッ。
顔へ当たった。
すぐに拳を戻し、横へ離れる。
相手も反撃の左を出してきたが、距離が足りなかった。
……打てた。
綾乃は右のグローブを見た。
右を打とうと思ったから、右を打ったのではない。
左を嫌がった相手が、右を受けにくい位置に残った。
だから打てた。
相手が構え直す。
もう一度、前へ出てきた。
今度は左を警戒して、頭を小さく動かしている。綾乃は無理に右を狙わず、相手の動く先へ足を運んだ。
相手が止まる。
こちらも止まる。
相手の左が出かかった。
綾乃はジャブを伸ばした。
拳が相手の額へ当たり、出かかった左が戻る。
相手は少しだけ顔をしかめた。
綾乃はそれを見て、初めて思った。
嫌だろうな。
何かしようとするたびに、先に触られるのは。
相手がもう一度近づく。今度は綾乃の左を警戒して横へ動いたが、綾乃も足を運び、正面を取り直した。
ジャブを見せる。
相手が止まる。
今度は打たず、こちらも距離を保つ。
相手が我慢しきれず左を出したところへ、綾乃は頭を外して短い左を返した。
グローブが顔へ触れた。
相手の右が続いたが、ガードで受けられた。
そのままゴングが鳴った。
◇
綾乃は拳を戻し、息を吐いた。
相手も肩を上下させている。
中央でグローブを合わせると、向こうの選手が小さく笑った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
コーナーへ戻り、監督にグローブとヘッドガードを外してもらう。前髪が額へ張りついていたので、タオルで汗を押さえた。
左腕が重い。
指を開いたり閉じたりすると、前腕の筋肉が少し痛んだ。
それだけ使ったのだ。
中央へ呼び戻され、相手と並ぶ。
レフェリーが2人の手首を取った。
判定が告げられる。
自分の名前が聞こえた。
右腕が持ち上げられた。
綾乃は一瞬、息を止めた。
……勝った。
向き直って相手へ頭を下げる。
相手も礼を返してくれた。
「左、ずっと来ましたね」
小さな声でそう言われた。
綾乃は驚いて顔を上げた。
「……はい」
「最後、右まで来るとは思いませんでした」
「私も、打てると思っていませんでした」
そう答えると、相手が笑った。
「またお願いします」
「こちらこそ」
綾乃はもう一度、頭を下げた。
◇
「綾乃ぉ! おめでとう!」
リングを降りると、美波が駆け寄ってきた。
「すごかったじゃん! 最後の右!」
「ありがとう」
「いや、あの右もよかったけどさ。左がもう、ずっと邪魔そうだった!」
「邪魔そう?」
「相手、何かしようとするたびに止まってたじゃん。見てるこっちまで『もう打たせてあげて』って思ったもん」
綾乃は少し笑った。
「美波、どっちの応援してたの?」
「もちろん綾乃! でも相手の気持ちもちょっと分かる!」
ひまりが隣で大きく頷いている。
「私も、あれは嫌です! 右を打ちたいときに、先に顔を叩かれちゃうんですよね!」
「ひまりはまず、また全部百で打たないようにね」
「もう大丈夫です!」
「まだ1試合でしょ」
「そこは褒めてくださいよぉ!」
ひまりの大声に、綾乃は笑ってしまった。
その横で千尋が何か言いかけたが、美波に先を越された。
「千尋、分析はあとね。今はお祝い!」
「……まだ何も言っていません」
「顔に書いてある」
「書いていません」
いつものやり取りだった。
綾乃はタオルを首に掛け直した。
みんなが笑っている。
勝ったことも嬉しかったけれど、今はその顔を見ている方が落ち着く。
「おい、綾乃」
只野が壁際から声をかけた。
「はい」
「今日も地味だったな」
「それ、美波にも言われました」
「じゃ、地味なんだろ」
「もう少し別の感想はないんですか?」
只野は面倒くさそうに頭をかいた。
「勝ったんだろ」
「はい」
「ならいいじゃねえか」
「……そうですね」
綾乃は自分の左手を見た。
特別な打ち方を覚えたわけではない。
いつものジャブだった。
けれど、今日は相手が何をしようとしているのかを見て、その前に左を置いた。
相手が嫌がっているのは、拳の強さではなかった。
やりたいことを先に邪魔されることだった。
「先生」
「何だよ、まだあんのか」
「一つ、見つかりました」
只野は綾乃を見た。
少しだけ眉を上げる。
「ふうん」
それだけだった。
今度は、その返事でよかった。
◇
次の試合の準備が始まっていた。
真田がグローブを着け、リング脇で軽く身体を動かしている。男子の試合も、まだ残っている。
綾乃はタオルで汗を拭き、少し離れたところから真田の様子を見た。
速い右を持つ選手だ。
その右が、今日の相手にはどう通じるのだろう。
真田が構えた。
前に置いた左グローブを小さく動かし、続けて右拳を伸ばす。鋭い音を立てて空を切ると、すぐに構えへ戻った。
綾乃は自分の左腕を軽く曲げた。
疲れている。
でも、さっきの相手の動きはまだ覚えている。
左を出したとき、相手が何をやめたのか。
次の練習でも、それを確かめたい。
「綾乃、真田の試合、始まるよ!」
美波に呼ばれ、顔を上げた。
「うん。行こう」
綾乃はタオルを肩へ掛け直し、仲間たちと一緒にリングが見える場所へ移動した。




