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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

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第36話 嫌な左


「綾乃先輩、次ですね」


 千尋がタオルで額を押さえながら、隣へ来た。試合に勝ったばかりなのに、もう落ち着いた顔をしている。


「お疲れさま。いい試合だったよ」


「ありがとうございます。ただ、第2ラウンドは相手の変更に対応が遅れました」


「勝ったんだから、少しくらい喜べばいいのに」


「喜んでいます」


 千尋は真顔で答えた。


 綾乃は思わず笑った。そういえば、この子は嬉しいときも悔しいときも、最初に反省することを探してしまう。


 自分も人のことは言えないけれど。


 リング脇では監督が次の試合の準備を進めていた。綾乃は自分のグローブを確かめ、ヘッドガードを手に取る。


 女子の対戦は、ここまで3勝1敗。


 律も、ひまりも、千尋も勝った。美波は負けたけれど、練習してきた右を序盤に通している。


 みんな、自分の武器を持ってリングに上がった。


 綾乃は左手を握り直した。


 高校1年から続けてきたボクシング。ジャブも、右ストレートも、足の運び方も、誰より練習してきたつもりだ。


 なのに、自分の武器は何かと聞かれると、まだ少し迷う。


『全部七十点なんだよ』


 只野の声が頭に残っていた。


 下手だと言われたわけではない。それが余計に悔しかった。


 綾乃はヘッドガードを着け、留め具を確かめてもらうと、リングへ向かった。


 ◇


 相手は、綾乃が左を伸ばすとすぐに右グローブを上げた。


 まだゴングは鳴っていない。中央で向かい合い、距離を確かめるように構えただけだ。


 それでも、相手の視線は綾乃の左手を追っている。


 ……見ているんだ。


 当然だ。自分だって相手の拳を見ている。


 レフェリーに促され、グローブを合わせる。向こうの選手は短く挨拶し、後ろへ下がった。


 綾乃もコーナーへ戻り、開始を待つ。


 監督から最後に声がかかった。


「いつもどおり、落ち着いて」


「はい」


 その返事だけは、迷わずできた。


 ゴングが鳴った。


 相手は左足を前に置き、ジャブの届く距離まで出てくる。綾乃が左を伸ばすと、相手は右グローブで受け、そのまま左を返してきた。


 綾乃は頭を右へずらして避けたが、続けて飛んできた右ストレートはガードの上で受けるしかなかった。


 速い。


 それ以上に、拳を出す順番が決まっているようだった。こちらのジャブを受けてから、迷わず左、右とつないでくる。


 綾乃は横へ回り、もう一度左を出した。


 今度は額に届く。相手が少し頭を引いたので、そこへ右を伸ばしたが、距離が遠い。拳はグローブの端に触れただけだった。


 相手が左へ回り、正面を取り直してくる。


 その足についていきながら、綾乃は次の機会を探した。


 ジャブで距離を測る。相手が下がれば詰める。前へ来れば受けて返す。


 いつものボクシングだった。


 大きな失敗はない。相手の拳も、ほとんどはガードで受けられている。


 けれど、こちらの左を払うたびに、相手は気持ちよく次の攻撃へ入ってくる。


 綾乃がジャブを出す。相手が右で払う。続けて左が飛んでくる。


 今度は綾乃も左を返した。互いのグローブが顔の前でぶつかり、足が止まる。相手が先に距離を外した。


 ……ちゃんと戦えてる。


 そう思った直後、自分でも嫌になった。


 ちゃんと、というのは何だろう。


 ジャブを当てた。右も出した。無理に打ち合わず、守るところは守れた。


 悪くない。


 けれど、相手も悪くない顔をしている。


 そのとき、向こうが前足を大きく出した。綾乃は左を伸ばしたが、相手はその外へ頭を逃がし、右を返してきた。


 綾乃の左グローブが戻りきる前に、拳が頬へ触れる。


「っ」


 顔が少し横を向いた。すぐに足を動かして離れたが、相手は落ち着いて構え直している。


 やられた。


 相手は自分のジャブを怖がっていない。


 そう感じたところで、第1ラウンドのゴングが鳴った。


 ◇


「どう?」


 コーナーに戻ると、監督がマウスピースを受け取った。


「相手の右が速いです。左を払ったあと、すぐ打ってきます」


「うん。右が出る距離に長くいない方がいいね」


「はい」


 綾乃は水を口に含み、バケツへ吐き出した。


 試合内容そのものは悪くなかったと思う。距離は取れていたし、こちらのジャブも当たっている。


 でも、それで相手が何かを諦めただろうか。


 相手はジャブを受けても、打ち返してくる。


 右を打っても、また前へ出てくる。


 いつもの練習と同じように動けているのに、相手のやりたいことはほとんど変わっていない。


「綾乃」


 監督に呼ばれ、顔を上げた。


「右を打ちにいく前に、もう少し左で距離を作ってみよう」


「はい」


 綾乃は頷いてから、相手のコーナーを見た。


 向こうの選手は指導者の話を聞きながら、右グローブを小さく動かしている。


 あの右で、また私の左を払うつもりだろうか。


 それなら、払わせてもいいのかもしれない。


 そう思ったところで、次のラウンドを知らせる音が鳴った。


 ◇


 第2ラウンド、綾乃は最初のジャブを少し早く出した。


 相手が踏み込んでくるのを待たず、前足が動き始めたところへ左を伸ばす。相手は右グローブで受けたが、そのまま前へ来ようとして足を止めた。


 綾乃は拳を引き、無理に追わなかった。


 もう一度、相手が距離を詰めようとする。


 今度も左を出す。


 相手は右で払った。すぐに反撃してくると思い、綾乃は頭を外して足を動かした。


 ところが、相手の右は出てこなかった。


 右グローブでこちらの左を処理したあと、もう一度構え直していたのだ。


 ……今、打てなかった?


 綾乃は左を出すふりをして、相手の右手を見た。


 グローブが少し上がる。


 それだけで、相手の踏み込みが止まった。


 今度は本当にジャブを伸ばした。相手は頭を引いて避ける。綾乃は深追いせず、前足を一歩だけ進めた。


 相手が戻ってこようとしたところへ、もう一度左。


 拳の正面がヘッドガードの額へ当たった。


 綾乃はすぐに戻し、相手の右を警戒する。


 返ってこない。


 相手は右グローブを顔の前に置いたまま、足の位置を変えている。


 自分の左が相手へ当たったことより、その反応の方が気になった。


 さっきまでなら、ジャブを払われたあとは相手が攻めてくると思っていた。


 でも今は違う。


 相手が打ちたいところへ、こちらの左が先に届いている。


 綾乃はもう一度、前へ出た。


 相手も左ジャブを伸ばしてくる。綾乃は右グローブで受けながら、左足を小さく進めた。相手が続けて右を出そうと肩を動かしたところへ、短いジャブを返す。


 ――パシッ。


 額へ触れた。


 相手の右は途中で止まり、両手が顔の前へ戻った。


 綾乃はそこで離れる。


 無理に右を打つ必要はない。相手が右を出す前に、こちらの左が届いた。


 それだけで、次の攻撃を止められた。


 もちろん、毎回うまくいくわけではなかった。


 相手も距離を変えてくる。綾乃の左が届かないところからジャブを出し、こちらが追えば右を合わせようとする。


 綾乃は一度、その右をガードの上に受けた。


 下がって距離を作り直すと、相手は今度、前へ出てこなかった。


 ……さっきまで来てたのに。


 綾乃は左を軽く見せた。


 相手が右グローブを上げる。


 その間に前足を少し進め、今度は本物のジャブを顔へ伸ばした。相手が後ろへ下がるので、それ以上は追わない。


 相手は、自分から近づいて右を打つ形を作りにくくなっている。


 綾乃はその変化を見ながら、また左を出した。


 第2ラウンドが終わったとき、相手はすぐにコーナーへ戻らず、一度だけ綾乃の左手を見た。


 ◇


「今の、よかったよ」


 監督が水を差し出した。


「相手の右が減ってきたね」


「はい」


 綾乃も感じていた。


 相手の右は速い。そこは変わっていない。


 ただ、こちらの左を払ったあと、簡単には次の拳を出してこなくなった。


 綾乃はグローブを見た。


 いつもと同じ左だ。


 速さを急に上げたわけでも、特別な打ち方を覚えたわけでもない。


 それなのに、相手の動きが変わっている。


「綾乃、聞いてる?」


「……はい。すみません」


 監督が苦笑した。


「左ばかりになりすぎないようにね。相手もそろそろ別の入り方をしてくる」


「分かりました」


 ロープの向こうで美波が手を振っている。


「綾乃ー! いい感じ!」


 ひまりも隣で頷いていた。


 綾乃は手を上げて応えた。


 今度は、相手がどう変えてくるか。


 それを見たいと思った。


 ◇


 第3ラウンド、相手は簡単にジャブを受けなくなった。


 綾乃が左を伸ばすと、少し頭を動かして外す。こちらがもう一度出そうとすると、今度は横へ足を運び、正面から外れてくる。


 最初の左が空を切った。


 そのまま右を返そうとしたところへ、相手の左フックが来る。


 綾乃は右グローブで受けたが、勢いに押されて一歩下がった。


 ……やっぱり、変えてきた。


 相手はもう、ジャブを右で払ってから打ち返すつもりではないらしい。


 先に身体を動かし、左を避けてから反撃しようとしている。


 綾乃は構え直した。


 相手が正面へ戻るのを待つ。


 いや、待っていたら同じだ。


 相手が動いた先に、自分がいる必要がある。


 綾乃は少し距離を詰め、左を伸ばした。相手が横へ外れたので、すぐには追わず、後ろ足を運んで身体の向きを変える。


 相手が正面を取り直したとき、そこにはもう綾乃の左があった。


 拳がグローブに当たる。


 相手は一度、その場でガードを上げた。


 今のは顔に当たっていない。けれど、相手は左を避けたあと、自由に反撃できなかった。


 次も同じように動くかもしれない。


 綾乃は相手の前足を見た。


 横へ行くつもりなら、もっと早く足の向きが変わるはずだ。


 相手の左肩が動いた。


 ジャブが来る。


 綾乃は右グローブで受け、相手が踏み込むより少し早く左を返した。


 今度は顔へ届いた。


 相手の頭が小さく後ろへ動く。


 すぐに離れようとしたところへ、相手が右ストレートを打ってきた。綾乃は完全には避けられず、左肩とグローブで受ける。


 腕が重い。


 第2ラウンドからずっと左を使っている。前腕が張り、戻すたびに肩が少し疲れる。


 それでも、足はまだ動く。


 綾乃は距離を取り直した。


 相手がまた前へ出ようとしている。


 ここで左を見せれば、相手はガードを上げるだろう。


 綾乃は拳を少し前へ動かした。


 予想どおり、相手の右グローブが上がる。


 そのまま左を出すと思われたのか、相手は頭を横へずらした。


 綾乃はジャブを途中まで伸ばして引き、相手の頭が戻るのを待たずに右足で床を押した。


 右ストレート。


 相手の右グローブはまだ左を警戒していた。綾乃の右が、中央に残った隙間へ届く。


 ――パシッ。


 顔へ当たった。


 すぐに拳を戻し、横へ離れる。


 相手も反撃の左を出してきたが、距離が足りなかった。


 ……打てた。


 綾乃は右のグローブを見た。


 右を打とうと思ったから、右を打ったのではない。


 左を嫌がった相手が、右を受けにくい位置に残った。


 だから打てた。


 相手が構え直す。


 もう一度、前へ出てきた。


 今度は左を警戒して、頭を小さく動かしている。綾乃は無理に右を狙わず、相手の動く先へ足を運んだ。


 相手が止まる。


 こちらも止まる。


 相手の左が出かかった。


 綾乃はジャブを伸ばした。


 拳が相手の額へ当たり、出かかった左が戻る。


 相手は少しだけ顔をしかめた。


 綾乃はそれを見て、初めて思った。


 嫌だろうな。


 何かしようとするたびに、先に触られるのは。


 相手がもう一度近づく。今度は綾乃の左を警戒して横へ動いたが、綾乃も足を運び、正面を取り直した。


 ジャブを見せる。


 相手が止まる。


 今度は打たず、こちらも距離を保つ。


 相手が我慢しきれず左を出したところへ、綾乃は頭を外して短い左を返した。


 グローブが顔へ触れた。


 相手の右が続いたが、ガードで受けられた。


 そのままゴングが鳴った。


 ◇


 綾乃は拳を戻し、息を吐いた。


 相手も肩を上下させている。


 中央でグローブを合わせると、向こうの選手が小さく笑った。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 コーナーへ戻り、監督にグローブとヘッドガードを外してもらう。前髪が額へ張りついていたので、タオルで汗を押さえた。


 左腕が重い。


 指を開いたり閉じたりすると、前腕の筋肉が少し痛んだ。


 それだけ使ったのだ。


 中央へ呼び戻され、相手と並ぶ。


 レフェリーが2人の手首を取った。


 判定が告げられる。


 自分の名前が聞こえた。


 右腕が持ち上げられた。


 綾乃は一瞬、息を止めた。


 ……勝った。


 向き直って相手へ頭を下げる。


 相手も礼を返してくれた。


「左、ずっと来ましたね」


 小さな声でそう言われた。


 綾乃は驚いて顔を上げた。


「……はい」


「最後、右まで来るとは思いませんでした」


「私も、打てると思っていませんでした」


 そう答えると、相手が笑った。


「またお願いします」


「こちらこそ」


 綾乃はもう一度、頭を下げた。


 ◇


「綾乃ぉ! おめでとう!」


 リングを降りると、美波が駆け寄ってきた。


「すごかったじゃん! 最後の右!」


「ありがとう」


「いや、あの右もよかったけどさ。左がもう、ずっと邪魔そうだった!」


「邪魔そう?」


「相手、何かしようとするたびに止まってたじゃん。見てるこっちまで『もう打たせてあげて』って思ったもん」


 綾乃は少し笑った。


「美波、どっちの応援してたの?」


「もちろん綾乃! でも相手の気持ちもちょっと分かる!」


 ひまりが隣で大きく頷いている。


「私も、あれは嫌です! 右を打ちたいときに、先に顔を叩かれちゃうんですよね!」


「ひまりはまず、また全部百で打たないようにね」


「もう大丈夫です!」


「まだ1試合でしょ」


「そこは褒めてくださいよぉ!」


 ひまりの大声に、綾乃は笑ってしまった。


 その横で千尋が何か言いかけたが、美波に先を越された。


「千尋、分析はあとね。今はお祝い!」


「……まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「書いていません」


 いつものやり取りだった。


 綾乃はタオルを首に掛け直した。


 みんなが笑っている。


 勝ったことも嬉しかったけれど、今はその顔を見ている方が落ち着く。


「おい、綾乃」


 只野が壁際から声をかけた。


「はい」


「今日も地味だったな」


「それ、美波にも言われました」


「じゃ、地味なんだろ」


「もう少し別の感想はないんですか?」


 只野は面倒くさそうに頭をかいた。


「勝ったんだろ」


「はい」


「ならいいじゃねえか」


「……そうですね」


 綾乃は自分の左手を見た。


 特別な打ち方を覚えたわけではない。


 いつものジャブだった。


 けれど、今日は相手が何をしようとしているのかを見て、その前に左を置いた。


 相手が嫌がっているのは、拳の強さではなかった。


 やりたいことを先に邪魔されることだった。


「先生」


「何だよ、まだあんのか」


「一つ、見つかりました」


 只野は綾乃を見た。


 少しだけ眉を上げる。


「ふうん」


 それだけだった。


 今度は、その返事でよかった。


 ◇


 次の試合の準備が始まっていた。


 真田がグローブを着け、リング脇で軽く身体を動かしている。男子の試合も、まだ残っている。


 綾乃はタオルで汗を拭き、少し離れたところから真田の様子を見た。


 速い右を持つ選手だ。


 その右が、今日の相手にはどう通じるのだろう。


 真田が構えた。


 前に置いた左グローブを小さく動かし、続けて右拳を伸ばす。鋭い音を立てて空を切ると、すぐに構えへ戻った。


 綾乃は自分の左腕を軽く曲げた。


 疲れている。


 でも、さっきの相手の動きはまだ覚えている。


 左を出したとき、相手が何をやめたのか。


 次の練習でも、それを確かめたい。


「綾乃、真田の試合、始まるよ!」


 美波に呼ばれ、顔を上げた。


「うん。行こう」


 綾乃はタオルを肩へ掛け直し、仲間たちと一緒にリングが見える場所へ移動した。

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