第35話 変わったあと
「千尋ちゃーん! 頑張ってください!」
ひまりの声が背中に飛んできた。
千尋はリングへ向かう足を止め、振り返った。ひまりはタオルを首に掛け、水のボトルを握っている。ついさっき試合を終えたばかりなのに、誰よりも元気だった。
「先輩。まず座ってください」
「座ってます!」
「今、立っています」
「あっ、ほんとだ!」
美波が隣で笑った。
その美波の首にもタオルが掛かっていた。ひまりと違い、表情にはまだ少し硬さが残っている。
今日の女子の対戦成績は、ここまで2勝1敗。
律が勝ち、美波が負け、ひまりが勝った。
千尋は自分のグローブを見下ろした。次は51kg級の自分の番だ。
勝ちたい。
もちろん、それは最初から変わっていない。ただ、前回の試合と違うことが一つある。
勝つために必要な情報を、全部そろえようとは思っていなかった。
「千尋、準備できた?」
綾乃に呼ばれ、頷いた。
「はい。問題ありません」
「その返事、問題あるときにも言うよね」
美波が横から口を挟む。
「問題があれば報告します」
「ほんとかなあ」
「疑う理由は何ですか」
「その返しがもう千尋なんだって!」
ひまりがまた笑った。
千尋は口元を少しだけ緩め、リングへ向かった。
◇
相手の構えを見たとき、最初に気になったのは足だった。
左足が前。膝は軽く曲がり、後ろ足にも十分な幅がある。両手のガードは高すぎず、ジャブを出すための左腕にも余裕があった。
相手校には女子選手が複数いる。誰もが同じように戦うわけではないし、千尋がこの選手の癖をすべて知っているわけでもない。
だから、まず見る。
前回、只野に言われたことを思い出す。
『数字は昨日まで。今日どう動くかは目で見ろ』
今日の相手は、目の前にいる。
それで十分だ。
自分のコーナーで監督にヘッドガードを確かめてもらい、千尋は中央へ進んだ。レフェリーの説明を聞き、相手とグローブを合わせる。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
相手は短く答えた。
ゴングが鳴る。
千尋はすぐには踏み込まず、相手の前足がどこへ動くかを見た。
相手の左ジャブが伸びてきた。
千尋は右グローブで受ける。拳が戻るのとほぼ同時に、相手の後ろ足が下がった。
続いて前足も引かれる。
……下がる。
こちらが近づいてくる前に、距離を取り直している。
千尋は一歩だけ前へ出て、左を伸ばした。相手は右グローブで受けながら、また後ろへ下がる。
追おうと思えば追える。
ただ、深追いすれば反撃を受ける。
千尋は前足を止め、相手がもう一度ジャブを出すのを待った。
相手の左が伸びる。千尋は頭を右へ少し外し、拳が戻るところへ左足を進めた。
相手が下がる。
その後ろ足が床に着いたとき、前足がまだ動いていなかった。
千尋は左ジャブを伸ばした。
――パシッ。
相手の顔面へ軽く触れた。
当たった。
次の拳を打とうとしたところで、相手の右肩が動いた。千尋は左を引き、半歩離れる。右ストレートがガードの前を通り過ぎた。
……今のでよい。
余計に追わず、有効な一発を打てた。
相手が距離を詰めてくる。ジャブを出したあと、また下がった。
千尋はその足を見てから前へ出た。
今度は相手も先にガードを上げていたため、左は右グローブに止められた。すぐに右が返ってきたので、千尋は身体を外へ逃がして受けずに済んだ。
単純な相手ではない。
ただ、ここまでの動きには一定の傾向があった。
ジャブを打つ。
距離を取る。
こちらが追ってくると、右を返す。
ならば、最初の後退に合わせてジャブを出し、相手が右を打つ前に位置を変えればいい。
千尋はその動きを試した。何度かガードに止められたが、相手が下がりながら構えを直すところへ、もう一発だけ左を当てられた。
互いに距離を取り直したところで、第1ラウンドのゴングが鳴った。
◇
「どう?」
コーナーへ戻ると、監督がマウスピースを受け取ってくれた。
「相手はジャブのあと、後退して距離を取り直す傾向があります」
「うん。見えてるね」
「ただし、下がり切る前に右を返してきます。追いすぎない方がいいと思います」
「そうだね。今の距離なら左が届いてるから、無理に奥まで入らなくていいよ」
「はい」
水を口に含み、バケツへ吐き出す。
身体に大きな疲労はない。
第1ラウンドは、自分から動けていた。
千尋は相手のコーナーへ目を向けた。
向こうの指導者が身をかがめ、選手の足元を指している。選手は何度か頷いたあと、立ち上がって小さく前足を動かした。
何を言われているかまでは聞こえない。
ただ、さっきとは違う動きを確かめているように見えた。
千尋は監督からマウスピースを受け取った。
次も同じように下がってくれるとは限らない。
そんなことは、もう知っている。
◇
第2ラウンドが始まった。
相手は左を伸ばしてきた。千尋はガードで受け、下がるところへ自分の左を合わせようと足を出す。
ところが、相手は下がらなかった。
引いた左拳の後ろから、そのまま身体ごと前へ出てくる。
千尋が前足を置いた位置へ、相手の身体が入ってきた。
近い。
右を出そうとしても、肘が窮屈になる。拳を戻そうとしたところへ相手の短い右が脇腹へ入り、千尋は半歩下がった。
相手がもう一度左を出す。
今度はジャブのあとも前足を引かない。千尋が距離を取ると、その分だけ詰めてくる。
……変わった。
第1ラウンドでは、こちらが近づくと相手が下がった。
今は、向こうから近づいてくる。
千尋は左を出して止めようとしたが、相手は右グローブで受けたまま踏み込みを続けた。拳を戻す前に、もう一度ジャブが飛んでくる。
額の前へ当たった。
続く右を左グローブで受ける。身体が押され、後ろ足が流れた。
千尋は横へ回ろうとしたが、相手が足を運んで正面を取り直した。
……このままでは、さっきの距離に戻れない。
相手コーナーから大きな声が聞こえた。
「いいよ! そこで下がらない!」
相手の指導者だった。
千尋は声の方を見なかった。
見る必要はない。
実際に相手の足が、もう下がっていないのだから。
次のジャブが来る。千尋は右グローブで受け、前へ出ようとした相手の左足を見た。
やはり、踏み込んでくる。
ならば。
千尋は一歩後ろへ足を引いた。
相手の右ストレートが伸びてくるが、少し遠い。拳は左グローブに触れただけで、顔には届かなかった。
今のは避けられた。
けれど、こちらからは何も打てていない。
相手は前へ出るのをやめず、またジャブを出してくる。千尋は受けながら少し横へ移動した。
第1ラウンドのように、相手が下がるところを追う必要はない。今は向こうから来る。
それなら迎えればいい。
千尋は相手の前足が床に着くのを見て、短い左を伸ばした。
グローブの拳頭が相手の額へ触れる。
当たった。
しかし、打った直後に相手の右が返ってきた。千尋はガードで受けたものの、また一歩下がらされた。
そのままゴングが鳴った。
◇
「千尋、どうした?」
椅子に座ると、監督が顔を近づけた。
「……相手の距離の取り方が変わりました」
「そうだね。前へ出てくるようになった」
「第1ラウンドでは、こちらが近づくと後退していました。今はジャブのあとも前進を続けます」
千尋は膝の上のグローブを見た。
相手の攻撃が速くなったわけではない。
自分の予測が外れたのだ。
いや。
予測の基になった動きが、途中で変わった。
以前の千尋なら、ここで両方のラウンドの記録を並べ、どちらが正しいのかを考えていた。
後退する選手なのか。
前進する選手なのか。
どちらかに決めなければ、対策が立てられないと思っていた。
でも、今は試合中だ。
終わってからなら、何度でも映像を見返せる。
「千尋?」
監督に呼ばれ、顔を上げた。
「今、考えているのは?」
「……第1ラウンドの予測は、その時点では間違っていませんでした」
「うん」
「第2ラウンドでは、別の動きになりました。だから対応を変えます」
監督が頷く。
「それでいい。無理に打ち合う必要はないから、足を使ってね」
「はい」
千尋は一度、大きく息を吐いた。
リングの外では、美波がタオルを振っている。
「千尋ー! 難しい顔しすぎ!」
「元からです!」
思わず言い返すと、美波が笑った。
ひまりまで大きな声で応援している。
うるさい。
でも、さっきより肩の力が抜けた。
◇
第3ラウンド。
相手は再び前へ出てきた。
千尋は左ジャブを受けながら、後ろへ下がりすぎないよう足を動かす。
相手の前足が進む。
今度は、そこまで分かっている。
千尋は左を伸ばし、相手の顔へ軽く触れた。相手はガードを上げてそのまま近づこうとしたので、千尋は右足を斜め後ろへ運び、身体の向きを変える。
相手の右は届かなかった。
次も同じように前へ来るなら、その足へ合わせて動こう。
そう考えたところで、相手が今度は下がった。
千尋の左が空を切る。
……戻した。
最初のラウンドと同じように、ジャブを出してから後退したのだ。
千尋は追いかけようとして、足を止めた。
さっきまでの自分なら、「相手は前に出る」と決めた途端、その予測を新しい正解にしていただろう。
でも、相手はまた変わった。
千尋は足幅を整えた。
相手の左肩が動く。
ジャブかもしれない。何も来ないかもしれない。
拳が出る前に決めなくてもいい。
相手の前足を見る。
踏み込んできた。
千尋は右グローブを上げ、左ジャブを受けると同時に、足を斜めへ動かした。続く右が来たが、すでに身体は正面から外れている。
拳が空を通り過ぎた。
千尋は構えを戻し、相手が向き直るところへ短い左を伸ばした。
――パシッ。
相手の顔面に当たる。
今度は相手が下がった。
追う。
ただし、深くは入らない。
前足を一歩だけ進め、相手がジャブを出そうとしたところへ、こちらの左を先に置いた。
グローブが顔へ触れる。相手も右を返してきたが、千尋は腕を戻して受け、そのまま横へ離れた。
……できた。
相手が下がったから、追った。
前へ来たから、外した。
同じ相手なのに、動きは何度も変わる。
そこまでなら、以前も理解していた。けれど今日は、その変化を確認してから慌てて対策を作るのではなく、次の動きに足を合わせられている。
相手のジャブがまた伸びてくる。
千尋は少し頭を外し、左を返した。今度はガードに当たっただけだったが、そこで無理に追わず、距離を取り直した。
相手がすぐに踏み込んでくる。
千尋は一歩横へ動き、前へ出た相手の身体が正面を向き直す前に、もう一度左を伸ばした。
――パシッ。
拳の正面が顔へ届いた。
相手も右を返してくる。千尋は完全には避けられず、左グローブの横を叩かれた。足が流れたので、慌てて位置を直す。
まだ、全部は避けられない。
それでも、足は止まっていなかった。
相手が再びジャブを出す。
千尋はガードで受け、相手の後ろ足が動くのを見た。
下がる。
千尋も前へ出た。
相手が右を打ち返してきたので、千尋はそれ以上入らずに身体を外へ動かす。右が空を切り、相手は構え直した。
どちらも息が荒い。
もう一度、距離を詰める。
相手の左が伸びる。千尋も左を出した。互いの拳が交差し、千尋のグローブは相手のガードへ触れる。
その直後、終了のゴングが鳴った。
◇
千尋は両腕を下ろした。
勝ったかどうかは分からない。
第1ラウンドでは、自分の左が何度か当たった。第2ラウンドは相手に押し込まれ、先に打たれる場面が多かった。第3ラウンドも、相手の拳を完全に避けられたわけではない。
ただ、最初の試合のように、最後まで判断が追いつかずに終わることはなかった。
千尋は相手とグローブを合わせ、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
コーナーに戻り、監督にグローブとヘッドガードを外してもらう。水を一口飲み、中央へ呼ばれたので立ち上がった。
レフェリーが両者の手首を取る。
判定が告げられるまで、千尋は相手の足元を見ていた。
最初は下がっていた。
途中から前へ出てきた。
最後は両方を使っていた。
その変化を、もう一度頭の中で確かめる。
名前が呼ばれた。
雨宮千尋。
レフェリーが、自分の腕を持ち上げた。
……勝った。
一瞬、何も考えられなかった。
それからようやく息を吐く。
接戦だった。自分でも勝敗を確信できなかっただけに、腕が上がった瞬間、膝から力が抜けそうになった。
千尋は相手へ向き直り、もう一度頭を下げた。
相手も頷いてくれた。
◇
「千尋ちゃーん!」
リングを降りると、ひまりが駆け寄ってきた。
「勝ちましたね! すごいです!」
「ありがとうございます」
「途中、相手の人がどんどん前へ来て、私までドキドキしました!」
「私も困りました」
「困ってたんですか!?」
「はい。相手が変えたので」
ひまりが首を傾げた。
「でも、最後はちゃんと避けて打ってましたよね?」
「相手の動きを見てから、対応を変えました」
「えっと……?」
美波が横から口を挟んだ。
「つまり、相手が後ろへ逃げるときは追って、向こうから来たら横へ避けたってこと?」
「大まかには、そうです」
「ほら、分かりやすい!」
「正確には、相手の踏み込みと打撃の間隔も見ています」
「はいはい、千尋の追加説明入りましたー!」
美波が笑い、ひまりもつられて笑った。
千尋は反論しようとして、やめた。
必要なことは、今の説明で十分伝わっている。
「おい、千尋」
壁際から只野の声がした。
「はい」
「途中、予想外れたろ」
「はい。第2ラウンドから相手が前進するようになりました」
「ふうん」
「最初の予測は間違っていません。ただ、途中で条件が変わりました」
只野は缶コーヒーを飲みながら、面倒くさそうに頷いた。
「じゃ、いいんじゃねえの」
「……それだけですか?」
「勝っただろ」
「そうですが」
「なら何だよ」
千尋は少し考えた。
勝った。
けれど、その結果だけを見て、自分の判断がすべて正しかったと決めることはできない。
第2ラウンドでは遅れた。
第3ラウンドも、相手が再び下がった瞬間には、一度足が止まりかけた。
修正できたのは事実だが、余裕があったわけではない。
「……まだ、再現性が十分ではありません」
「好きに練習しろよ」
「します」
「聞いてねえのに宣言すんな」
只野が顔をしかめた。
千尋は少しだけ笑った。
◇
ベンチへ戻り、タブレットを開く。
試合前に書き込んだ相手の情報が残っていた。千尋はその下へ、今日の動きを記録し始めた。
最初の後退。
途中からの前進。
最後に見せた、両方の使い分け。
どれも、実際に見た動きだ。
千尋は入力を終えると、画面を閉じた。
リングの方では、綾乃がグローブをはめていた。次の試合へ向け、左腕を何度か伸ばしている。
その動きはいつもと同じだった。
まっすぐで、無駄がない。
千尋が見ていると、綾乃が気づいた。
「千尋、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「いい試合だったね」
「……まだ直すところがあります」
「私もだよ」
綾乃はそう言って、左グローブをもう一度前へ伸ばした。
千尋はタブレットをしまい、立ち上がった。
次は綾乃の試合だ。
自分の記録は、もう書き終えた。
けれど、リングの上で起こることまで、書き終えたわけではない。
千尋はベンチを離れ、綾乃の試合が見える場所へ移動した。




