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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

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第34話 全部百で打つな


「抜いてます!」


 そう答えたのに、美波先輩は笑っていた。


 ひまりはリングへ向かいながら、自分の肩に触れた。確かに硬い。右も左もグローブを強く握りすぎて、指の付け根まで疲れている。


 これから試合なのに、どうして力が抜けないんだろう。


 美波先輩はさっき負けたばかりだ。それでもいつもの調子で送り出してくれた。律ちゃんは勝った。今度は自分が勝って、またみんなで喜びたい。


 そう考えると、肩にもっと力が入ってしまう。


 コーナーでは監督がヘッドガードを確かめてくれた。ひまりはじっとしているつもりだったが、足先が動いてしまい、「ちょっとだけ止まってね」と言われた。


「す、すみません!」


 謝る声まで大きい。


 向こうのコーナーには、同じ60kg級の選手が立っていた。こちらを見て、軽く頭を下げてくる。ひまりも慌てて頭を下げた。


 相手の身体つきはしっかりしている。自分の拳を受けてもらう相手なのだと思ったら、第16話の試合が頭をよぎった。


 あのときは、打つ直前に怖くなって力を抜いた。


 でも、今は違う。サンドバッグなら強く打てるし、綾乃先輩のグローブには軽く触れることもできた。強さを自分で選ぶ練習だって、何度もやった。


 今日は、ちゃんと打ちます。


 ひまりは中央でグローブを合わせ、相手から離れた。


 ゴングが鳴った。


◇


 相手の左ジャブが伸びてきた。ひまりは右グローブで受け、左を返そうと前足を出す。相手が半歩下がったので届かなかったが、ちょうど右を打てる距離になった。


 思い切り、いきます!


 後ろ足で床を押す。腰が回り、右ストレートが相手のガードに当たった。


 バンッ、と大きな音がした。


 相手の両腕が身体の方へ押され、一歩下がる。


 ……すごい。


 練習のミットじゃない。相手が自分の拳を受けて、下がった。


 嬉しくなって、もう一度右を出そうとした。けれど、相手はすぐ横へ動いている。拳が空を切ったところへ左ジャブが返ってきて、ひまりは額の前で受けた。


 それなら左です!


 ひまりは足を踏み直し、今度は左ジャブを強く伸ばした。相手は頭を引き、また距離を取った。


 次も右。やっぱり右。


 打てば相手が下がるので、つい追いかけてしまう。相手の顔が遠ざかるたび、もう少し強く踏み込めば届く気がした。


 ところが、追えば追うほど当たらなかった。


 右を振り終えるころには肩が上がり、拳を戻すのも遅れる。相手はその間に角度を変え、こちらのガードへジャブを当ててくる。


 ひまりは慌てて両腕を戻した。


 なんでですか。ちゃんと打ってるのに。


 次の右もガードに当たったが、今度は相手の腕を押し込めなかった。思い切っているはずなのに、拳の方が重く感じる。


 また相手の左が来た。避けようとしても、足が遅れる。ヘッドガードに軽く触れられ、ひまりは少し下がった。


 息が上がっている。


 そんなに長い時間、打っていないはずなのに。


 ひまりはグローブを上げ直し、相手の前足を見た。来る。今度もジャブだ。右で受け、反撃しようとしたところで、第1ラウンドのゴングが鳴った。


◇


「ひまり、腕が重くなってない?」


 コーナーに戻ると、監督がマウスピースを受け取りながら聞いてきた。


「なってます。でも、まだ打てます!」


「それは分かる。全部を強く打とうとしてるでしょ」


「……だって、弱くしたら当たらない気がして」


「左ジャブも毎回全力で打つ必要はないよ。相手を動かすために使ってみよう」


 ひまりは水を口に含み、バケツへ吐き出した。


 強く当てることばかり考えていた。練習では三、五、七と強さを変えられたのに、リングへ上がった途端、どの拳も十にしたくなる。


 その方が勝てそうだからだ。


「先生ぇ!」


 ひまりが顔を向けると、只野は壁際の椅子で缶コーヒーを持っていた。


「何だよ」


「私、ちゃんと打ててますよね?」


「打ってんじゃねえの」


「じゃあ、何で当たらないんですか?」


「全部百で打つなよ」


「……百?」


「強いの一発見せりゃ、相手は覚えるだろ。毎回同じの振ってどうすんだ」


 ひまりはグローブを見下ろした。


 十段階なら、十が一番強い。百はきっと、全部十で打っているということだ。


「じゃあ、次は三ですか?」


「知らねえよ。お前が決めろ」


「またそれですかぁ!」


 只野はもう返事をしなかった。


 ひまりは監督からマウスピースを受け取り、立ち上がる。


 相手は、さっきの右を覚えている。


 だったら、今度は違うことをしよう。


◇


 第2ラウンドが始まると、相手は前より少し遠くに立った。ひまりが右を出しそうになると、ガードを固めて下がる。


 打つ前に逃げられちゃう。


 ひまりは大きく踏み込むのをやめ、まず左を出した。今度は全力ではない。腕だけをそっと伸ばすのでもなく、足を小さく運んで、腰の向きを保ったまま拳を返す。


 相手の右グローブに当たった。


 軽い。でも、届いた。


 相手が下がろうとするのに合わせて、もう一度左を出す。こちらも深追いせず、足の幅が崩れない位置で止める。相手はジャブを嫌がって、少し横へ回った。


 今の、疲れませんでした!


 嬉しくなったが、次の右を全力で振ったら、また同じだ。ひまりは右を出しかけてやめ、相手がどこへ動くのかを見た。


 相手は両手を高く構えている。さっきの右を受けたからだろうか。ひまりが右肩を少し前へ出すと、相手の左グローブが顔の横へ寄った。


 ……あれ?


 右を打ってないのに、守った。


 ひまりは試しに、もう一度肩を動かした。相手はすぐには下がらず、今度は右も上げて顔を覆う。


 その下で、脇腹が見えた。


 右じゃなくてもいいんだ。


 相手が短い左ジャブを出してきたので、ひまりは右グローブで受けた。前足を少し踏み込み、身体を近づけすぎないところから、左の拳を短く脇腹へ返す。


 ――ドッ。


 相手の右脇腹へ入った。


 相手が一歩下がり、右肘を下げる。


「当たった……!」


 声が出た。ひまりは追おうとしたが、相手がすぐに左を伸ばしてきたので、右グローブで受けて離れた。


 痛かっただろうか。


 そんな考えが浮かんだ。でも、相手はちゃんと立っている。左を出して、またこちらを見ていた。


 怖くないわけじゃない。


 それでも、打ったあとに拳を止めず、ガードへ戻せた。


 相手が今度は右肘を下げたまま近づいてくる。ひまりはボディを打とうとして、やめた。そこはもう守られている。


 代わりに左ジャブを顔へ伸ばすと、相手は右グローブで受け、後ろへ下がった。


 相手の足を動かせた。


 これなら、また右を打てる場所ができるかもしれない。


 ひまりは少しだけ笑った。


 そのあとも強い右を見せるたび、相手はガードを上げた。ひまりは無理に打ち込まず、左を使って距離を確かめた。何度か相手のジャブを受けたが、最初のラウンドほど振り回されずに済む。


 終了のゴングを聞いたとき、腕にはまだ余裕があった。


◇


「今の左、よかったね」


 コーナーで監督に言われ、ひまりは思わず身を乗り出した。


「ボディですか!?」


「それも。顔へ出した左も、ちゃんと使えてた」


「よかったぁ……!」


 ひまりは右腕を回した。第1ラウンドのあとよりずっと軽い。


 相手を強く殴るのが怖くて、以前は打つ直前に力を抜いていた。今は強く打てるようになったから、逆に何もかも強くしてしまう。


 ……難しいですね、ボクシング。


 やっと一つできたと思ったら、次がある。


 でも、さっきの左は自分で決めた。相手が顔を守ったのを見て、下へ打った。只野は細かく教えてくれなかったけれど、足は止まらなかった。


「次も右を打っていいよ。ただ、打つ前に相手を見よう」


 監督が言った。


「はい!」


 ひまりは頷いた。


 今度は、どの拳を強くするか自分で選ぶ。


◇


 第3ラウンド、相手は右肘を少し低く構えていた。


 左ボディを警戒しているのだろう。ひまりが前へ出ると、相手もジャブを出し、身体へ入らせないようにしてくる。


 ひまりは左で触れ、相手が下がるのを見て足を運んだ。強くないジャブでも、相手は立ち止まってくれない。けれど、追いかけすぎずに済むので、次の拳を出す余裕がある。


 相手のジャブが右グローブを叩いた。


 今度は少し強い左を返す。相手がガードを上げたので、右を打つと見せて肩を回しかけた。


 相手は両手を高くした。


 ひまりはそこで右を振らず、足をもう半歩近づけて左をボディへ向けた。しかし相手は右肘を締め、拳をガードで受けた。


 あっ、もう守ってる!


 ひまりはすぐに身体を離した。相手の右が短く返ってきたが、左グローブに当たっただけだった。


 ……じゃあ、どうしましょう。


 右は怖がられている。左ボディも覚えられた。


 ひまりは少し考えた。


 練習で、三と五を打ち分けていたときのことを思い出す。同じ形で強さを変えるのは、思っていたより難しかった。でも、弱く打っても、相手が何も感じないわけではない。


 左を出せば、相手は受ける。


 右を見せれば、上を守る。


 だったら、上も下も一度に打とうとしなくていい。


 ひまりは遠い位置から左ジャブを出した。相手は右グローブで受けたが、少しだけ足を止めた。


 もう一度、左。


 今度は相手が下がる。ひまりも追うが、走り込まない。自分が右を打てる位置に足を置くと、相手の両腕が上がった。


 ここだと思った。


 ひまりは右を強く打った。


 ――バンッ!


 相手のガードへ当たる。相手は腕を固めて受けたが、ひまりは次をすぐに強打しなかった。拳を引き、相手の右肘がまた下がりかけたのを見る。


 左のジャブを、今度は顔へ伸ばした。


 ――パシッ。


 相手は右手を下げかけていたため、グローブの前をかすめた拳が顔へ届く。


 入った!


 ひまりは嬉しくなったが、今度はそのまま追いかけなかった。相手が右を返してきたので左で受け、外側へ足を運ぶ。


 相手が向き直るまで、ほんの少し時間ができた。


 ひまりはそこで左を軽く出し、また足を動かした。右を打つふりをすると、相手は高いガードを作る。どちらもすぐには拳を出さない。


 さっきまでなら、ここで思い切り右を振っていたはずだ。


 でも、今は待てる。


 相手が先にジャブを出してくる。ひまりは右グローブで受け、小さく左を返した。相手が下がったところで足を止め、構えを保つ。


 ゴングが鳴った。


◇


 ひまりは思わず、相手の顔を見た。


 向こうも息を切らしている。それでも、グローブを差し出すと、ちゃんと合わせてくれた。


「ありがとうございました!」


 元気よく言ったら、相手が少し笑った。


 コーナーに戻り、監督にグローブとヘッドガードを外してもらう。汗が額へ流れ、ひまりはタオルで押さえた。


 勝ったかどうか、分からない。


 第1ラウンドは空振りが多かった。第2ラウンドで左ボディは入ったけれど、第3ラウンドも相手は何度もジャブを当ててきた。


 中央へ呼ばれ、相手と並ぶ。


 レフェリーが手首を取った。


 判定が告げられる。


「青コーナー、大熊ひまり」


「……え?」


 自分の名前だった。


 右腕が持ち上げられる。ひまりは慌てて反対側の選手へ頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 相手も頷き、コーナーへ戻っていった。


 勝った。


 ……勝ったんですか、私!?


 ようやく実感が湧いてきて、リングを降りる足が少し跳ねた。


◇


「ひまり、おめでと!」


 美波がタオルを広げて待っていた。ついさっきまで元気がなかったのに、今はいつもの笑顔になっている。


「美波先輩! 勝ちました!」

「知ってるって。見てたもん」

「でも、最後、いっぱい強く打ったわけじゃないんです!」

「うん。見てたよ」

「弱いのも混ぜて、右も強く打って、それで……!」


 ひまりは言葉を探した。胸の中が忙しくて、うまく説明できない。


 そこへ只野がやって来た。


「うるせえな。勝ったなら少し黙れよ」

「先生! ちゃんと百じゃないのも打ちました!」

「見りゃ分かる」

「どうでした!?」

「腕、残ってんだろ」

「はいっ!」

「じゃ、よかったんじゃねえの」


 たったそれだけだった。


「もっと褒めてくださいよぉ!」


「面倒くせえ」


 ひまりが口を尖らせると、只野は欠伸をして去っていく。


 美波が隣で笑った。


「ひまり、先生からそれ以上もらおうとするの、難しいよ」

「ですよねぇ!」


 律も近くへ来ていた。


「ひまり先輩、後半、ジャブ増えてましたね」

「えへへ。強く打たないと駄目だと思ってたんだけど、軽くても相手が動いてくれるんだね」

「……その言い方、ちょっと違う気がしますけど」

「ええっ、違うの!?」

「いえ。あとで話します」


 律は小さく笑い、次の試合の準備を始めている千尋の方を見た。


 千尋は進行表を閉じ、グローブを手に取っていた。ひまりと目が合うと、短く頷く。


 あ、次は千尋ちゃんだ。


 ひまりはタオルを握った。


 自分は勝てたけれど、みんなの試合が終わったわけではない。美波先輩の負けだって、まだ悔しい。


 でも、今は千尋ちゃんを応援したい。


「千尋ちゃーん! 頑張ってね!」


 声をかけると、千尋がこちらを振り返った。


「ひまり先輩。まず水を飲んでください。さっきから息が荒いです」


「えっ、はいっ!」


 慌てて水を受け取り、ひまりは笑った。喉を潤してから、もう一度リングの方を見る。


 強く打つのが怖かった自分が、今日は強く打つ場所も、強くしない場所も選べた。


 まだ毎回できるかは分からない。でも、次はもっと上手に選びたい。


 ひまりは水のボトルを両手で持ち直した。千尋がリングへ向かうのを、今度は静かに見送った。


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