第33話 同じ右
「律ちゃん、勝った人がそんな顔しないの」
タオルで髪を拭いていた律が、むっとしたように顔を上げた。さっきまでリングにいたせいか、頬がまだ赤い。
「美波先輩、もうすぐ試合ですよね」
「そうだよ。だからその前にお祝い。1勝目、おめでと!」
「ありがとうございます。でも……」
「はい、『でも』禁止。勝った律ちゃんに心配されると、私まで緊張するじゃん」
「心配してません」
「じゃ、その眉間のしわは何?」
律が額に手をやったので、美波は笑ってしまった。
もっとも、緊張しているのは本当だった。椅子に腰かけている間、足先が勝手に床を叩く。さっきまで十分に身体を動かしたのに、じっとしている方が疲れるなんておかしい。
顔を上げると、向こうの待機場所に高瀬由衣がいた。朝、足の動きを褒めた相手だ。高瀬はセコンドと話していたが、美波に気づくと軽く会釈してきた。
ほんと、感じのいい子だなあ。
美波も手を上げた。試合が終わったら、普通に喋れそうな気がする。でも、先に勝つのはこっちだ。
「美波、そろそろ呼ばれるよ」
綾乃に促され、グローブをはめた両手を軽く打ち合わせる。立ち上がると、壁際で脚を投げ出している只野が見えた。
「先生、私のカッコいいところ、ちゃんと見ててよ!」
「お前よりは真面目に見てるよ」
「何それ。『頑張れ』くらい言えないの?」
「さっさと行け。こっちは座ってんのも疲れるんだよ」
「座ってるだけでしょ!」
いつもの返事に、つい言い返してしまう。おかげでさっきまで気になっていた口の渇きも、少し忘れられた。
美波はリングへ上がった。自分のコーナーで監督にヘッドガードを着けてもらい、留め具を確かめてから中央へ進む。高瀬とグローブを合わせると、向こうも小さく頷いた。
さあ、やろう。
◇
高瀬は、最初のゴングが鳴っても飛び込んでこなかった。左手を前に置いたまま、前足を少し動かす。そのあとへ後ろ足もついてくるので、近づいたはずなのに、いつでも離れられそうに見えた。
朝のシャドーと同じ足だ。
美波は膝を緩め、相手の左を待った。自分から打ち合いに行くより、拳が飛んできたところを外す方が得意だ。ただ、今日は避けるだけじゃ終わらない。
高瀬の前足が出て、ジャブが伸びる。
来た。
美波は頭を右へ移すのと一緒に、後ろ足で床を押して右を出した。左のグローブが頬の脇を抜け、高瀬が拳を戻す前に、こちらの右が顔へ届く。
乾いた音がした。
よしっ!
美波は右を引き、足を運んで横へ抜けた。高瀬が振り向いてきたときには、もう相手の左が届きにくい場所にいる。
できたじゃん、私。
避け終えてから相手を探していた頃なら、今の右は間に合わなかった。只野に何度も馬鹿にされながら練習した動きが、知らない選手を相手に通じた。頬が勝手に緩む。
高瀬がもう一度ジャブを出す。美波は同じように頭を外して右を返したが、今度は左のグローブで受けられた。
もう戻したの?
高瀬は追いかけてこない。美波が横へ回れば足を運び、また正面を取る。嫌なところに、いつも前足がある。
もう一度、右が届きそうな距離になった。高瀬の左肩が小さく揺れたので、美波は右へ頭を逃がしながら拳を伸ばす。
ところが、左は飛んでこなかった。
「えっ?」
高瀬は肩を動かしただけで半歩下がっていた。美波の右が空を切る。その拳を戻しかけたところへ、今度こそ左ジャブが伸びてきた。
右のグローブでどうにか受けたが、空振りのあとで上体が前へ流れている。美波は足を動かして離れ、構えを直した。
……打つふり?
高瀬は何事もなかったように立っている。さっきの右、見られてたのかな。
確かめたい気持ちはあったが、相手はもう簡単には入ってこない。美波が動けば、それに合わせて足をずらす。こちらも左を出してみたものの、互いに当てきれないまま、第1ラウンドが終わった。
◇
「最初の右、よかったよ」
コーナーへ戻ると、監督がマウスピースを受け取ってくれた。美波は口をすすぎ、汗で貼りついた前髪を指で払う。
「でしょ? ちゃんと避けながら出た!」
「うん。ただ、最後は打ってこない左にも反応したね」
「……あれ、ちょっとずるくないですか」
「そう見せるのも技術だから。次は肩だけじゃなく、足も見よう」
「はい」と答えたものの、美波はまだ納得できない。
高瀬の前足が動いたかどうかを見てから右を出せばいい。分かっている。でも、それって前みたいに、避けてから打つのと何が違うんだろう。
やっと一緒に動くようになった右なのに。
向こうのコーナーを見ると、高瀬は足を軽く動かしながら話を聞いていた。美波に気づいて顔を上げたあと、すぐこちらの足元へ目を戻す。
……足、ね。
次こそ、ちゃんと見る。
◇
第2ラウンドが始まると、高瀬はさっきより遠いところで左肩を動かした。
美波は前足を見ようとした。けれど、頭はもう右へ動き、右腕も伸びている。高瀬は踏み込まずに立っていたので、拳は相手の顔まで届かない。
しまった。
腕を戻すより先に、高瀬が今度は前へ出た。ジャブがヘッドガードの額に当たり、美波は横へ逃げる。高瀬は追ってこなかった。また、あの距離だ。
じゃあ、次は動かない。
左肩が揺れても、美波は足を止めたまま待った。すると高瀬は本当に踏み込み、伸ばしてきたジャブを慌てて避けたところへ、もう一度左を突いてきた。2発目が右グローブを叩き、美波は後ろへ下がった。
「ちょっと、どっちなのさ!」
試合中なのに、思わず声が出た。高瀬の口元が少し動いたように見えて、ますます腹が立つ。
待ってるから、好きにされるんだ。
今度は美波から左を出した。ところが高瀬は足を引き、こちらの拳が届ききる前に右グローブで払う。追って前へ出た美波の顔へ、短い右が返ってきた。
ヘッドガードの左側に衝撃が来る。
痛みより先に、悔しさがこみ上げた。避けることには自信があったのに、今は相手が打つと分かったときには、もう近くに拳がある。
美波は足を使って横へ逃げた。それでも高瀬の左肩がまた揺れると、勝手に右を握り込んでしまう。
打つ? まだ?
前足が踏み込んでいないのを見て、今度は思いとどまった。すると高瀬が距離を詰め、本物のジャブを出してくる。ガードで受けたところへ右も重なり、美波はロープが近くなるまで下がってから、やっと横へ抜けた。
息を整えようとしても、高瀬の足は止まってくれない。向こうだって疲れているはずなのに、美波が右を出す距離にはなかなか残らなくなった。
あの子、私に右を空振りさせたいんだ。
そう思ったときには、もう左肩の動きが怖くなっていた。右を出しても駄目。出さずにいると、今度は本当に打ってくる。
第2ラウンドのゴングが鳴って、美波は思わず息を吐いた。
◇
椅子に座ると、監督が水を渡してくれた。
「高瀬さんの肩に、全部付き合わなくてもいい。美波は相手の左を待ちすぎてるよ」
「でも、打ってきたら避けないと」
「それはそう。ただ、相手が打つのを待つだけじゃなくて、自分から左を出してみよう。距離を作れば、向こうの足も好きには動けない」
「……はい」
自分からジャブを打つくらい、できる。でも、今日はあの右をもっと当てたかった。最初の一発がきれいに入ったとき、胸の奥まで気持ちよかったのだ。
もう一度、あの感触が欲しい。
美波は膝の上でグローブを押し合わせた。ロープの外では律がこちらを見上げている。ひまりも隣にいて、心配そうにしているのが分かる。
そんな顔、しないでよ。
笑って手を振りかけたが、監督に促されてマウスピースをくわえ直した。
◇
第3ラウンドは、美波から左を出した。
高瀬は頭を引いて避けたものの、すぐには近づいてこない。もう一度出した左もガードで止められたが、その間は少なくとも、自分から距離を決められた。
何だ。私から打ってもいいじゃん。
少し足が軽くなったところで、高瀬の肩が揺れた。
また、打つふり。
美波は動かなかった。ところが今度は左が本当に伸びてきたので、慌てて頭を右へ外す。右拳が出たのはそのあとだった。高瀬はすでに上体を引き、こちらの拳は空を切った。
短い右が返ってくる。美波は左のグローブで受けたが、足が斜めに流れてしまい、次の動きが遅れた。
ああ、もう!
見てからじゃ遅い。でも、見ずに動けば空振りする。
美波は距離を取り直し、相手が近づけば左を出した。高瀬は半歩下がってかわし、こちらが追いかけようとするとまた肩を揺らす。
右を返したい。
高瀬は構えたまま、こちらが動くのを待っている。相手が打たないのなら、自分から何かしなくちゃいけない。分かっているのに、またあの右を当てたくて、左足が出ない。
……打ってきてよ。
そう願った自分に腹が立った。
高瀬が一歩入る。左ジャブが伸びたので、美波は頭を右へ逃がしながら右拳を返した。けれど、相手はすぐに足を動かし、グローブは顔ではなくガードの端へ当たった。
そこへもう一度、左が来る。今度は避けられたが、美波は右を出さずに大きく離れた。
逃げるのはできる。でも、逃げた先から何をするのか、今は分からない。
終盤、美波は自分から前へ出た。左を伸ばし、足も運ぶ。ようやく高瀬に届きそうなところで、相手が一歩だけ外へ移った。高瀬のジャブが先に顔へ届き、美波が返した右は、もう戻っていたガードに止められる。
美波はもう一度前へ出ようとしたが、そこで終了のゴングが鳴った。
……もう終わり?
少しほっとしたのが、余計に悔しかった。
◇
グローブを外してもらい、ヘッドガードを取ると、汗で濡れた髪が頬へ落ちた。中央へ戻った美波は、高瀬と並んでレフェリーに手首を取られる。
発表された勝者は、高瀬由衣だった。
高瀬の手が上がる。美波は小さく頷いた。
……そっか。負けたか。
「ありがとうございました」
高瀬が頭を下げたので、美波も慌てて礼を返す。
「最初の右、速かったです」
「ありがと。……最初だけだったけどね」
「そんなことないですよ。最後まで、いつ来るか気になってました」
最後まで気にしてくれていたのなら、余計に悔しい。美波は「またやろうね」と言いかけたが、声に出せなかった。相手は感じのいい子のままだし、たぶん今も好きだ。でも、負けたばかりの自分には、うまく笑えない。
◇
「美波先輩、お疲れさまでした」
リングを降りると、律がタオルを持って待っていた。
「律ちゃん、そんな顔しないでよ。せっかく勝ったんだから」
「してません、そんな顔」
「試合前も同じこと言ってたじゃん」
「……先輩こそ、顔に出てます」
美波は返す言葉に詰まった。何でもないふりをするつもりだったのに、年下に見抜かれるのはちょっと悔しい。
「おい、美波」
壁際から只野の声がした。
「何、先生。負けた女の子に優しい一言は?」
「ねえよ、そんなもん」
「即答!? 最低!」
「前は逃げるばっかだったのに、今度は右ばっかだな」
美波は言い返しかけた。あの右を打てるようになるまで、どれだけ練習したと思ってるの。避けるだけじゃ駄目だって言ったのは先生でしょ。
けれど、最後に相手の左を待ち続けてしまったのも事実だった。
「……じゃあ、どうすればよかったの」
「知らねえよ。お前が考えろ」
「それが先生の仕事じゃないの?」
「先生じゃねえって」
「もー、そこだけは譲らないんだから!」
只野は缶コーヒーを持ち上げて、さっさと視線をリングへ戻した。
そこへひまりが駆け寄ってくる。次の試合を控えて、もうグローブをはめていた。大きな肩が耳の近くまで上がっている。
「美波先輩! 私、行ってきます!」
「うん。……ひまり、肩」
「えっ?」
「力、入ってるでしょ」
「抜いてます!」
「その声がもう抜けてないって!」
ひまりは困ったように肩を下げようとしたが、下げたつもりでまた力が入っている。美波はとうとう笑ってしまった。
「大丈夫。行っておいで。ちゃんと見てるから」
「はい!」
ひまりがリングへ向かうのを見送りながら、美波はタオルの下で右手を開いた。まだ指の付け根が硬くて、少し息を吐かないと緩まない。
ひまりが係員に呼ばれ、大きな声で返事をした。美波は右手を下ろすと、仲間の方へ顔を向けた。




