第32話 靴一足ぶん
相手の左グローブが、やけに近く見えた。
リングの中央で挨拶を済ませ、律は二歩下がった。自分より背が高くて、腕も長い。資料で確認していたし、さっきまでの準備運動も見ていた。それなのに、正面に立ってみると、伸びていない左手にまで顔を押されそうな気がする。ウォーミングアップでかいた汗がヘッドガードの縁にたまっていた。
「律、落ち着いてね」
コーナーの外から綾乃が声をかけてくれた。律は頷いて、グローブを顎へ戻す。
セコンドには部の監督がついている。只野は少し離れた椅子に座り、いつもの缶コーヒーを持っていた。目が合うかと思ったが、あの人は相手の足元を見たままだった。
……見てるなら、何か言ってくださいよ。
いや、今さら何を言われても困る。
教わったことは一つ。潜りすぎず、相手から靴一足ぶん外へ足を置く。そこで止まるのではなく、その動きのまま左を出す。何度も練習したし、できたときの感触も覚えている。
ただ、目の前の選手はミットを構えて待ってはくれない。
ゴングが鳴った。
◇
相手はすぐには打ってこなかった。左を前に置き、律が近づくと半歩下がる。離れれば、またじりっと間を詰めてきた。
律が前足を出した瞬間、ジャブが伸びた。
――パシッ。
右グローブで受けたところへ、もう一発。今度はヘッドガードの額のあたりを叩かれた。こちらが届くと思った場所に、相手の左が先にある。やっぱり、遠い。
律は膝を緩め、次のジャブに合わせて頭を外へ沈めた。拳が頭上を通り過ぎる。前足を斜めに踏み込み、相手の右脇腹が見えた。
入れた。
そう思った途端、もう一歩出ていた。肩が相手の胸元に近づき、左肘を引く余地がなくなる。無理に打った拳は相手の右腕へ押しつけるように当たっただけだった。相手が身体を寄せてきて、レフェリーの声で離れる。
……何やってるんだ、私。
練習で散々失敗した入り方だ。右の長い拳が怖くて、つい安全そうな懐の奥まで潜ってしまう。
距離を取り直すと、相手はまた左を伸ばした。律が沈むより先に、拳が顔の前まで来る。右グローブで受けて外へ回ろうとしたが、相手も向きを変えてきた。
今度こそ足を置く場所を確かめようとすると、その間に相手が下がってしまう。追えば、また近すぎる。
左を出せないまま相手のジャブを何度か受け、第1ラウンドの終了を告げるゴングを聞いた。
◇
コーナーに戻った律は、椅子に座るなり大きく息を吐いた。マウスピースを外して監督に渡し、水で口をすすぐ。
「入るところまではできてる。けど、あと一歩近いね」
「……分かってます」
つい強い口調になった。監督は気にした様子もなく、タオルを渡してくれる。
「なら、次は相手の身体をよく見て。左が打てる場所が見えたら、それ以上行かなくていい」
「はい。すみません」
律はタオルで顔を押さえた。
佐伯さんと戦ったときだって、左ボディは当てた。効いたことも覚えている。でも、あの一発の前も後も深く入りすぎて、もう一度狙おうとしても拳が詰まった。
今日は、それを直してきたはずなのに。
向こうのコーナーでは、相手が指導者の話を聞きながら左を何度も伸ばしていた。またジャブで近づけないつもりなのだろう。
「律ちゃーん、まだいけるよ!」
ロープの外から美波が声を張り上げた。ひまりも隣で手を振っている。
律は思わず笑った。試合中でもあの二人はうるさい。少し、ありがたいけれど。
立ち上がる前に一度だけ、自分のシューズの先を見た。
次は、余計な一歩を足さない。
◇
第2ラウンドが始まっても、相手は長いジャブで迎えてきた。律が頭を下げれば下がるし、ためらえば先に左を当ててくる。
律は一度、外へ回って構え直した。すぐに飛び込まない。相手の足も見ておく。
左を出す前、相手の前足が少し床を擦った。
来る。
相手が距離を詰めてジャブを伸ばしたとき、律はその外へ潜った。頭を逃がしながら、前足を斜めに運ぶ。相手の右脇腹が見えたところで、もう一歩行きたくなった。
でも、そこに置いた。
肩は相手に触れていない。左肘も曲げられる。後ろ足で床を押すと、そのまま腰が回った。
――ドッ。
短い左が、相手の右脇腹へ入った。
相手の身体がわずかに縮む。すぐに右が返ってきたが、律は上げていたグローブで受け、斜め後ろへ離れた。
息を吸い直したとき、ようやく気づく。
今の、打てた。力いっぱい振ったわけじゃないのに、拳がつかえず、腰の回転がそのまま届いた。只野のボディミットを打てたときと、足の感触が似ている。
相手は一歩下がると、右グローブを脇へ寄せた。律がまた沈もうとすると、ジャブを早めに引いて距離を取る。
さっきまでと違う。
律は追わず、もう一度相手が前へ来るのを待った。何もせず突っ立っているわけではない。少し近づいて左を誘い、相手の足が動いたら自分も角度を変える。
ジャブが来た。
今度は相手が、下がらずに前足を踏み込んでいる。律は左の外へ頭を逃がし、深く入りすぎない位置へ足を運んだ。
腰を回す。左。
――ドッ。
相手の右脇腹に、もう一度。
相手は一歩下がり、すぐにジャブで追い払おうとした。ところが、踏み出しかけた前足が床に残る。口を開け、大きく息を吐いてから構えを戻した。
律はそれを見て、追いかけるのをやめた。
佐伯さんも、あのあと一拍遅れて膝が落ちた。今回の相手は倒れそうなわけではないが、あの足の止まり方には覚えがある。
ただ、もう同じ場所は空いていなかった。
相手は右グローブを下げて脇を守り、律が入っても短いジャブで追い払ってくる。無理に左を出してみると、グローブが肘へ当たっただけだった。
なるほど。そっちは、もう駄目か。
律は一度離れて、相手が右グローブを顔へ戻すのを見た。顔を守れば脇が空く。脇を守れば、今度は顔が打てるかもしれない。
どちらも、当てさせてくれるとは限らないけれど。
次はどこを打つべきか考えているうちに、ゴングが鳴った。
◇
椅子に戻ると、さっきとは違って脚が重い。監督がマウスピースを受け取り、タオルを肩へ掛けてくれた。
「いい左だったよ。相手も肘を下げたね」
「はい。もう入りにくいです」
「無理に同じ場所へ打たなくていい。見えてるなら、自分で選んで」
律は頷いた。
相手の脇腹へ左を通せた。けれど、次はその相手も、律の入り方を見ている。同じところに飛び込めば、今度は守られる。
ロープの外で美波が何か喋っている。只野はその隣で、黙ってリングを見ていた。今は口元にも、いつものだらしない笑みがない。
律と目が合うと、只野は足元を顎で示した。
……分かってますよ。
言い返す代わりに、律は立ち上がった。
◇
第3ラウンド、相手は左肩を動かすだけで律を誘ってきた。
律がジャブだと思って潜ると、そこへ短い右が来る。右グローブで受けたが、拳の重みで頭が少し押された。
さっき左ボディを打った位置を、相手も覚えている。
同じフェイントがもう一度来た。律は沈みかけて、踏みとどまる。今度は前足が動いていない。左を本当に出すときは、そこが少し違う。
相手が前へ出てきて、左ジャブが伸びた。律は頭を外へ逃がし、前足を斜めに運ぶ。相手は右グローブを脇へ下げた。もう、そこへ左ボディは通らない。
なら、上。
身体を寄せすぎない位置に足を置いたまま、短い左を顔へ打つ。グローブの拳頭が相手のヘッドガードの頬のあたりを捉えた。
――パシッ。
すぐに引き、横へ離れる。相手の右は、さっき律がいた場所を通っていった。
……届いた。律は息を吐いて構え直した。相手が嫌がっているのは分かる。でも、まだこちらの方が前へ出続けられるというわけではない。次のジャブを受け損ない、ヘッドガードの正面を叩かれた。
そのまま続けて右が来る。律は両腕を上げて受けながら半歩下がった。足が後ろへ流れかけ、慌てて踏ん張る。
……危ない。調子に乗った。
相手は長い腕を生かして攻めてくる。律も下がってばかりではいられないが、深く入りすぎればまた左が打てなくなる。そこで一度、リングの中央へ回り直した。前へ出ると見せて止まり、相手に先に左を使わせる。
ジャブが伸びてきた。頭を外へ逃がし、前足を斜めに運ぶと、相手の右グローブがまた脇へ寄った。律は今度も顔へ左を打った。浅くはなかった。相手のヘッドガードへ拳が届き、すぐに戻せた。
相手がすぐに打ち返してきたので、律は受けながら距離を切った。
終盤は互いに疲れ、相手のジャブを完全には避けられなくなった。律もガードの上から何発か受けた。それでも、潜ったあとにどこへ足を置くかは見失わずに済んだ。
最後に相手の左が伸びたときも、律は外へ入った。右肘が下がっていたのでボディは打たず、顔を狙おうとしたところで相手が離れた。
追いかけたい気持ちをこらえて距離を取り直す。次を待つ間もなく、終了のゴングが鳴った。
◇
律は大きく息を吐いた。相手も肩で呼吸をしている。中央でグローブを合わせて礼を言うと、相手は疲れた顔のまま、小さく笑ってくれた。
勝ったかどうかは分からない。最初のラウンドではジャブをもらい続けたし、最後も相手の右を何度か受けた。けれど、途中からは自分の拳も届いた。
コーナーで監督にグローブとヘッドガードを外してもらうと、髪にたまっていた汗が額へ落ちた。マウスピースも外して、水を一口飲む。
中央に呼び戻され、レフェリーが二人の手首を持った。
判定を聞いていたつもりなのに、自分の名前が告げられたところだけ、妙に遠かった。
右腕が持ち上がる。
……勝った。
向こうの選手は唇を結んでいたが、律と目が合うと軽く頭を下げた。律も慌てて礼を返す。
「律ちゃーん!」
美波の声が聞こえた。ひまりもその隣で何度も手を振っている。さっきまで緊張していたのが馬鹿みたいで、律はそこでようやく笑った。
リングを降りると、綾乃がタオルを差し出してくれた。
「お疲れさま。あの左、ちゃんと入ってたね」
「はい。……最初は全然駄目でしたけど」
「それでも、途中で直せたでしょ」
綾乃に言われて、律は自分の足元を見た。
最初は、また深く入りすぎた。けれど途中から、相手が下がれば追わず、肘を下げれば顔を狙えた。左が当たったこと以上に、その場でやり方を変えられたのが嬉しかった。
「鳴瀬」
只野がいつの間にか近くへ来ていた。
「どうだった?」
「打てました。あの、一個外の左」
「見てたよ」
「でも、次から肘を下げられて……」
「そりゃ下げるだろ。腹殴られてんだから」
「だから顔に打ったんです」
「ふうん」
それだけか。律はタオルを握った。
「ほかに何かないんですか。初めての対外試合で勝ったんですけど」
「勝っただろ。何が不満なんだよ」
「不満じゃなくて!」
言い返しかけて、律は口を閉じた。
何を聞きたいのか、自分でも分からなくなった。褒めてほしかったのかもしれない。けれど、打てたときの足の感触だけは、誰かに認めてもらわなくても残っている。
「……ありがとうございました。あのとき、足の位置を直してもらって」
只野は面倒くさそうに頭を掻いた。
「俺が踏み込んだわけじゃねえよ」
そう言って、さっさと椅子へ戻ってしまう。
律はタオルを首に掛け直し、靴先をほんの少し斜めへ動かした。相手の左が伸びてきたとき、ここで踏みとどまれた。もう一歩行きたくなったのに、行かずに打てた。
また試したい。そう思って、律は笑いそうになった。




