第31.5話 相手大学視点
「足、全然ぶれないなあと思って」
橘美波にそう言われたのが、高瀬由衣は少し意外だった。
握手を終えて自分の待機場所へ戻りながら、もう一度振り返る。向こうは仲間と何か話していた。笑うときに肩まで動く、ずいぶん人懐っこい子だ。
今日の54kg級で対戦する相手。
初めて会ったのに、あっという間に距離を詰められた。しかも、褒められたのが足だ。パンチが速いでも、格好いいでもなく、足元がぶれない、と。
由衣自身、踏み込んだあとに足幅を崩さないことは何度も練習してきた。華やかなところじゃないから、そこに気づいてもらえたのは素直に嬉しい。
「高瀬先輩、何か話してました?」
ベンチでバンテージを巻いていた後輩が顔を上げた。
「向こうの54kg級の子と話してた。足の動きを褒められた」
「足ですか?」
「うん」
「変わってますね」
「ね。私もちょっと驚いた」
後輩が笑った。
「初めての遠征だって聞きましたけど、余裕ありそうでした?」
「さあ。笑ってたけど、それだけじゃ分からないよ」
由衣は進行表を膝に置いた。
新しく男女一つのボクシング部になってから、初めての対抗戦らしい。こちらの大学は遠征も交流試合も毎年あるが、だからといって相手を見もせず勝てると思うほど、由衣は自信家ではない。
笑いながら足を観察する選手。
そういう子が、リングで何をするのかは少し気になる。
◇
体育館の奥では、相手大学の選手たちが準備を始めていた。
由衣は立ち上がって肩を回した。計量も確認も終わっている。あとは身体を温めて、出番を待つだけだ。
リング脇で白石綾乃が仲間に声をかけている。何かを尋ねられると、手元の進行表を見て、ちゃんと相手の顔を見て答えていた。
「部長さんかな」
由衣が呟くと、後輩が同じ方を見た。
「真面目そうな人ですね」
「うん。練習の動きもきれい」
白石が軽くジャブを出した。左肩が上がりすぎず、拳もまっすぐ戻ってくる。
その横で、大柄な女子がミットを持つ仲間に何か注意されていた。
「力抜いて、ひまり」
「抜いてますって!」
声だけは、ずいぶん大きい。
後輩が吹き出す。由衣も口元を緩めたが、あの子の踏み込みには目が留まった。右を出す前に、後ろ足でしっかり床を押している。
軽く当てているだけだから威力は分からない。それでも、身体の大きさに頼って腕を振り回しているわけではなさそうだった。
少し離れたところには、進行表とスマートフォンを交互に見ている小柄な女子もいた。仲間の動きを見上げては、画面に何かを入力している。
「雨宮さんでしたっけ。あの子も出るんですよね」
「うん。資料に名前あったね」
後輩は自分の相手を探しているらしい。視線がリングの反対側へ動いた。
「あ、いた。鳴瀬さん」
鳴瀬律は、鏡の前で低く構えていた。
小さい。
由衣が最初に思ったのは、それだった。けれど、次に目を引いたのは足の方だ。
鳴瀬は膝を緩め、頭を少し外へ動かしてから一歩踏み込んだ。止まって、元へ戻る。次は足の置き場所をほんの少し変え、同じ動作を繰り返した。
「私の方が腕、長いですよね」
後輩が言った。
「そうだね」
「近づかせなければ大丈夫かなって」
由衣はすぐには答えなかった。
遠くから眺めている分には、鳴瀬が何を狙っているのかまでは分からない。ただ、あの低さのまま入ってこられたとき、こちらのジャブがどこを通るかは考えておいた方がよさそうだ。
「腕のリーチは使えると思う。でも、入ってこない前提で動かない方がいいよ」
「……はい」
後輩のこはもう一度、鳴瀬の足元を見た。
新しい部だと聞いていたから、何となく全員ぎこちないのかと思っていた。
そんなことはなかった。
完成されているとまでは言えない。けれど、少なくともみんな、自分の得意な形を持っているように見える。
普通に手強そうだ。
由衣は自分のシューズの紐を確かめ、足首を軽く回した。
◇
男子の方から、ミットを打つ音が響いた。
――バンッ。
短く、硬い音だった。
由衣が顔を上げると、相手大学の男子選手が先輩と向かい合っていた。前足を動かして距離を測り、軽く左を出したところで、先輩が右のミットを上げる。
次の瞬間、右ストレートが入った。
――バンッ!
打った拳が戻るのが速い。前へ乗った体重も、次の構えへ戻すうちにきれいに収まっていた。
「真田亮介だ」
近くにいた自分の大学の男子部員が言った。
「高校3冠の?」
「そう。あいつが来るとはな」
由衣も名前は知っていた。高校の大会で何度も結果を残してきた選手だ。
もう一度見る。
先輩が少し下がると、真田は慌てて追わなかった。自分も足を運んで距離を詰め直し、また右を打つ。ミットの端を叩いてしまったときは、何も言われる前に構え直した。
なるほど。有名なのは名前だけじゃない。
「男子の方、強い人が来ましたね」
後輩が言った。
「うん。あの右は、うたれる方は嫌だろうな」
自分が対戦するわけではないのに、思わず肩に力が入る。
女子5人を見たときとは、違う緊張があった。動きの端々に、試合を重ねてきた選手の余裕が見える。
もっとも、今見ているのはミット練習だ。リングの中でどうなるかまでは分からない。
そのとき、先輩が真田へ何か言い、左のミットを顔の前に差し出した。
ジャブのつもりだろうか。
真田の右肩が、ぴくっと前に動いた。
拳は出なかった。すぐに元の構えへ戻ったので、由衣も見間違いかと思った。
「おい、真田」
体育館の端から男の声が飛んだ。
「左、見せられただけで右肩動いてんぞ」
真田が動きを止める。
由衣は声の主を探した。
壁際のパイプ椅子に、作業着の男が座っている。片手には缶コーヒー。頭は禿げていて、お腹も出ていた。
大学の指導者というより、工事の休憩中にふらっと入ってきた人みたいだ。
「……もう一回、お願いします」
真田が先輩に頼んだ。
先輩は左のミットを軽く差し出す。今度は真田の右肩が動かない。そのまま一度足を使って構え直した。
「ふうん」
作業着の男はそれだけ言って、また缶コーヒーを飲んだ。
由衣は真田よりも、その男を見ていた。
離れた椅子から、あの小さな動きが見えたのだろうか。
しかも真田は、言い返すどころか自分から確かめ直していた。
「高瀬先輩。あの人、どなたですか?」
後輩も気になったらしい。
「分からない。向こうの関係者だとは思うけど」
男の胸元には、少なくとも由衣から見える範囲に名札はなかった。チームの服も着ていない。
少しすると、その男は今度は女子のストレッチを眺め始めた。
「こっちの大学、女子多いなあ」
口元を緩めたままの言い方に、由衣は眉を寄せた。
同じことを言うにしても、もっとまともな言い方があるだろうに。
橘美波が通りかかり、男の視線に気づいた。
「先生、よその子までじろじろ見ない!」
「先生じゃねえし。見ちゃいけねえのかよ」
「そういう見方が駄目なんだってば!」
男は面倒くさそうに手を振った。美波も慣れた様子で言い返し、そのまま仲間のところへ戻っていった。
「……先生じゃないんですかね」
後輩が小声で言う。
「本人は違うって言ってたね」
由衣は苦笑した。
ああいう人に指導してもらいたいかと聞かれたら、返事に困る。
けれど、さっきの指摘は確かだった。
それに、真田の反応も気になる。
高校3冠の選手が、あの一言をわざわざ確かめ直した。
偶然だったのかもしれない。以前から注意されていたことなのかもしれない。
由衣に分かるのは、そこまでだった。
何者なんだろう、あのおじさん。
◇
「高瀬、そろそろこっちも準備して」
自分たちの指導者に呼ばれ、由衣は後輩とベンチへ戻った。
リング周辺では係員が選手の呼び出しを始めている。何組かの選手がグローブや防具を確かめ、短く身体を動かしていた。
由衣はグローブを持ち上げた。
頭に浮かんだのは、さっきの橘美波だった。
あの子は私の足を見ていた。だったら、私の左が伸びたとき、足がどこへ動くかも見てくるだろう。
笑ってばかりいたからといって、油断していい相手ではない。
「先輩」
後輩の子が呼びに来た。
「私、そろそろ試合です」
相手は鳴瀬律。女子の最初の試合だった。
「緊張してる?」
「少し。でも、ちゃんと距離を取ります」
由衣は頷いた。
後輩の得意な距離で戦えれば、それが一番いい。
ただ、鳴瀬が素直にそこへとどまってくれるかは別だ。
「さっき、鳴瀬さんが何回も足の位置を変えてたの、見た?」
「はい」
「どこへ入ろうとしてるか、最初の一歩を見て。腕が長いからって、足まで届くわけじゃないから」
「分かりました」
後輩は答え、深く息を吐いた。
由衣はその肩を軽く叩く。
向こうの待機場所でも、鳴瀬が呼ばれて立ち上がった。隣の白石が何か声をかけると、鳴瀬は短く頷く。
小柄な身体。
低い構え。
そして、前足。
鳴瀬はリングへ向かう前に、床を確かめるように一度だけ足を踏み直した。
由衣は、その動きを見届けた。
作業着の男の正体は、結局分からなかった。けれど、今はそれを考えている場合じゃない。
もうすぐ後輩がリングへ上がる。
向こうの小さな1年生が、どこまで懐に入ってくるのか。
まずは、それを見なければならない。




