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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
3章

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第31話 初遠征


 駅の改札前で只野を見つけた瞬間、美波は自分の肩が少し痛くなった。


 こっちはグローブにバンテージ、着替えとタオルを詰め込んだスポーツバッグを持っている。忘れ物が怖くて、昨日の夜に3回も中身を確かめた。

 なのに、只野の足元には小さな肩掛け鞄が1つ。服装も、いつものくたびれた作業着だった。


「旅行じゃねえんだろ」

「対抗戦だよ? 着替えとか持ってこないの?」

「俺が試合すんの?」

「しないけど」

「じゃあ、いらねえだろ」


 そういう理屈なら、そもそも来なくてもいいことになる。


「ねえ、先生。結局ついてくるんだ?」

「たまたま暇だったんだよ」

「朝から電車に乗って、他大学まで?」

「帰るぞ、俺」

「はいはい。ありがとね!」


 只野が眉を寄せた。


「まだ何もしてねえよ」

「でも来たじゃん」


 そのまま歩きだすと、背後から「勝手な女だな」と聞こえた。

 美波は振り返らずに笑った。


「美波! そろそろ改札通るよ!」


 綾乃が乗車券を手にこちらを呼んでいる。

 隣の真田は、男子部員と用具の数を確認していた。今日の試合用のグローブや防具は、事前に決めたものを持っていく。先方に任せきりにしないところが、真田らしい。


「はーい!」


 美波は鞄を持ち直した。


 正式なボクシング部になって、初めての遠征。

 遠足みたいだと言ったら綾乃に怒られるだろうか。


 ……いや、もう22歳なんだけどね、私。


◇


「美波先輩、こっち空いてます!」


 電車へ乗り込むと、ひまりが窓際の席から手を振った。

 隣に座るなり、ひまりは膝の上の鞄を抱きしめる。


「私、昨日あんまり寝られなくて!」

「緊張?」

「はい! あと、途中でお腹がすいたらどうしようって」

「そっちも心配してたの?」


 美波が笑うと、ひまりは真剣に頷いた。


「朝は食べたんです。でも、計量があるから、着いてから勝手に何か食べるわけにもいかなくて」

「じゃあ、計量が終わったら少し食べよ。試合の前にお腹いっぱいになりすぎない程度に」

「はいっ!」


 ひまりの顔がぱっと明るくなった。


 向かいの席では千尋が予定表を開いている。


「駅から体育館までは、そのまま移動するのが安全です。計量の受付時間に余裕はありますが、寄り道するほどではありません」

「千尋、私が駅前見たいって言ったの、まだ気にしてる?」

「言ったのは事実です」

「見るだけ! 観光はしない!」

「なら問題ありません」


 まったく、逃げ道を与えてくれない。


「ひまり、今笑ったでしょ」

「笑ってません!」

「肩、揺れてた」

「電車が揺れたんです!」


 便利な言い訳だなあ。


 少し離れた席では、綾乃が真田と書類を見比べていた。律はその向こうで、窓の外を眺めている。

 いつもの顔ぶれなのに、窓から見える町だけが知らない場所へ変わっていく。


 美波は足元のバッグを寄せようとして、自分のつま先が小刻みに動いているのに気づいた。


 あれ。私も落ち着いてないじゃん。


「美波先輩?」


 ひまりに見られて、慌てて足を止める。


「どうしました?」

「んー、早く着かないかなって」

「私もです!」


 ひまりは満面の笑みだった。

 こっちは楽しみ半分、緊張半分。なのに、ひまりを見ると、全部楽しそうなものに思えてくるから不思議だ。


 相手は、どんな子なんだろう。


 綾乃みたいに、正面からきっちり打ってくる?

 律みたいに、足元へ潜ってくる?


 最近は避けるだけじゃなく、そこから右を返す練習もしてきた。

 でも、いつもの相手なら、最初の一歩でどこへ動くか何となく分かる。


 今日は、それが分からない。


 美波はもう一度、つま先を動かしかけて笑った。


 ……相手も、私の避け方を知らないんだよね。


◇


 相手大学の体育館は、入口のガラス越しに広いロビーが見えた。


 美波は綾乃たちについて受付へ向かった。

 担当者は大学名を確認すると、名簿に印をつけてくれた。女子5人と男子部員たちの名前が同じ出場者一覧に並んでいる。


「受付はこちらで済みました。計量場所は男女で分かれています。女子の皆さんは廊下の右手、男子の皆さんは左手へお願いします」


「ありがとうございます」


 綾乃が頭を下げ、美波も続いた。


 ……あ、普通なんだ。


 女子が5人も来たんですね、と言われるかと思っていた。

 でも、係の人は何でもない顔で次の大学の受付を始めている。


「何か忘れ物ですか?」


 千尋に尋ねられた。


「ううん。何にも」

「なら行きましょう。計量の前に本人確認があります」


 千尋に腕を引かれ、美波は思わず笑ってしまった。

 変な期待をしていたのは、私の方か。


 計量室には、先に来ていた女子選手たちがいた。

 壁際で軽く足を動かしている人もいれば、友達と話している人もいる。

 もちろん全員が同じ大学の選手とは限らない。それでも、そこにいることを誰も不思議がっていなかった。


 名前を呼ばれ、本人確認を済ませてから体重計へ上がる。

 表示が止まり、担当者が記録を見て頷いた。


「はい。確認できました」

「ありがとうございます!」


 美波は体重計を降り、案内に従って残りの健康確認も済ませた。

 拍子抜けするくらい、あっさり終わった。


「美波先輩!」


 ひまりが手を振っている。


「私も終わりました!」

「お疲れ。お腹すいた?」

「すきました!」


 即答だった。


「早っ!」

「ずっと我慢してたので!」


 近くにいた背の高い女子選手が、くすっと笑った。


「私も計量が終わったら、すぐ何か食べたい方です」


 それを聞いたひまりの顔が、また明るくなった。


「ですよね! 何を食べますか?」

「私は、軽くおにぎりとか」

「おにぎり! いいですね!」

「でも食べすぎると動きにくいから、ほどほどにね」

「はいっ!」


 初対面なのに、もう食べ物の話で盛り上がっている。


 すごいな、ひまり。


 美波は笑いながら、横にいた律へ声をかけた。


「律、緊張してないの?」

「してますよ」

「全然そう見えない」

「緊張していても、計量はできますから」

「そりゃそうなんだけどさ」


 年下の律は、こういうとき妙に落ち着いている。

 ひまりは緊張するとよく喋るし、千尋は予定表ばかり確認する。

 綾乃はいつも以上にしっかり者になる。


 じゃあ私は?


 ……人の顔色を見て、安心しようとしてるのかな。


 それに気づいたら、ちょっとだけ恥ずかしくなった。


◇


 計量を終えて体育館へ戻ると、リングの周りには選手用の待機場所が作られていた。


 真田が綾乃に何か説明している。


「当日の進行と試合の組み合わせ、確認できました。競技の担当者と救護の場所も受付で教えてもらってます」

「ありがとう。女子の分も、あとでみんなに共有するね」


 綾乃が資料に目を落とす。

 いつもの確認作業だけど、今日はそれを聞いて少しほっとした。

 知らない場所で、誰に声をかければいいか分からないのは困るから。


 美波がバッグを長椅子の下へ入れたとき、リングの向こうで女子選手がシャドーボクシングを始めた。


 つい、手が止まった。


 前足を出しながら左を打つ。

 後ろ足がついてきて、肩が戻る。

 次のパンチに備えて足を置き直しているのに、頭の位置は大きくぶれない。


 ……あの子、足が流れない。


 自分だったらどうするだろう。

 左を避けようとして大きく外へ逃げて、それから右を返そうとして……また足を寄せることになる。


 最近は少しずつ直ってきた。

 でも、まだ毎回できるわけじゃない。


 目の前の子が強いかどうかは、実際に向かい合ってみないと分からない。

 ただ、同じ動きを繰り返しても、足元がばたつかないのが気になった。


「美波」


 綾乃に呼ばれ、慌てて顔を向ける。


「荷物、ちゃんと置いた?」

「置いた置いた!」

「あとでウォーミングアップするからね」

「分かってるって!」


 返事をしながらも、もう一度向こうを見てしまう。


 今までの私は、避けるのがうまくいけば、それで嬉しかった。

 でもあの子は、打ったあとも次の動きに間に合う場所へ足を置いている。


 ……嫌な感じ。

 私も、ああいうふうに動きたい。


「おい、美波」


 後ろから呼ばれた。


 只野が壁際の椅子で、だらしなく脚を伸ばしている。


「何? 先生も観光中?」

「お前がずっときょろきょろしてるからだろ」

「初めての場所なんだから、見るでしょ」

「遠足かよ」


 美波は腰に手を当てた。


「先生だって、遠征なんて初めてじゃないの?」

「初めてなわけねえだろ」

「え?」


 只野は缶コーヒーを口へ運んだ。


「日雇いでも、遠い現場くらい行くわ」

「そっちかーい!」


 美波が声を上げると、只野はうるさそうに顔をしかめた。


「で、先生。あの子、どう思う?」

「誰だよ」

「あっちでシャドーしてる子」

「ふうん」


 只野の視線が向こうへ動いた。

 最初は選手の身体つきを眺めていたくせに、相手がジャブを出した途端、目が足元へ落ちた。


「前足、落ち着いてんな」

「やっぱり?」

「打っても足がばたつかねえ。お前と違って」

「最後の一言いらなくない!?」

「違うのかよ」

「……まだ練習中なの!」


 只野は鼻を鳴らした。


「じゃあ、やれよ」

「言われなくてもやるってば」


 腹が立つ。

 でも、さっき自分でも同じところを見ていたのは、ちょっと嬉しかった。


「先生、今日の私の試合も見るよね?」

「暇ならな」

「ここまで来て、ほかに何するの」

「若い女がいっぱいいるじゃん」

「最低! 試合中はちゃんと見てよ!」

「うるせえな」


 只野はそっぽを向いた。


 ほんと、どうしようもないおっさん。

 なのに、いつものやり取りをしただけで、さっきまでより肩が軽くなっていた。


「……最低な安心感だなあ」

「何か言ったか?」

「何でもなーい!」


◇


 自分の待機場所へ戻ると、綾乃が試合の順番をみんなに伝えていた。


 律は手を握ったり開いたりしながら聞いている。千尋は配られた進行表に印をつけ、ひまりは食べ終わった小さなおにぎりの包みを片づけていた。


 美波は進行表にある自分の階級を確認した。


 54kg級。


 印刷された自分の名前の向こうに、相手校の選手の名前がある。

 さっき資料で読んだ名前なのに、ここに来ると妙に近く感じた。


「あの、すみません」


 声をかけられて顔を上げる。

 相手校の女子選手が1人、すぐそばに立っていた。


「橘さんですよね?」

「はい。美波です!」


 その子は進行表を指差して、少し笑った。


「今日、54kg級で橘さんと当たることになってます。よろしくお願いします」

「あっ、こちらこそ! よろしく!」


 差し出された手を握った。


 手のひらは少し乾いていた。指は細いけれど、握る力はしっかりしている。

 女の子同士だから、という遠慮はない。初めて会う選手同士の挨拶だった。


「さっき、シャドーしてた?」

「え? はい。見えてました?」

「足、全然ぶれないなあと思って」

「ありがとうございます。でも、試合だとどうなるか分かりませんけど」


 相手の子が照れたように笑った。


「橘さんも、今日はよろしくお願いします」

「うん! お互い頑張ろうね」


 相手の子が待機場所へ戻っていく。


 美波は、その背中を見ていた。


 ……あの子が、私の相手なんだ。


 どうしよう。


 ちょっと、嬉しい。

 ちょっと、怖い。


 でも、どっちも今までとは違う。


「美波、どうしたの?」


 綾乃が隣へ来た。


「んー。向こうの子、ちゃんとしてるなあって」

「そうだね」

「さっき挨拶してくれた。私の名前も覚えてたし」


 綾乃が進行表を見る。


「同じ54kg級の選手だもんね」

「うん」


 美波は自分の手を開いた。


 倉庫で練習していたことも、部を作るのに大騒ぎしたことも、あの子は知らない。

 でも、私の名前と階級は知っている。


 今日、どっちが勝つか。

 そのために来てる。


「ねえ、綾乃」

「何?」

「なんかさ、いいね、こういうの」


 綾乃は少しだけ笑った。


「うん。私もそう思う」


 美波はバッグからグローブを取り出した。


 さっき握手した相手の足を思い出す。

 前へ出ても、打ったあとにばたつかない足。


 あの子が拳を伸ばしてきたら、私はどこへ避ける?


 避けたあと、足はちゃんと残っている?


 そこから右を返せる?


 今までより、聞きたいことが増えた。


 美波はグローブを膝に置き、もう一度相手の待機場所を見た。


 早く、やってみたい。


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