第30話 新参者
綾乃は、相手校の女子選手一覧を見て、思わずページをめくり直した。
女子の欄が、男子と同じだけ丁寧に作られている。名前、学年、階級、競技歴。過去の対外試合の記録まで添えてあった。
別に、おかしなことではない。女子のボクサーが大学にいるのは知っているし、自分たちだって大学生だ。それなのに、これほど当たり前のように並んだ名前を見ると、少し落ち着かなくなる。
「綾乃、また同じとこ見てる」
隣の美波に言われ、綾乃は資料から顔を上げた。
「そうかな」
「さっきから3回目。もう名前覚えちゃったんじゃない?」
「覚えるところまでは……」
「真面目だねえ」
美波は笑っているが、手元の用紙には自分の出場階級の欄に小さく丸がついている。
他大学との対抗戦は、開催することで双方が合意した。今日は女子5人と、男子側の代表として真田と先輩が集まり、会場や出場条件について確認している。
会場は相手校の体育館。日程は候補日まで絞られた。まだ対戦相手が確定したわけではないが、実際に遠征する話になっている。
「向こう、慣れてそうだね」
美波が相手校の記録を指差した。
「女子だけで、こんなに遠征してるんだ」
綾乃は頷いた。自分たちは5人そろえるだけで苦労した。部になろうとして断られ、存続を懸けて男子と試合をして、ようやく同じボクシング部になれた。
向こうは、女子が試合に出ること自体を何とも思っていないのかもしれない。
「ちょっと質問していいですか!」
向かい側で資料を広げていたひまりが手を挙げた。
「女子がこんなにいる大学って、すごくないですか?」
「すごいと思うよ」
「ですよね! 私たち、5人目を探すのも大変だったのに」
千尋が顔を上げた。
「大学によって人数は違います。女子の対外試合が継続している大学なら、指導者や遠征の経験があること自体は不思議ではありません」
「つまり、向こうじゃ女子のボクシングも普通ってこと?」
美波が聞くと、千尋は資料を指で押さえた。
「記録を見る限り、そう考えるのが自然です。ただ、過去に部員集めで苦労したかどうかまでは分かりません」
「そっかぁ」
ひまりは少し考え、また用紙を見た。
「じゃあ私たち、向こうに行ったら珍しくないんですね」
「それ、私は嬉しいですけど」
律の声に、綾乃は顔を向けた。
「どうして?」
「ボクシングしに行くんですから。女子が5人もいるなんてすごいね、って言われに行くわけじゃありません」
律はあっさり言った。自分が小柄だとか、家族にボクサーが多いとか、そういうことをいちいち説明するのを嫌がる子だ。
綾乃は少し笑った。
「うん。そうだね」
相手がこちらの事情を知らないなら、説明しなくていい。リングに立てば、それで同じ選手だ。
そう考えると嬉しかったが、そのぶん怖くもなった。
◇
「先方から、組み合わせの希望も届いてます」
真田が書類を一枚回してくれた。
「ただ、まだ候補です。階級と経験を照らし合わせて、無理のない相手を決めるそうです」
綾乃は欄外の注意書きを追った。体重だけで決めるわけにはいかない。試合経験にも差があるし、当日の安全管理も確認が必要だ。
「こちらの立ち会い担当と、救護体制も詰めておかないとね」
「はい。大学側にも確認してます」
真田が頷く。男女が一つの部になって、こうして話し合えるようになったのは助かった。前なら、練習場所ひとつ相談するのも気を遣っていた。
只野の顔が浮かんだ。
技術のことなら、誰より頼りになる。でも、あの人が正式なコーチになったわけではない。遠征に来てくれるかどうかさえ分からないのだから、安全管理の役割まで勝手に当てにしてはいけない。
「綾乃先輩。私、何かやります!」
ひまりが勢いよく手を挙げ直した。
「ありがとう。じゃあ、遠征に持っていく用具の数を確認してもらえる?」
「はいっ!」
「千尋は、出場条件と提出する書類を整理してくれる?」
「分かりました。確認項目を共有します」
「で、私は連絡係でしょ?」
美波が先に言った。
「……まだ頼んでないよ」
「綾乃、そういう顔してるもん。みんなへの連絡は任せてよ。千尋の文章、そのまま送ったら通知が何画面にもなりそうだし」
「必要な情報を省いてはいけません」
「省かないって! 短く書くの!」
ひまりが吹き出した。
綾乃も、つられて笑った。ペンを握り直しかけた手を机に置く。
以前の自分なら、用具の確認も連絡も書類の整理も、一度は全部やってみようとしただろう。部長が把握していないことがあるのは嫌だった。
けれど、目の前の4人は、任せた仕事をきちんとやってくれる。
「じゃあ、お願いね」
そう言うと、美波が目を細めた。
「お。部長が仕事を手放した」
「仕事は手放してないよ。分担しただけ」
「そうそう、それ。いい感じ」
からかわれているのは分かったが、嫌な気はしなかった。
◇
会議のあと、練習場ではもうサンドバッグの音が響いていた。
ひまりは用具棚の前でグローブを数え、千尋はその横でメモを取っている。律は鏡の前で低い構えを繰り返していた。
綾乃は空いているバッグを選び、バンテージを巻いてグローブをはめた。
左足を前に置き、後ろ足に重心を残す。肩の力を抜いて左ジャブを出すと、拳がバッグの同じ高さに当たった。
――パンッ。
戻して、もう一度。
――パンッ。
悪くない。肘も開かないし、戻りも遅くない。
でも、その左で相手を止められるだろうか。
この前、只野には「全部70点」と言われた。攻撃も守りも人並み以上にはできるのに、相手が特別嫌がるものがない。
『1個、相手が嫌がるもん作れ』
あの言葉から、ずっと左ジャブを考えている。自分が最も信頼している一発だからこそ、ただ正しく打つだけで終わらせたくなかった。
「綾乃」
呼ばれて振り返ると、壁際のパイプ椅子に只野が座っていた。
「先生。いつ来たんですか?」
「さっきから」
「気づきませんでした」
「ひでえな」
只野は缶コーヒーを口へ運んだ。
「対抗戦、決まったんだって?」
「はい。向こうには女子選手もたくさんいるそうです」
「そりゃいいな。目の保養になる」
「向こうでも、そういうこと言わないでくださいね」
「まだ行くとも言ってねえよ」
「来てくれないんですか?」
「遠いんだろ。面倒くせえ」
綾乃はため息をついた。頼もしいのか頼もしくないのか、相変わらず分からない人だ。
バッグへ向き直り、もう一度左を出す。
――パンッ。
「なあ、その左」
「はい?」
「相手が嫌がると思って打ってんの?」
綾乃は拳を止めた。
「……それを考えてるんです」
「相手も見ねえで、何を嫌がるか分かんの?」
「分かりません」
「じゃ、見りゃいいだろ」
只野はもうコーヒーを飲んでいる。言いたいことだけ言って、こちらを見もしない。
綾乃はバッグの前で考えた。
名前も、戦績も、相手校の資料にはある。けれど、その選手が自分のジャブをどう避けるかなんて、紙を眺めていても分からない。
「律、少し相手をお願いできる?」
鏡の前にいた律がすぐに振り返った。
「はい。私も続きがやりたかったです」
真田にリングが空いていることを確認してから、2人で上がる。互いにグローブを合わせ、強く打たず、軽い接触で攻防を確かめることにした。
「律はいつもどおり入ってきて。私の左を見て、どう動くか知りたいの」
「分かりました」
律が腰を落とした。小さな身体がさらに低くなり、前足がわずかに床を滑る。
綾乃はジャブを伸ばした。
律がその軌道から頭を外し、踏み込んでくる。綾乃の拳は右グローブに軽く触れたが、律の勢いは止まらなかった。
「一回止めよう」
互いに距離を取る。
「今、左が当たったよね」
「はい。ガードに当たりました」
「でも、入ってきた」
「入れそうだったので」
以前も、同じことを言われた。
ジャブは当たる。なのに、怖がらずに入ってくる。綾乃は、律の前足を見た。
「もう一回、お願い」
律の膝が緩んだ。潜ってくる、その直前に綾乃は少し踏み込み、左を先に伸ばした。
――パシッ。
グローブへ触れてすぐに拳を戻す。もう一度左を見せると、律の前足がぴたりと止まった。
「……今、止まったよね」
「はい。先に左が来たので、いつものところには足を置けませんでした」
律は自分の足元を見ていた。
綾乃は思わず笑いそうになった。左が当たったからではない。律が、入ろうとしていた場所を変えたからだ。
「ありがとう。もう一回いい?」
「はい」
今度は止まらなかった。律は先に見せたジャブを見て、足の向きを変えていたのだ。
そのまま綾乃の前手の外を潜ろうとする。
「はい、ここまで」
律が足を戻した。
「今のは、入れそうでした」
「うん。さっきと角度を変えたでしょ」
「左が早かったので、同じ入り方はやめました」
律に礼を言い、グローブを合わせる。
一度止められたからといって、次も同じように止まるわけではない。律は自分で考え、入り方を変えた。
でも、綾乃にも分かったことがある。
相手がこちらの左を見て、何を変えたか。
それなら、今までよりはっきり分かる。
リングを降りると、只野がこちらを見ていた。
「どうだった?」
「一度、律の足を止められました。でも次は違う入り方をされました」
「で、どうすんの?」
「……まだ考えてます」
「なら、やれよ」
只野はあっさり言って、椅子にもたれた。
綾乃はもう一度リングを振り返った。宿題の答えは出ていない。それでも、次に試したいことはできた。
◇
練習が終わる頃、真田が印刷した一覧を持ってきた。
「白石先輩。先方から、出場候補の追加資料が来ました」
女子用の一覧が5枚、長椅子の上に並ぶ。
「階級と競技歴、最終確認をお願いします。組み合わせは、それからです」
「ありがとう」
綾乃が一枚取ると、美波たちもそれぞれ資料を受け取った。
「私の相手、どの人ですか!?」
ひまりが勢いよく覗き込む。
「まだ候補だよ。経験も確認してから決めるから」
「はい!」
律は相手の名前より先に階級を見ている。千尋は競技歴へ目を移し、美波は知らない選手の名前を声に出して読んでいた。
みんな、気になるところが違うんだな。
綾乃は自分の欄を見た。名前と戦績は分かる。けれど、実際に向かい合ったら、どんな距離を取る選手なのか。こちらの左を見て前へ出るのか、それとも下がるのか。
その答えは、まだここにはない。
「綾乃、緊張してる?」
美波が顔を覗き込んできた。
「少しね」
「珍しい。私は楽しみだなあ」
「美波は緊張しないの?」
「するよ。だから楽しいんじゃん」
綾乃は笑った。
自分たちは、他大学と戦うのが初めてだ。向こうにとっては、数ある対抗戦の一つかもしれない。女子が5人いることを珍しがられもしないのだろう。
それでいい。
自分たちがどうやってここまで来たかを、相手に分かってもらう必要はない。リングで確かめたいのは、今の自分のボクシングがどこまで通じるかだった。
綾乃は資料を閉じかけて、もう一度開いた。
律の足が一瞬止まったときのことを思い出す。その次には、すぐに動かれたことも。
外のリングで、同じ左を出したら相手はどう動くのだろう。
早く、確かめたかった。




