第29話 次があるなら
「簡単なんて言ってねえよ」
只野は、ぬるくなった缶コーヒーを持ったまま真田を見上げた。
真田は首にかけたタオルを握りしめている。
目を逸らさない。
「でも、次勝ちゃいいって言いましたやん」
「勝てるなんて言ってねえだろ」
「……」
「お前、左もらったあと、反射で右返してたんだろ。そんで、相手に読まれてた。違うか?」
「……違いません」
「じゃあ、そこを使えって言ってんだよ」
只野は缶コーヒーを口へ運んだ。
ぬるい。
自動販売機から出てきたばかりのときは、もう少しましな温度だった気がする。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「右を捨てろなんて言ってねえぞ。お前の右は速いんだろ」
「……はい」
「だったら、相手が待ってるときまで同じように打つなって話だ。右を打つかどうか、相手に決めさせんな」
真田は黙り込んだ。
頭の中で何かを組み立てている顔だった。
こいつは、言われたことをそのまま飲み込まない。
一度、自分の中でこねくり回して、納得できる形にしてから持ち帰ろうとする。
それが悪いとは言わない。
ただ、リングの上でいつまでもこねくり回していたら、その間に相手の拳が飛んでくる。
「……簡単やないですよ」
「だから簡単なんて言ってねえだろ」
「分かってます」
「分かってねえ顔してんぞ」
「どんな顔ですか」
「面倒くせえ顔」
「そっちは、いつもやないですか」
「誰がだよ」
真田の口元が、ほんの少し緩んだ。
只野は鼻を鳴らした。
生意気なガキだ。
だが、さっきまでの思いつめた顔よりはましだった。
◇
真田がリングへ戻っていった。
先輩と向かい合い、軽くグローブを合わせる。
先輩の左ジャブが伸びた。
真田は右を返さなかった。
代わりに足を少し動かし、相手の正面から外れる。
それだけだった。
次の左には、右を返しかけた。
右肩が前へ動き、拳が出かかる。
だが、途中で止まった。
相手の足が、もう一歩前へ詰めてきていたからだ。
真田はガードを戻し、距離を取り直す。
「おっせえなあ」
只野がぼそりと呟くと、聞こえたのか、真田がリングの上からこちらを睨んだ。
「何ですか!」
「何でもねえよ」
「今、遅いって言いましたやん!」
「聞こえてんなら直せよ!」
「どう直すんですか!」
「俺に聞くな!」
真田が言い返しかけた瞬間、先輩のジャブが飛んできた。
慌てて両腕のガードを上げる。
――パシッ。
グローブが触れた。
真田は今度、すぐには右を返さなかった。
相手の前足を見る。
肩の位置を見る。
それから、自分の足を動かした。
遅い。
まだ遅い。
けれど、何も見ずに右を振っていたさっきよりはましだった。
只野は缶コーヒーを傾けた。
こういうのは、今日明日ですぐに変わるもんじゃない。
何年もかけて身体の奥まで染みついた動きは、頭で少し意識した程度で消えてくれない。
むしろ、意識し始めたせいで、今まで自然にできていた動きまでぎこちなくなる。
それでも、気づかないまま同じ罠にはまり続けるよりはいい。
少なくとも真田は、自分がリングの上で何をしているのか、見ようとしている。
「……」
只野は、真田から目を離した。
こんなことを真面目に考えている自分が、どうしようもなく気持ち悪かった。
男の練習なんか、見るつもりはなかったのだ。
練習場の隅に座って、若い女子部員の胸や脚を眺めて、暇つぶしに口を挟む。
それくらいでよかったはずだ。
なのに、いつの間にか真田の右肩を目で追っている。
左を受けた瞬間、本人が考えるより先に右肩が前へ出る。
身体が勝手に次の答えを出してしまうなら、身体に別の選択肢を覚えさせるしかない。
……本当に、面倒くせえ。
只野は残っていたコーヒーを飲み干した。
◇
自分にも、そういう時期があった。
いや。
あったというより、現役の頃はずっとそうだったのかもしれない。
只野は空になった缶を指先で回した。
リングの上で、自分の拳が届く距離は分かっていた。
相手が下がる歩幅も、踏み込んでくる呼吸も、肩が動く前の小さな重心の揺れも。
見えていた。
だから勝ってきた。
倒して、倒して、また倒した。
24戦24勝24KO。
世界タイトルに挑む前まで、負けることなど考えていなかった。
仮に負けたとしても、次に勝てばいい。
そう本気で思っていた。
あの試合が終わったあとも、そうだった。
ラスベガス。
MGMグランド・ガーデン・アリーナ。
向かいに立っていたのは、WBA・WBC世界スーパーミドル級統一王者、エヴァン・コールドウェル。
身長183センチ。
自分より十センチ高い、無敗のアメリカ人王者だった。
1ラウンドから5ラウンドまで、毎ラウンド一度ずつ、コールドウェルの身体が崩れた。
五度。
公式にダウンと認められたのは、そのうち二度だけだった。
残る三度は、スリップと裁定された。
床が滑ったわけじゃない。
拳が届き、身体が折れ、脚が支えを失った。
それでも、スリップだった。
5ラウンドを過ぎると、コールドウェルは距離を潰し、クリンチを増やした。
ロープ際へ逃げ、頭を低くし、危なくなれば背中を向ける。
追えば、レフェリーが止めた。
後頭部への打撃だと注意されるたび、王者には息を整える時間が生まれた。
こっちは、止められるたびにリズムを切られた。
それでも、最後まで勝つつもりでいた。
12ラウンドが終わった。
採点は、114対112、114対112でコールドウェル。
115対111で、只野。
2対1のスプリット判定。
公式記録は、只野の判定負けだった。
24勝1敗、24KO。
数字だけなら、ただの一敗だ。
だが、あの一敗のあと、次の試合が決まらなかった。
只野は、そこで終わりだとは思わなかった。
次がある。
再戦がある。
もう一度同じリングに上がれば、今度こそ決着がつく。
だから日本へ戻っても練習を続けた。
減量で削れた身体を戻し、いつでも試合を受けられるようにしていた。
電話を待った。
一か月。
三か月。
半年。
何も決まらなかった。
再戦の話は消えた。
別の試合の話も来なかった。
誰かが目の前に来て、「お前にはもう次がない」と告げたわけではない。
ただ、誰からも連絡が来なくなった。
それだけだった。
それだけで、リングへ戻れなくなった。
「……」
只野は空き缶を握りつぶした。
薄い金属が、指の中でべこりとへこんだ。
くそ。
今さら昔のことを掘り返したところで、何も変わらない。
あのとき、何をすればよかったのか。
誰に頭を下げ、何を言えば、次が組まれたのか。
49歳になった今でも分からない。
分かったところで、もう遅い。
只野は潰れた空き缶をゴミ箱へ放り投げた。
乾いた音を立てて縁に当たり、床へ転がった。
「……ちっ」
立ち上がって拾いに行く気力すら湧かなかった。
◇
「只野さん」
頭上から声がした。
顔を上げると、真田がリングから降りてきていた。
額の汗をタオルで拭き、少し気まずそうに立っている。
「何だよ」
「さっきの話ですけど」
「まだあんのかよ」
「……はい」
真田は一度、リングの方を振り返った。
相手をしていた先輩が、グローブを外しながらこちらを待っている。
「俺、右を捨てるつもりはないんです」
「捨てろなんて言ってねえだろ」
「分かってます。でも、あの右があったから、今まで勝ってこれたんです」
「おう」
「だから……あれを変えるのは、正直怖いです」
只野は真田の目を見た。
自分の最大の武器に手を入れることが、これまで積み重ねたものまで否定するように感じるのだろう。
分からなくもない。
勝たせてくれたものだ。
それを疑うのは、怖いに決まっている。
「別に、右を捨てなくていいだろ」
「……はい」
「右が通じる相手なら、右を打てばいい。通じねえ相手なら、別のことをやれ。それだけだ」
「……」
「お前、右を打つなって言われたら、一生右を打たなくなるのか?」
「いや、それは……」
「だったら、右を打てる状態をいつでも作っとけよ」
真田が顔を上げた。
「相手が俺の右を待ってるときは、どうするんですか」
「待ってるなら、その瞬間は打たなきゃいいだろ」
「……」
「お前、どうしても右を当てたいんだろ」
「はい」
「だったら、相手が一番嫌がるときに打てよ。待ってるところへバカ正直に放り投げて、気持ちよく避けられて、また同じことやって。そんなんじゃ、いつまでたっても右が読まれたままだろうが」
只野は、そこで口を閉じた。
少し喋りすぎた。
真田が、まっすぐこちらを見ている。
「……何だよ」
「いえ」
「何だよ。気色悪い」
「只野さん、ちゃんと教えてくれるんですね」
「教えてねえよ!」
只野は即座に怒鳴った。
「今のは、お前の動きが不細工で、見てて腹が立っただけだ!」
「そうですか」
「そうだよ!」
真田がふっと笑った。
こいつ、絶対に分かっていない。
「ありがとうございました」
真田が深く頭を下げた。
只野はそっぽを向き、返事をしなかった。
真田はそれ以上何も言わず、リングへ戻っていった。
再開された約束練習。
今度は、先輩の左ジャブが飛んできても、真田はすぐには右を返さなかった。
頭をわずかに外す。
前足を動かす。
相手がその場に残っているか、引き始めているかを見る。
それから、先輩が引ききる前に右ストレートを出した。
――パシッ。
グローブが触れた。
強い打撃ではない。
けれど、相手のガードが上がった隙間へ、真田の右が届いていた。
先輩が何か声をかけ、真田が頷く。
もう一度、二人が向かい合う。
只野は、そこから視線を外した。
これ以上見ていたら、また余計な口を挟みたくなる。
面倒だ。
本当に面倒くさい。
俺は、なんでここにいるんだろうな。
◇
練習の終了時間が近づいた頃、真田の先輩が一枚の書類を持ってきた。
「真田、ちょっとええか」
「はい」
「学生課経由で、よその大学から話が来とる」
真田が書類を受け取った。
只野はパイプ椅子から立ち上がる気もなく、女子たちの練習を眺めていた。
美波がひまりに何かを言い、ひまりが大きな声で笑っている。
千尋はタブレットを見ている。
綾乃はリングの端で左ジャブを繰り返していた。
律はその横で、低く構えては踏み込みを試している。
いつもの光景だ。
ただ、最近は少しだけ違う。
全員、自分の動きを気にするようになった。
何ができるか。
何ができないか。
それを見ようとしている。
「……これ、対抗戦の話ですか?」
真田の声が聞こえた。
只野は顔を上げた。
「そうや。向こうの大学から、合同練習を兼ねた対抗戦をやらへんかって打診が来とる」
「他大学と、ですか?」
「おう。男子だけやなく、女子の試合も組めるそうや」
練習場の空気が変わった。
美波が顔を上げる。
ひまりの手が止まる。
千尋がタブレットから目を離した。
律は構えたまま、綾乃を見た。
綾乃は一度、みんなの顔を見渡した。
「……受けたいです」
短い言葉だった。
けれど、迷いはなかった。
「女子も、男子も。今の私たちが、外でどこまで通用するのか試したいです」
真田が頷いた。
「俺も、やりたいです」
只野は欠伸をした。
他大学との対抗戦。
新しい部になって、初めて外へ出る。
今までは、目の前の相手と練習して、目の前の相手に勝てばよかった。
これからは違う。
相手は、自分たちのことを知らない。
倉庫で練習していたことも、同好会だったことも関係ない。
リングの上で何ができるか。
見られるのは、それだけだ。
「只野さん」
綾乃がこちらを見た。
「何だよ」
「対抗戦に出ることになったら、練習を見てください」
「やだよ。面倒くせえ」
「まだ正式には決まってませんけど」
「決まってもやだよ」
「じゃあ、どうして今日もここにいるんですか」
「……」
只野は答えなかった。
美波が、にやにやしながら口を挟む。
「先生、もう逃げられないよ?」
「だから先生じゃねえ!」
笑い声が上がった。
只野は舌打ちし、椅子に座り直した。
まただ。
また面倒なことになった。
それなのに、リングの上では律がもう一度、低く構えていた。
美波が笑いながらグローブを上げる。
ひまりがミットを持つ。
千尋が記録を再開する。
真田は書類を読み直し、先輩と日程や出場条件を確認していた。
綾乃は、全員の顔を見ていた。
ここにいる連中には、次がある。
まだ試せる。
まだ直せる。
まだリングに立てる。
只野は自分の指先を見た。
さっき潰した空き缶のへこみが、視界の端に残っている。
「……次があるなら、そこ使えって言ってんの」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
真田の右か。
女子たちの次の試合か。
それとも、もう戻れない自分のことか。
只野は考えるのをやめた。
考えたところで、過去に次が生まれるわけじゃない。
だが、こいつらの次なら、まだここにある。
「只野さん」
真田が顔を上げた。
「日程はこれから調整ですけど、対抗戦を開くこと自体は、双方で合意できそうです」
「ふうん」
「正式に決まったら、また相談させてください」
「勝手にしろ」
只野はそっぽを向いた。
面倒だ。
本当に面倒くさい。
それでも、話は前へ進んでいた。
日程も、組み合わせも、これから決まる。
けれど、新生ボクシング部が初めて他大学と戦うことは、もう決まった。
只野はリングを見たまま、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……俺、なんでここにいるんだろうな」




